徳川家の重臣としてあまねく知られた武将
石川数正が突如、出奔した理由とは
中田 耕治(こうじ) 作家
事 件
石川数正の出奔は、徳川家にとって空前の大事件だった。
城番の者が早鐘を撞いて異変を報じたが、城下に住んでいた杉浦時勝は、ただちに城中
に入って、逃げ遅れた数正の雑兵と戦い、討ちとったあと、城中の武器、諸道具を抑えて、城を守った。
石川数正逃亡の知らせは、この日、亥ノ刻(午後十時)、深溝(ふこうづ)にあった松平家忠につたわった。宏忠は手兵をひきいて、三里の道を馬で駆けつけ、とりあえず新城七之助の守る砦に入り、岡崎の異変にそなえた。
『家忠日記』に、
「十一月三日己酉石川伯奢守上方へ退候由ニテ亥刻ニ注進候。則岡崎へこし候へば、伯州尾州へ女房衆共ニ退侠。新城七之助かまえに居候」
という。
このとき松平大隅守重勝も手勢をくり出し、岡崎に駆けつけた。この武将は、馬を乗りまわして、市中の騒動をとり鎮めた。
十四日、辰ノ刻(午前八時)、吉田の領主・酒井忠次をはじめ、三河譜代の諸将が、各地から岡崎めざして駆けつけた。
この十四日、松代近正が、わが子・新次郎一生に家臣二人をつけて、浜松に送った。家康の人質に差し出したのだった。
石川数正と親しかった近正は、思いがけない事実を報告した。
数正は、出奔する前日(十二日)、家臣・天野又左衛門をつかわして、豊臣秀吉につかえることを打ちあけ、近正を誘ったのだった。
近正は激怒した。そして使者を追い帰し、二度とこうした誘いにきたら使者を斬りすてるといった。
『御年譜微考』に、
「数正案に相違し、さては内々の隠謀顕はるべし、事延引しては叶はじとて、其翌日早々に妻子所従引具して、尾張へと落行ける」とある。
このときの石川数正の出奔は、徳川家康の生涯で、最大の危機だった。
むろん、関ケ原、大坂の陣のように、家康の運命を決定するほどの危機ではないが、それでも徳川譜代の重臣の背信行為だった。ほとんど信じがたいことだった。無意味といえばこれほど無意味な行動はない。
石川数正の出自は、源義家の曽孫、義兼に発する。このことは、源氏の正統の血を引いているという根強い誇りをもたらしたに違いない。
この義兼は、河内国石川郡に住みついて、石川の判宮代と称した。石川の姓はここに発する。義兼から十代目の子孫、政康が三河国に移り、その子、親康(左兵衛尉)が、はじめて徳川氏につかえた。
親康、忠輔、清兼の三代にわたって徳川氏につかえたため、酒井氏とともに、徳川譜代の重臣として、もっとも顕要な地位にあった。
とくに、清兼は、徳川家康の祖父、清康につかえ、家康の若年の時までの老臣であった。
清兼の子が、右近忠成。岡崎城の留守を仰せつかったが、早世した。この忠成の子が、石川数正であった。数正の性格には、何か異様なものがひそんでいる。
中村孝也によると、数正という人物の性格は、明智光秀などと違って、「至って感激性が乏しく、倫理的反省が弱く、これほどの大事を決行しながら、案外無感覚であり、世間に顔をさらしながら、別に恥ずかしいとも思わなかったとする。だが、そんなに単純な人物だったのか。
解 釈
石川数正は、家康とともに、つねに戦場を疾駆した。その勇猛は群をぬいている。
永禄三年(一五六〇)、桶狭間で今川義元が敗死したことは、はからずも徳川氏に天啓の機をあたえた。松平元康(徳川家康)は、岡崎城に入り、やがて兵を発して、織田氏の属城、挙母(ころも)梅ケ坪、さらに広瀬を攻めた。
永禄四年の石ケ瀬合戦に、石川数正は先駆けして、敵将・高木主水清秀と槍をあわせた。
