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 永峰秀樹と『数盤』そろばん 『文学と歴史』第6号 「甲州の和算家」弦間耕一氏著抜粋 一部加筆

2023年09月07日 08時10分14秒 | 山梨 文学さんぽ

 永峰秀樹と『数盤』そろばん
『文学と歴史』第6号 「甲州の和算家」弦間耕一氏著抜粋 一部加筆

 そろばんが中国から日本に渡来して、実用化するのは、江戸時代に入ってからのことで、毛利重能の『割算書』や吉田光由の『塵劫記』が著わされ、普及していったのである。
 和算の伝統は、そろばんの中に活かされ、簡便な計算機磯が出現しても、珠算塾はなかなかの盛況を示している。
県内で大きな珠算学院を経営している、甲府市上石田三三番地の相川源治先生は、そろばんの蒐集家としてもよく知られている。その相川源治先生の所には、そろばんの当て字を並べて作った珍しい「のれん」がある。
 それらの当て字の主なものを紹介してみよう。

 算馬  割算書   毛利重能  元和八年 
 十露盤 毛吹草   松江重板  寛永十五年
 算番  算元記   藤岡茂元    明暦三年
 算盤  訓蒙図嚢  中村陽斉  寛文六年
 珠盤  数学夜話  近藤遠里  宝暦十一年
 珠算  算学定位法 小川愛道  明和五年
 ろくろ 物類称呼  越谷吾山  安永四年
 十路盤 早変胸機関 式亭三馬  文化七年
 揃盤  松屋筆記  小山田与馬 文化十一年
10、算玉盤 広用算法  藤原徳風  文政十年
11、球子盤 算話随筆  古川氏一  天保期
12、十六盤 いろは文庫 為永春水  天保十年
 13、珠算盤 真元算法  武田真元  弘化二年
 14、数盤  華英辞典  永峰秀樹  明治十四年
 15、数版  大言海   大槻文彦  昭和七年
 ざっと十五の当て字を掲げたわけであるが、昭和三十五年に出版された『そろばんの歴史』には、四十。
昭和五十四年に発行された『ものがたり珠算史』には、出典不明のものを含めて五十五の当て字や異名がぁる。
 ここに掲げた十五の中には、『浮世風呂』の著者で知られる式亭三馬や『春色梅暦』を書いた為永春水が出てくる。
 明治になってからは、本県出身の永峰秀樹が使った、『数盤』がある。
相川源治先生の「のれん」 には、疎呂盤・数盤・算呂盤・球算など鮮名に記されている。
 永峰秀樹は、嘉永元年に巨摩郡浅尾新田(明野村)の蘭法医小野通仙の四男として生れ、微典館で学んだのち幕臣永蜂家を継いだ。
生家には泉、春助、琢輔と三人の兄があったが、いずれも医者になった。長兄の泉は、長崎オランダ館医シーボルト門下の戸塚静海と、巨摩郡藤田村(若草町)出身の蘭学者広瀬元恭に師事した。彼は種痘をひろめ、明治三年に県立病院の設立を提唱して実現させたほか『峡中新聞』の編集、『甲斐国志』の校訂『山梨県地誌略』の刊行などをやっている。秀樹はこの兄泉から漢籍の手ほどきなど、多くの感化をうけ育てられた。
 秀樹は、明治になって海軍兵学校に学生として入るが、秀才だった彼は間もなく、教授になることをすすめられ、はじめは数学教授、のちに本格的な英語教授となる。開校したばかりの兵学校では、学生も教授も同じようなレベルで、教え子の中に東郷平八郎(のち元師)や山本権兵衛(のち首相)らがいた。
 この秀樹は、山梨県人に意外と知られていないが、明治八年に日本で初訳の『アラビアンナイト』を出し、その後、ギブー原著の『ヨーロッパ文明史』などを抄訳し、英文学者として大きな功績を残している。
秀樹についての研究は、保坂忠信先生の『郷土史に輝く人々』で詳しい。今川徳三先生も毎日新聞に寄稿されている。
 『数盤』のおもしろさだけでなく、明治十一年に甲府の内藤伝右衛門によって出版された、永峰秀樹著『筆算教授書』は山梨の数学史を研究する者にとっては、明治の筆算を知ることのできる貴重な書である。


江戸隅田川界隈 八丁堀

2023年09月07日 05時08分08秒 | 歴史さんぽ

江戸隅田川界隈 八丁堀

京橋川の下流、白魚橋の東の川筋を八丁堀という。八丁堀は中ノ橋の下を流れて、稲荷橋のところから隅田川に注ぐ。八丁堀の名は、寛永年中(一六二四~四三)に、船の便利を計って八丁にわたる堀をこしらえたためともいい、また、名主の岡崎十左衛門の先祖は、三河国岡崎の八丁村の者で、家康入国と共に江戸に出て来てこの土地を賜ったので、八丁村にちなんで八丁堀と名付けたともいう。

いずれにしろ、初めは川の名であったのが、この辺一帯の町の総称(中央区日本橋茅場町一丁目、二丁目、三丁目のうちと、八丁堀一丁目、二丁目、三丁目のうち)ともなった。北岸を北八丁堀、本八丁堀、南岸を南八丁堀といった。 

