【読了 2019.02.27】
なんというか、難しくて。(文章が)
読みの難しい漢字にルビが振られていることもあるのですが、次のページにいったらもうルビはなくて。
覚えられないんですよね…。
かといって難読漢字のメモを取ってまで…と思って適当に読むのでますますわからんようになる。
始めに断っておくと、私高村薫さんの小説は好きなんですよ。
表現は難しいけどストーリーの作り方とか、社会に問いかけるような内容とか。
合田雄一郎とか(そこか)。
小説が面白い人がその他の文章ももれなく面白いってわけじゃないのも理解してます。
ので、その辺理解したうえで読んでいただけると。
内容は空海の成してきたことと時代における信仰、現在のありようなどを思索する、というもの。
私は最終的に、そこに着地するんだ…というような感覚になりました。
もう1周読むつもりではあるのですが、なんかこう釈然としない。
誰かの頭の中で構成され、出来上がったものを表現するというのは難しいんだろうなぁと思うけど、この場合は編集者が「この表現を足したい」とか「この表現は難しい」とかそういう指摘も出来たろうに…と思ったりもする。
(新リア王の連載で編集サイドとの行き違いから訴訟にまで発展したぐらいだからなかなか難しい人なんかなとは思うんですけどね)
空海をめぐる思索の旅を書きました、みたいな感覚なのかなぁと。
てっきり「親鸞(五木寛之)」みたいに「空海の人生小説にしました」みたいな内容かと思ってたので余計なんか違う感が自分の中に充満している…。
日常的に幻聴じゃなかろうかというような声が聞こえたり光が見えたりしてる人間としては神秘体験そのものが衝撃を与えたみたいなのはあんまり考えなくて、どちらかというと現代よりも平安の時代やそれに類する時代の方が神秘が起こりやすかった(まだ世界に今ほど雑念や物質的なエネルギーが渦巻いてなかった)と思うんですよねぇ…。
だから最初の室戸での神秘体験もそれ自体が衝撃を与えたというよりも自身が思い描いたものが「あってるんか?」って思ってそれを確かめに唐に渡ったんだろうと思うんですよね。
恵果和尚も空海が来るのを待っていたっていうのは、空海その人が自分の教えをつなぎに来るって「大いなる智慧」から伝えられていたと思うんですよね。
その時代は陰陽師も呪いもいろんないわゆる今でいう魔法的なものもある程度できたと思うんですよ。
めっちゃ強力とかそうではなくてもね。
こういうこと言ってると頭大丈夫かな、と思われるのも知ってますよ。
大丈夫です、そういう発想が現代社会では超マイノリティだということはわかってます。
「偶然は必然」と言ってはばからない人の言葉を借りれば、あの時代遣唐使団は遭難するのが当たり前で相当数が海の藻屑と消えていった中、彼と最澄という偉大な仏教指導者は確実に唐にたどり着いたというのは必然である、仏に守られているのだから到達できて当然であるという解釈もできるんですよねぇ。
今なお空海先生は御廟で修業なさっておいでとのことですが、ダライ・ラマ先生が14世まで輪廻してることを考えると空海先生も輪廻の最中なんですかね…。
それとも空海先生は解脱したのでしょうか。
これを読んで、最終的に専修念仏って、祈るだけで救済されるわけだから結局ほかの宗教みたいな域に至ったてこと?と内容と全く関係ないところに行き付くっていうね。
とりあえず、もう1回読むかな…。
といいつつ、次はこれ。
なんというか、難しくて。(文章が)
読みの難しい漢字にルビが振られていることもあるのですが、次のページにいったらもうルビはなくて。
覚えられないんですよね…。
かといって難読漢字のメモを取ってまで…と思って適当に読むのでますますわからんようになる。
始めに断っておくと、私高村薫さんの小説は好きなんですよ。
表現は難しいけどストーリーの作り方とか、社会に問いかけるような内容とか。
合田雄一郎とか(そこか)。
小説が面白い人がその他の文章ももれなく面白いってわけじゃないのも理解してます。
ので、その辺理解したうえで読んでいただけると。
内容は空海の成してきたことと時代における信仰、現在のありようなどを思索する、というもの。
私は最終的に、そこに着地するんだ…というような感覚になりました。
もう1周読むつもりではあるのですが、なんかこう釈然としない。
誰かの頭の中で構成され、出来上がったものを表現するというのは難しいんだろうなぁと思うけど、この場合は編集者が「この表現を足したい」とか「この表現は難しい」とかそういう指摘も出来たろうに…と思ったりもする。
(新リア王の連載で編集サイドとの行き違いから訴訟にまで発展したぐらいだからなかなか難しい人なんかなとは思うんですけどね)
空海をめぐる思索の旅を書きました、みたいな感覚なのかなぁと。
てっきり「親鸞(五木寛之)」みたいに「空海の人生小説にしました」みたいな内容かと思ってたので余計なんか違う感が自分の中に充満している…。
日常的に幻聴じゃなかろうかというような声が聞こえたり光が見えたりしてる人間としては神秘体験そのものが衝撃を与えたみたいなのはあんまり考えなくて、どちらかというと現代よりも平安の時代やそれに類する時代の方が神秘が起こりやすかった(まだ世界に今ほど雑念や物質的なエネルギーが渦巻いてなかった)と思うんですよねぇ…。
だから最初の室戸での神秘体験もそれ自体が衝撃を与えたというよりも自身が思い描いたものが「あってるんか?」って思ってそれを確かめに唐に渡ったんだろうと思うんですよね。
恵果和尚も空海が来るのを待っていたっていうのは、空海その人が自分の教えをつなぎに来るって「大いなる智慧」から伝えられていたと思うんですよね。
その時代は陰陽師も呪いもいろんないわゆる今でいう魔法的なものもある程度できたと思うんですよ。
めっちゃ強力とかそうではなくてもね。
こういうこと言ってると頭大丈夫かな、と思われるのも知ってますよ。
大丈夫です、そういう発想が現代社会では超マイノリティだということはわかってます。
「偶然は必然」と言ってはばからない人の言葉を借りれば、あの時代遣唐使団は遭難するのが当たり前で相当数が海の藻屑と消えていった中、彼と最澄という偉大な仏教指導者は確実に唐にたどり着いたというのは必然である、仏に守られているのだから到達できて当然であるという解釈もできるんですよねぇ。
今なお空海先生は御廟で修業なさっておいでとのことですが、ダライ・ラマ先生が14世まで輪廻してることを考えると空海先生も輪廻の最中なんですかね…。
それとも空海先生は解脱したのでしょうか。
これを読んで、最終的に専修念仏って、祈るだけで救済されるわけだから結局ほかの宗教みたいな域に至ったてこと?と内容と全く関係ないところに行き付くっていうね。
とりあえず、もう1回読むかな…。
といいつつ、次はこれ。