やがて、徳川家康は織田信長と和を結ぶ。
このとき、石川数正は、滝川一益、林通勝、高力(こうりき)清長などとともに、尾張と三河の国境をきめた。これをもってしても、家康の信任の厚かったことがうかがえよう。
さて、今川義元の子・氏真のところには、家康の夫人・築山殿と、その子・竹千代(信康)が人質になっていた。
永禄五年、家康は、今川方の城将・鵜殿(うどの)長照を攻めほろぼしたが、この戦いで、長照の遺児二人をとらえた。
長照の母は、今川義元の妹であった。氏真は長照の死を惜しみ、しかも、その遺児がとらえられたことに心を痛めた。
このとき、石川数正が、駿府に行って、氏真と交渉し、人質の交換に成功した。 数正は、この母子をまもって岡崎に帰ったが、三河の人びとはこぞって、彼の交渉の成功をよろこびあった。
大久保彦左衛門の書いた『三河物語』には、
「其時石川伯場守御供申て、岡崎へ入せ給ふ。上下万民つづいて御迎に出けるを、石川伯耆守は、大鬚瞰(くい)そらして、若君を頚馬に乗奉りて、念し原江打上てとをらせ給ふ事の見事さ。何たる物見にも是に過たる事はあらじとて見物する」とある。
大ひげをモジャモジャと反らせ、四歳の信康を肩車に乗せて、意気揚々と帰ってきた。これはどのショーはまたとあるまいと、出迎えの人びとが見物した、という。この『三河物語』の記述は、『常山紀談』にもそのまま見られる。
家康は、三河を平定したのち、組織を決定した。惣先手侍大将として、酒井忠次と石川数正を任命した。いわば、それぞれが第一軍管区、第二軍管区の総司令官といったところだった。
石川数正の功名はかぎりがない。
たとえば、家康が、一時、氏真と和を結んで岡崎に帰ったときのこと。
その前年、酒井忠次が遠江に入ろうとしたとき、気賀(けが)一揆の人びとが引佐峠で、これを阻止した。その残党が、川を要害として堀をっくり、堀川城と称して、男女千数百がこれに拠って、家康の帰路を阻もうとした。
このとき、家康は、まず十七騎で通り過ぎた。一揆の人たちは、まさか、家康が尖兵のなかにまぎれこんでいるとは知らず祀やりすごしたが、つづいて、石川数正、渡辺図書頭の部隊が通り過ぎるのを見て、はじめて謀られたと知ってくやしがった。
こうした計略も、石川数正の知謀のしからしめたものといえよう。
こういう武将が、感激性の乏しいと見ることは平凡に過ぎる。しかも、戦国の世に、どういう倫理的反省などが必要だったのか。ことは、倫理にかかわらない。
本能寺の変のとき、家康は堺にあった。本能寺に織田信長が討たれたとき、家康は死を覚悟したほどだった。もし、石川数正に野心が、または不逞の非望があれば、いのちからがら岡崎城に逃げ帰った家康を殺し、光秀とともに天下をうかがうことも、可能性としては考えられるだろう。
動機(そのI)
倫理的反省がないというのか。
天正十二年(一五八四)、秀吉、家康のあいだに、小牧長久手の戦いが起こった。
石川数正は小牧山の本陣を守っていたが、対陣していた秀吉は、数正の馬蕎の馬印のみごとさに注目し、使者をつかわして、その馬印を譲りうけたいといってやった。数正が馬印を贈ったとき、秀吉は返礼に黄金をあたえた。
数正はそのことを家康に報告した。家康は、せっかくくれたのだからうけとっておけと答えた。しかし、数正はそれを返した。こういう清廉潔白な武将に、中村のいう倫理的反省がなかったとは考えられない。
この合戦のとき、石川数正のとった態度に曖昧なものがあらわれているという説もある。
軍議にあたって、酒井忠次が秀吉の本拠を衝こうとしたのに対して、数正は無謀と見て反対したのだった。
