◇天和 元年(1681)☆素堂40才 芭蕉、38才
〇九月二十九日改元して天和元年
素堂の動向
『東日記』 池西言水編 九酉歳林鐘中旬奥 六月中旬刊
月 ・王子啼て三十日の月の明ぬら
埋火・宮殿炉也女御更衣も猫の声
〇七月廿五日 桃青・木因を迎えて三物
・秋訪はばよ詞はなくて江戸の隠 素堂
鯊(ハゼ)釣の賦に筆を棹さす 木因
鯒(コチ)の子は酒乞ひ蟹は月を見て 桃青
☆『東日記』あづまにっき 俳諧撰集。中二。紫藤軒言永編。
繁特小僧才麿序。延宝九年八月中旬成。序文に
「まねくとはなきに入来る人あり。誰ヤ。紫藤言水也。東の日記と名付て一軸を携さへ……」
とあるから、書名はあるいは「あづまのにき」とすべきかも知れない。内容は発句・連句の集で、乾の巻に春・夏・秋三季の発句、坤の巻に冬の発句と言水の独吟二歌仙のほか、幽山・才丸・昨今非・暁夕蓼・恕流・立吟・友静・重直・正友・友夕・玉夕らを相手とする両吟吟その他の歌仙七巻を収める。入集の知名作家に、其角・才丸・桃青(芭蕉)・友静・露沾・挙白・幽山・立吟、露言・泰徳・似春・杉風・調和・素堂・不ト・清風・梅翁・千之・紀子らがあり、編者言水の句はもとより最も多数をかぞえ、四十二句に及んでいる。右のように、本書には芭蕉一門との密接なつながりが認められるが、この事からはまた、本書の板下が其角によって書かれたとする種彦説の妥当さが思われる。序文によると、言水は「これより先三たび句帖を顕わし、三度風躰をかへて三たび古し」と述べてこれを編したという。新風を求めてやまぬ言水の気概を察すべきであろう。
枯枝に烏のとまりたるや秋の暮 桃青
藻にすだく白魚やとらは消えぬべき 々
笹折て白魚のたえぐ青し 才丸
野老うる声大原の里びたり 其角
芋洗ふ女に月は落にけり 言水
▽素堂附句 三月、『ほのぼの立』高政編。延宝九年
芭蕉入集句と素堂の附句について。
枯枝に烏のとまりたけり秋のくれ はせを
鍬かたげ行霧の遠里 素堂
☆新編『芭蕉一代集』昭和六年刊。勝峯晋風氏著より(P431)
『二弟準縄』の脇五體の證句打添
「枯枝に霧のとまりけり秋の暮」
「鍬かたけゆに烏の遠里」
口傳茶話の事ありとあるが、此脇句附尾張鳴海の蝶羅が『千鳥掛』に洩れたものを『冬のうちわ』に拾遺した其の一つである。
加賀山代永井壽氏の許に真蹟を存する。
**『ほのぼの立』 俳諧撰集。菅野谷高政編。
延宝九年笠二月、内田順也序。京、仁左衛門板。高政・冠之・秋風が相寄って催した八積の三吟連句と同志の四季発句を内容とする。
巻頭の一巻は、天朗立(ほのぼのたて)と題する三十二句で終局連句で、その他二十二句から成る名残立、二十八句で満尾する中折立等の特殊な形式のものを混えており、作風も頗る異躰の集である。原書名不詳。ここに掲げるのは仮題。〔荻野〕
(この項『俳諧大辞典』明治書院)
高故紙妙俳人。部酢軒氏。生没年月未詳。
京都の人。『京羽二重』によれば、富小路通錦小路上ル町の住。その俳壇的活動は談林の勃興期で、延宝三年の『野口』にほ、貞量ら貞門直系の作と共に、宗因の「ささうたふ五杯機嫌やいせ神楽」の独吟百萌を収め、序文で彼を讃美して既に談林への傾倒を示し、その後、急速に宗因に接近して、親しくその教をうけ、五年の『後集絵合』には梅翁との両吟や梅翁と一座した巻を収めている。かくて翌六年富、宗因を自宅に請じた際、「末茂れ守武流の惣本尊」の句を挨拶されてからは、いよいよめぎましい活躍を始め、大阪の阿蘭陀西鶴の向こうを張って、惣本寺はりの頗る奇矯な作風を示すに至った。七年『惣本寺誹掛軸齢欝には、「目にあやし麦藁一把飛螢」の発句に「珍重々々珍重の春」の揚句の独吟盲韻をかかげ、世の注意を引いた。最も得意な時代である。貞門の本拠京都にもはやく田中常炬が新風に踏み切っていたが、談林としてはややおだやかな作風である取に対し、高政は野心的で、見立の無理、用轟の不自然を無視して、ただ奇矯に走ってその存在を誇示しようとした。恋独吟により法服の院宣を蒙ったと偽り構えた(虻っ)のもそのためである。かくて貞門はいうまでもなく、同門からもよろこばれず、『中庸姿転が導火線となった貞談論戦の際にも両方からの非難をうけたが、惣本寺伴天達社高政の名はこれにより高まり、京談林の中心去った。翌八年七月に・は窟式部』鵬噸の、九年三月には定之・秋風との三吟義郎朗』を出したが、各連句に『中庸姿』以来の揚句を用いた、伴天適社の名にふさわしいものである。延宝末年から天和・亘単にかけて俳壇には新気運が動いてきたが、高政は依然として「我鶴にのらん神馬のひよこ僕となれ」謁拒年の如く、旧態を示していたので、元藤になっては俳壇から消え去らねはならなかった。