八丁堀は、江戸の治安に任じる、南北面奉行所の与力・同心の居住する

地区であった。三田村鳶魚によると、大体、与力は二百坪、同心は百坪くらいの役宅に住んでおり、扶持高は、与力は年功にも寄るが、ほぼ二百有、同心が三十俵二人扶持であったという。

 『江戸砂子』に。

 八丁堀 五丁あり、北八丁堀という。五丁目に稲荷橋あり、南橋詰に稲荷の社あり。とあり、五丁目に稲荷の社があった。

  腕木にも彫物のある稲荷橋

この辺りには町奉行所付きの与力、同心の住まいが多く、北町奉行遠山左衛門尉景元(通称金四郎)が彫物をしていたことに掛けた句。「腕木にも」の「も」にそれが表れている。稲荷橋の腕木には何かの彫刻があったのであろう。

 八丁堀三丁目には、かの紀文大尽として名高い紀伊国屋文左衛門の邸宅があった。その実人生は多分に歴史的な俗説に覆われていて定かでないが、俗説に従うと、ある年の十一月八日の績祭のころ、風波のため航路が絶え紀州蜜柑が江戸で騰貴し、地元の紀州で下落した千載一遇の機会に、決死の覚悟で蜜柑を江戸に輸送し、一挙に五万両の巨利を博した。

「沖の暗いのに白帆が見える あれは紀伊国蜜柑船」

という俗謡により、今も世人に深い印象を与えている。資産を得た文左衛門は江戸に出て八丁堀に居を構え、幕府の御用達商人となり、上野寛永寺の根本中堂の資材調達などを行って巨富を積んだ。また明暦の大火の折、機を見るに敏な彼は昼夜兼行して木曾に至り、木材の買い占めを行って巨万の富を得たともいう。その豪奢な生活は、同時代の奈良屋茂左衛門と並び称され、「紀文大尽」として世に持て囃された。

『武江年表』の「元禄年間(一六八八~一七〇三)の条に、

 

  本八丁堀三丁目住紀伊国屋文左衛門(材木屋にして世にいう紀文大尽なり。俳号千山という)、霊巌島住奈良屋茂左衛門(材木屋なり。世にいう奈良茂大尽なり)、この両人、元禄中俄かに大分限となりし人の子にて、花街雑劇に遊び、種々の娯しみをなし、巨万の宝を費やしけること、諸人の知るところゆえここに贅せず。

とあり、二人とも財にあかして豪興に贅を尽くし、ともに蕩尽したことがわかる。

  紀伊国短蜜柑のように金を撒き 大門を八丁堀の人が打ち

先に挙げた鞴(ふいご)祭というのは、鞴を用いる鍛冶屋や鋳物師などがその守護神を祭る神事であるが、前の句は、鞴祭の時、鍛冶屋が蜜柑を撒くように、記文が金貨を撒いたというので、ある年の節分に吉原で小粒や小判を撒いたという紀文大尽の名高い豪興の振舞い。後の句の、「大門を打つ」というのは、吉原を一人で買い占め、大門を閉めさせて外の客を入れずに遊興する意で、紀文は吉原の大門を打つことが二度に及んだという。

因みにいうと、当時「日千両」という語があり、一日に千両の金が動くという意で、日本橋の魚河岸、二丁町(堺町・葺短町)の芝居、吉原の遊里の三か所について言われた。つまり、大門を打つには千両の金が掛かったのである。後の句は紀文が吉原を買い占めたという意。

 なお、神田にも八丁堀という地名があった。ここも元は堀の名で、常盤橋の西北竜閑橋の辺から東進し、馬喰町に達した堀で、明暦の大火(一六五七)後、防火のために開いた八丁の堀。神田堀、神田八丁堀、銀町堀、銀堀などという。天和年中(一六八一~三)に掘られ、安政四年に埋められた。

 

 (栃面屋弥治郎兵衛は)やがて江戸に来り、神田の八丁堀に新道の小借家住まい、少しの貯えあるに任せ、江戸前の魚の美味に、豊島屋の剣菱、明樽幾つとなく、長屋の手水桶に配り、ついに有り金を飲み尽くし、(下略)(滑稽本「東海道中膝栗毛」発端)そもそもわれわれは、神田の八丁堀に年久しく住まいいたす和泉屋清三と申すものの家来なり。(黄表紙「金々先生栄花夢」)

(女郎)もしえ、ぬしの家は、花菊さんの客人の近所かえ。

(息子)いいえ、違いやす。

(女郎)どこざんすえ。(息子)神田の八丁堀さ。

(女郎)嘘をおつきなんし。よくはぐらかしなんすよ。

(洒落本「傾城買四十八手」)

などとして用いられ、江戸の文学作品に登場する神田八丁堀は、特異な用い方がなされ、架空の人物の住む所、あるいは三つ目の用例のように、すぐに嘘とわかるようにわざと戯れにいう地名として用いたりした。


太宰治と甲府 『新樹の言葉』 白倉一由 しらくらかずよし 著

2023年09月06日 21時20分11秒 | 山梨 文学さんぽ

太宰治と甲府 『新樹の言葉』

 