『三河日記』によれば、
「しかるところに小牧山に相残る坂井左衛門督申しけるは、開白(秀吉)殿、押して出られければ、小幡筋の儀を心もとなく存ずれ、これより二重堀を押しやぶりて、ことごとく陣屋に火をかけて焼き払うものならば、関白殿も敗軍あるべしと進み給えども、そのころより、石河(川)伯膚守殿は、関白殿へ心これあり間、その儀しかるべからずとて伯耆守いちえんに進まざれば、左衛門督は手に汗を握って白泡をかみて、伯耆守進まざれば打おきぬ」
という。
秀吉は小幡に向っていた。その虚を衝くべし、と酒井忠次が主張したのだった。二重堀の敵の砦を急襲して火をはなとうとしたが、この作戦に石川数正は同調しなかった。
『三河物語』の坂井とあるのは、酒井忠次で、みすみす好機を見逃さなければならなかったため、手に汗を握り、口角抱をとばして石川数正を罵ったに違いない。
『武家事紀』には、
「其後、長久手ノ一戦、二重堀ヲ焼クノ議ヲ数正肯ゼズ、人皆疑テ秀吉ニ通ズトイヘリ」とある。
だが、この会戦で、六月、石川数正は、織田信雄(のぶかつ)とともに前田城を陥落させ、しかも、七月、桑名城に石川数正を置いて、家康は清州に帰った。それほどの信望を得ていた石川数正を、「人皆疑テ秀吉二通ズトイヘリ」とした、徳川方の狭量を考えなければならない。
のちに、新井白石は、『藩翰譜』で、数正を評して、
「この人は昔、弓矢の作法を知らなかったことをすら恥と思った人だ。その心を年老いてのちも忘れていなかったら、こんな誤った行動はとらなかったに違いない。人は年寄ると血気が衰える。この時期に戒あるべきは利得であると、古くもいっている」
とした。
これが、石川数正の出奔に関する一般の意見として定着した。
しかし、これも平凡な見かたに過ぎない。石川数正が、弓矢の道を知らなかったことを恥とした、というのは、三方ケ原の合戦で、浅岡某という弓の名人のところに訪れて、弓懸の結の結びかたを学んだことをさす。実戦では弓矢をとって戦ってきたが、作法にかなった弓懸の結びかたを知らない。こんどの合戦で討死したとき、死体を検分されて、数正は弓矢の作法も知らなかったと嘲(あざけ)られないように、という理由であった。
これほど廉恥を重んじた数正が、家康を見限ったのには、それだけの理由がある。年老いて、貪欲になったとするのは、あまりに低い見かただろう。
家康、秀吉のあいだに和議が成立したとき、数正は使者として秀吉のもとに赴き、祝詞を述べた。もし、白石のいうことが正しければ、このとき、秀吉に籠絡されて、いつか出奔しようと思ったことになる。
だが、もう少し違うことを見逃すべきではない。
秀吉に望まれた家康は、第二子、於義丸(義伊殿、のちの結城宰相秀康)を、秀吉の養子として大坂にやった。この於義丸の供をしたのは、石川数正の子・勝千代、本多重次の子・仙千代などで、石川数正がこれを警固した。
翌年、天正十三年春、秀吉が紀州・雑賀の根来衆の反乱を鎮圧したとき、於義丸も陣中を見巡ったが、石川数正が従った。
この乱のあと、愛染院、根来大膳、永福院、和泉坊ほかの十六名は、浜松に逃げ、家康を頼った。家康は、これらの衆徒を還俗させ、扶持をあたえた。
これを聞いて、各地に逃亡した根来衆が、次第に家康のもとに集まった。その数、数百名におよんだ。
世にいう「根来衆」であり、この一揆の首謀者、土橋・畠山の子孫も、家康に臣従した。
つまり、石川数正は、彼らの敵にほかならない。石川数正は、秀吉の器量に感じるところがあったに違いない。