〔参考〕 「高政」穎原退蔵(改造社販『続俳 句講座』∵巻所収)。
☆「枯枝に」の句について
(『俳聖芭蕉』野田別天氏著昭和十九年刊)
嵐雪門の櫻井吏登の『或問答』に或人の間いに答えて、
今は六十年も巳前、世の俳風こはぐしく、桃青と中せし頃は「大内雛人形天皇かよ」或は「あやめ生り軒の鰯のされこうべ」斯る姿の句も致され候。梅翁(宗団)なんど檀休の棟梁として、枝になまきず絶えなんだの最中に侍りしを、季吟も難かしがられ、桃青素堂と閑談有りて、今野俳風和ぐる方もやと、三叟神丹を煉て、桃青その器にあたる人と推して進められしにより、然らば斯くに趣にもやと「枯枝に鳥のとまりたるや秋の暮」の一句を定められし、是を茶話の傳と申すなり。云々
◎季吟合点懐紙断簡
(延宝六年三月以降の物、江戸三吟の物に批点したと思われ、季吟の批点に芭蕉の附句がある。)
*延宝年中作。『季吟合点懐紙』勝峯晋風氏著『芭蕉一代集』
《勝峯氏の解説》
中村貫一氏の所藏する古い懐紙切れで終わりに『右季吟翁合点之懐帋随斎所蔵、文化甲子贈松窓乙二」と見える。季吟の批点に桃青の附句のあるものはこれが初見である。
長刀さすかよせいなおとり身 信徳
露にやおちん髭の黥 同
婿に祝ひかけにまかせて桶の水 素堂
履背苦痩馬 素堂
(ケタツケヤセムマヲクルシム)
丸身類裸蝗 素堂
(マロカミルイハハタカムシニ)
絶す数寄て喰いけ栗のいけるうち 桃青
縁につかしの末も亭(トヲレリ) 同
色好む殿の音曲に箏(コト・琴) 同
五十點之内 長七 季吟 書判
芭蕉の動向 はせを
〇この春、桃青庵の庭に芭蕉一株が贈られ繁茂し、秋以降芭蕉庵と称した。門人李下より芭蕉の株を贈られ、これが繁茂したので芭蕉庵と号するようになる。
7月、京の伊藤信徳らの『七百五十韻』を次ぎ其角・揚水・才丸との四吟、二百五十韻の『俳諧次韻』を刊行。
【註】七月二十五日付木因宛書簡が現存する最も古い芭蕉書簡。「はせを」と署名。
- 西山宗因没。年七十八才
著書
『宗因百韻』『天満千句』『四法師』『津山紀行』『松島紀行』
『筑紫太宰府記』『高野山紀行』など。
宗因の句
風に乗る川霧軽し高瀬舟
就中御代や延喜の鏡餅
さればここに談林の水あり梅の花
価あらば何かをしまの秋の景
詠むとて花にもいたし首の骨
難波津に昨夜の雨や花の春
世の中のうさ八幡ぞ花に風
**芭蕉発句
春立や新年ふるき米五升 (真蹟)
年立や新年古し米五升 「泊船集」
初ハ似合しや新年吉き米五升 「鵲尾冠」
餅花やかざしにさせる里が君 「堺絹」
ばせを植てまず僧む荻の二葉哉 「続深川」
藻にすだく白魚やとらば消えぬべき 「東日記」・(真蹟)
山吹の露菜の花のかこち顔なるや 「東日記」・(真蹟)
〔註〕真蹟には「冬の露」とある。
五月雨の鶴の足みじかくなれり 「東日記」
餅を夢に折結ふしだの草枕 「東日記」
盛じや花に坐浮法師ねめり妻 「東日記」
摘けんや茶を凩の秋ともしらで 「東日記」
闇夜きつね下はふ玉真桑 「東日記」
愚に暗くいばらをつかむ蛍哉 「〃」
梅柳看よ若衆哉女哉 「武蔵曲」
さぞ若衆哉女かな 「泊船集」
〔註〕元年作
夕顔の白く夜の後架に紙燭(しそく)とりて 「武蔵曲」
侘びてすめ月侘斎が奈良茶歌 「武蔵曲」
うかれ行月網笠の窓ヲ家として 「武蔵曲」
郭公まねくか麦のむら尾花 「武蔵曲」「おくれ双六」
芭蕉野分して盥(たらい)に雨をきく夜哉 「武蔵曲」
ばせを野分盥に雨を闇夜かな 「三冊子」
こちの子は酒乞ひ蟹は月を見て (木因書留)
〔註〕初ハ「河豚ノ子は」「三冊子」
櫓の声にはらはた氷る夜やなみだ 「続深川」
異 櫓の声波ヲ打つて腸氷ル夜やなみだ 「武蔵曲」
武蔵野の月の若ばへや松島種 「松島眺望集」
**天和元年(1681)(この項『俳文学大辞典』角川書店)
**芭蕉(三十八才)、春、李下から芭蕉一株を贈られる。其角、才暦らと『俳諧次韻』刊。
**許六(二十六才)一月十二日母没。三月二十五日先妻没。
**其角(二十才)六月、芭蕉・麋塒・言水と河野宗液を訪問(瓜の一花)。
七月下旬、桃青・揚水・才九と『俳諸次韻』を興行開板。
板下を認める。
**丈草(二十才)このころ犬山の黄檗派熊野山先聖寺の玉堂和尚に参禅したか。
**才丸、『坂東太郎』刊。
〔漢詩文調流行〕
言水『東日記』、
信徳『七百五十韻』刊
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