白倉一由 しらくらかずよし 著

 

『新樹の言葉』は深い反省とこれから生きるべき決意の表明である。『新樹の言葉』は新生への言葉である、が、相手に対する普遍的受………自己中心的な愛でなく、相手のことのみを考える受かある晦初めて実現できるものであることを示唆している作品である。

 

 『女生徒』は女生徒の一人称告自体の形式を用い読者に語りかけると言う独特の構想によっている。

五月一日の起床から就寝までの一日の生活を描き、若い女性の心理の動揺を詳細に揺写している。

 朝は灰色で圧世的で自賛がない。一人で食事をし、畠道を通り駅へ行き電車でお茶の水の学校に行く。学校ではモデルなんかし、放課後は美容院へ行き、帰宅して母と客のためにロココ料理を作る。独り風呂に入り、客を送って戻った母の肩をもみ、夜中洗濯をして床につく。この一日の間に少女が大人になる肉体の成長、微妙な心理を描いている。労働者・先生・電車の中の女性・母・客など相手を細かに観察し鋭く批判し、大人、女の醜さ・醜悪さ・世俗さを感

じ、純粋さ・素直さにあこがれ、理想的なものを求めようとするが、生きていくためにはそれを押し通すこともできなく両者の間に微妙に揺れる自己を発見する。

 雑誌などで人々はいろいろのことを説くが、本当の受、本当の自覚が書かれていなくたよりない。又理想のみを求めることができない俗世間への不安、父の死、姉の結婚など人生の楽しさを失いかけている自分、私の好きなロココの芸術は…華監のみで内容空疎の装飾様式…であり、…純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。…と私の考える美の世界など私の心境を示す。

 私は外部の世俗的な人々に批判的で不安であるが、生きる明るさはある。明日も又同じ日がくるであろう。幸福は一生来ないのだと解っていながら、きっとくる、明日は来ると信じて生きようとしている。

…幸福は一夜おくれて来る。………幸福は遅れてくるがそれを待ち続ける者である。

 私は少女であるが太宰である。現世の人間への疑問を持ち不安であり、理想、純粋さを求めるが人々の思惑を考え卑屈に生きなければならない。平和なやすらぎの中にある不安であるが、とにかく明日は来るであろう幸福を信じ、遅れてくる幸福を待とうとしている。

 平静な調和の中に一時の安らぎを求める太宰を伝えている。

 待つことに芸術家の大成を決意している大宰をみることができ、前期のロマンチズムから中期のリアリズムヘ移行していく太宰治を読みとることができる。

 


夏山に足駄を拝む首途(かどで)哉 (奥の細道)『芭蕉全発句』下巻 山本健吉著 昭和49年刊 河出書房新社

2023年09月06日 18時43分21秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

夏山に足駄を拝む首途(かどで)哉 (奥の細道)

 

 『芭蕉全発句』下巻 山本健吉著 昭和49年刊 河出書房新社

 

元禄二年

 

元禄二年 己巳(一六八九) 四六歳

 

紀行の前文に

「修験光明寺と云有。そこにまねかねて、行者堂を拝す。」

 

餘瀬翠挑宅に近い修験堂の寺である。

『曾良書留』には「夏山や首途を秤む高あした」の形で出ている。初案である。

 

行者堂には役の行者が祭ってある。その像の高足駄に対して、その健脚にあやかりたい気持をこめて拝むのである。いよいよ白河の関を越えるのだから、これから踏み越えるべき奥州路の山々を心に描いて「首途」と言ったのだ。「足駄を拝む」に、芭蕉の前途幾百里の思いがこもっている。

 


田や麥や中にも夏のほとゝぎす(雪まろげ) 『芭蕉全発句』下巻 山本健吉著 昭和49年刊 河出書房新社

2023年09月06日 18時26分52秒 | 山梨 文学さんぽ

田や麥や中にも夏のほとゝぎす(雪まろげ)

 

『芭蕉全発句』下巻 山本健吉著 昭和49年刊 河出書房新社

 

元禄二年

 

元禄二年 己巳(一六八九) 四六歳

 

 

 四月七日、黒羽浄法寺亭に滞在中の作。『曾良書留』の前文に、

「しら川の闘やいづことおもふにも、まず秋風の心にうごきて、苗みどりに麥あからみて、粒々にからきめをする賤がしわざもめにちかく、すべて春秋のあはれ、月雪のながめより、この時はやゝ卯月のはじめになん侍れば、百景一ツをだに見ことあたはず。ただ聲をのみて、黙して筆を捨るのみなりけらし。」

 

この前文によれば、まもなく越えるはずの白河の闘を心に持って作った句のようだ。白河の関で能因法師が「秋風で吹く」と詠んだのに、今は四月で苗代には稲が縁に、畑には妻が赤らんで秋風の吹く白河の景色とは全く違っている。秋のあわれを今は見ることもないが、夏の景物としてほととぎすが啼き過ぎるのがせめてもの心に沁みる景色である。

まずこのような心持をこめた句であろうか。表現未熟で、この句だけでは充分に意味が汲み取れない。