家康は、ひとり秀吉に桔抗できる人物であったが、秀吉の勢威が天下に及んでいるとき、無益に敵対することは徳川氏の社稷(しゃしょく)を危うくすると見た。
ところが、酒井・井伊・本多などは、ただひたすら秀吉を敵視していた。石川数正は、三河の人びとの視野の狭さに絶望した。
そして、もう一つ、決定的なことが起こった。
動機(その二)
真田氏の運命であった。
徳川家康は北条氏直と和睦したとき、上州と甲信を交換する約束をした。このため、北条氏直は、約束どおり、上州を譲るように迫った。
徳川家康は、上田の真田昌幸に対して、沼田城を北条に明け渡せ、と命じた。
真田昌幸は怒った。もともと、真田氏は、武田の遺臣であった。武田氏が滅亡してからは織田氏に属し、信長が斃れたのち北条氏についたが、さらに家康に臣従した。
昌幸の主張は、
「沼田城はもともと家康からもらった城ではない。また氏直からうけたものでもない。槍にかけて得たもので氏直にわたす理由はない。先年、北条氏直が甲州を侵略したとき、真田は家康の臣として忠誠を励んだが、論功行賞は、ただ本領を安堵されただけだった。それなのに、今、沼田を奪うというのか。
沼田を譲れば、いつかは上田を渡せといわれるかも知れない。それならば戦をしても領土を守ろう」
として、上杉景勝を通じて、秀吉に臣従し、
政援を乞うた。
こうして、上田城攻撃が起こったが、徳川方は真田氏の征討に失敗した。
石川数正は、かねて信州・深志の城主、小笠原貞慶と通じていたし、家康の器量を見限ったのも、このときの動きと、秀吉に抗すべきにあらずと見た、数正なりの判断によったものと思われる。
石川数正が、突然、主君・徳川家康を裏切って、秀吉のもとに奔ったことは、激甚な衝撃をあたえた。
これを見苦しき退き様と見るか、あるいは、武辺の者のやむにやまれぬ行動として、そのみごとな出所進退と見るかは、人によって違うだろう。
徳川家康の反応は、その書簡によって知ることができる。
飛脚をもって申し入れ候。かさねて、仁科太郎兵衛尉指し越し申し侯。
去る十三日、石川伯者守尾州へ退散候。信州小笠原人質召し連れ候。
上方申し合せる子細につき、かくの如きの様子と存じ候間、
御油断あるべからず候。委曲、太郎兵衛尉口上に申し含め候。
恐々謹言。(天正十三年)十一月十五日
北条殿 家康
事件の二日後、小田原の北条氏直に送った手紙であった。
「ご油断あるべからず候」という一節に、家康の苦渋を見てはならないか。
家康は狼狽したようすを見せなかった。数正が秀吉のもとに着いた頃に、彼は、冷静をとり戻していた。岡崎城の修築を行なったのが十八日。その翌日、
こんど石川伯耆尾州へ退散候。さりなが、苦しからず候条、
御心安かるべく候。
はたまた、老母・同家中人質巳下、
菅沼小大膳かたまで差し越され候よしに候。
祝着せしめ候。
自然、敵相動くにおいては、いよいよ、小大勝と相談せられ、
その手立て専一に候。なほ、両人かたより申すべく候。
恐々謹言。 十一月十九日
下条牛千世殿 家康(花押)
信州・伊那の下条牛千世に、石川数正の出奔を知らせ、あわせて人質を差し出したことをほめた。
数正が連れ去った人質、幸松丸の父・小笠原貞慶が、家康に対してふくむところあり、この機会に伊那に乱入するおそれがあった。伊那の下条氏としては、貞慶と行動をともにするものと、家康に見られることをおそれた。
だが石川数正の出奔は、前代未聞の大事だっただけに、人心が動揺していた。誰もが青天のヘキレキのように感じた。あるいは、
突然、人生の不条理に痛撃されたと感じたか。
石川数正の評価
石川数正は、武士としての初心を忘れたのだ。人は年老いると、血気が衰える。欲に眼がくらんだ、と思う。だが、私たちは、他人の不可解な行動に対して、いつも何かの意味をみつけようとする。
石川数正が年老いて意外な行動に奔った、ということも、ひとたび、数正という人間にたどりつこうとするとき、新井白石のような思想家もとまどっている。だが、石川数正の出奔は、前代未聞の大事 欲に眼がくらんだ、という、あたりまえでしかないことが、そのじつ、あたりまえすぎて、何もわかってはいないのではないか、というはるかな疑いを喚び起こす。幼い信康を肩車にして、得意満面で帰ってきた武将の威風を知っているだけに、その疑いの暗さに茫然と立ちつくす。数正の逃亡は、じつはひそかな陰謀であって、家康との了解のうえで行なわれたとする説がある。つまり、秀吉に寝返ったと見せかけ、秀吉の中枢部に数正を送り込み、やがて徳川・豊臣の離間の必至にそなえるという。数正スパイ説にほかならない。それほどにも、数正の行動には、意味をたどりにくいところがある。私たちは、ふつう、意味のあるものしかわからないし、わかろうともしない。相対的に数正がスパイであっても不思議ではない状況はあった。しかし、その意味は、こうした思惟や論理の基底にひそんで、あやしく隠見する。それらのものの内実にある。常にいかなる形であれ、疑いのない実感として、武士の意地がある。後藤又兵衛は主家を退散しなかったか。後年の片桐且元は、大阪を逃散しなかったのか。ひとは、その動機を知らないし、たとえそれに触れたとしても、それは深淵にも似た何ものかであった。それが底知れぬ何ものかであれば、数正の変節を罵り、あるいは老耄にことよせる。
だが、数正の眼は、何ものもあやまたず見ようとして、主君の低劣を棄て去る強靭な精神が、無常のはてに見出した活路にほかならない。
かつて、おのれが肩車にした信康の非業の 死を見た。今、於義丸がおなじ運命をたどるのを見るに忍びない。それもあった。だが、家康の器量を天下人としての秀吉に比較するとき、一方に不忠であっても、一方に忠を誓うことは、この時代においては、いささかも咎められるべきではない。
十一月二十七日、家康、西尾より岡崎に帰る。
二十九日、雪が降った。この日、亥ノ刻、激震が起こった。おそらく駿河湾を震源地とする大地震だった。巨大地震で山が崩れ、人馬多数に死傷者が出た。織田信雄の居城・長島は、百八里、大洪水におそわれ、城中でも家が倒れ、焼失したという。この大地震は、三河だけではなかった。十数日、地震がつづき、宮中では祈祷が行なわれた。三十三間堂の仏像、六百体が倒れた。
近江・越前・加賀は、とくに大地震の被害がつづき、和泉・河内・摂津もひどかった。
岡崎城は、二十九日からの地震で、十二月二日に修復したが、七日にまた地震、普請をすると、またもや十日、十一日と地震がつづき、普請をかさねた。
このとき、誰の胸にも、石川数正の出奔のおそろしさが揺れていなかったろうか。
数正は、その後、出雲守と称し、天正十四年、秀吉の弟・大納言秀長の所領だった和泉に封を受けた。小田原の陣のあと、信州松本の領主となった。現在の松本城の天守は、築城の大家だった数正の手になるとつたえられている。
数正は、秀吉によって厚遇されたわけではない。
当時の狂歌に……
とくかはの家に伝わる古帚(伯耆)
落ての後は木のしたを掃く
とあった。
徳川の家に伝わる古帚(石川数馬)
落ての後は木のした(木下)を掃く
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