怠惰なひな菊

漫画家・萩原玲二(はぎわられいじ)の怠惰なブログ(2006~2019)

KNGSNNN2019

2019-01-21 03:33:38 | 


AKOM
KTYR
ぺこり(遅)。

亥年ということで、さて、思い浮かぶ猪といえば『もののけ姫』〔1997〕の乙事主くらいで、というか、乙事主とかモロとか王蟲とかいうのは、ようするに『ゲド戦記』の「竜」の置き換えなわけで、いかに宮崎さんが『ゲド戦記』をつっかえ棒に創作されておられたかという。

ことに『さいはての島へ―ゲド戦記〈3〉』を『もののけ姫』はかなり明確に下敷きにしていると思うし、漫画版『ナウシカ』のクライマックスもそうだろう。

宮崎作品と『ゲド戦記』を仔細に比較してそのエッセンスというか、共通するあれの論文的なものはすでに存在するのかしら。
世間一般でさほど言及されてない気がして不満。

‥‥‥

ところで、漫画を描いてると自分はまったく言語野?というのが機能しなくなり?、というか漫画を描くのに脳のその辺を使ってないの?と心配になる。
「漫画とは一種の象形文字」と手塚先生は定義したそうであるし。

自分が考えるに漫画家には2種類あって、漫画を「絵」として捉えるタイプAと、漫画を「文章」として捉えるタイプBに分けられるのでは?と思う。

漫画の作業しながらのべつまくなしツイートしている漫画家は多いし、自分など信じられないが、こういう皆さんはタイプBなのではなかろうか。

もちろんAとBに優劣はなく、ただそういうものでは?という仮説にすぎない。

あと漫画家には、もともとアーティスト属性があってたまさか漫画というメディアを選択したタイプAと、たまさか漫画が描けたマイルドヤンキーのタイプBがあるようにも思う。

これももちろん優劣はなく、ものかきとしてタフなのはタイプBだと思う。
ただタイプBの抽斗に多様性は期待できないが。


‥‥‥


『ペリリュー・沖縄戦記』(ユージン・B・スレッジ)という本を読んでいて(『ザ・パシフィック』の原作のひとつ)、沖縄戦のくだりでボロボロ泣いてしまった部分を以下に引用―――


 六月四日‥‥‥ちっぽけなあばら家を捜索した際、私は一人の老婆に出会った。‥‥‥老婆に念のためトミーを構えて、表に出てくるよう身ぶりで示した。老婆は座ったまま白髪頭を下げ、‥‥‥「ノー・ニッポン」。‥‥‥私を見上げるその表情から、かなりの痛みをこらえていることがうかがえた。それから‥‥‥左下腹部の大きな傷を指さした。‥‥‥傷の状態はひどかった。‥‥‥壊疽を起こしていた。‥‥‥この状態では命も危ないだろう。
 老婆が‥‥‥そっと手をのばして私のトミーの銃口をつかむと、おもむろにそれを自分の眉間に向けさせた。‥‥‥引き金を引けというのだ。‥‥‥私は銃を肩にかけ、首を横に振って、「ノー」と言った。それから外に出て、大声で衛生兵を呼んだ。‥‥‥
「あのなかにかわいそうなばあさんがいる。横腹を撃たれて、ひどい怪我だ」
「処置できるかどうか、見てみよう」
 二人はあばら家から五〇メートルほど離れたところにいた。そのときあばら家で銃声が聞こえた。‥‥‥
 あばら家から一人の海兵隊員が出てきた。呑気そうにライフルの安全装置を確認している。‥‥‥「その小屋にニップでもいたのか?さっき確認したところだが」
「いいや」‥‥‥「薄汚いばあさんはいた。苦しいので殺してほしいというから、思いどおりにしてやったよ!」
 衛生兵と私は顔を見合わせ、ついで近づいてくる男を見つめた。おとなしく物腰のやわらかい若者で、民間人を冷酷に殺害できる柄ではなかった。
 あばら家の戸口に崩折れている色あせたキモノ姿の人影を見たとたん、私は逆上した。
「なんということをするんだ。おれだって撃ってくれと頼まれた。だが、衛生兵を呼んで助けにいくところだったんだ!」‥‥‥
(第一四章 首里を過ぎて)


沖縄といえば辺野古について自分は思考停止気味である。
21世紀の地政学とはどうあるべきなのかしら。



ペリリュー・沖縄戦記 (講談社学術文庫)

「戦争は野蛮で、下劣で、恐るべき無駄である」。
硫黄島に匹敵する損害率を記録した一九四四年秋のペリリュー島攻略戦、そして四五年春の沖縄上陸戦。
二つの最激戦地でアメリカ海兵隊の一歩兵が体験した「栄光ある戦争」の現実とは?
敵味方を問わずおびただしい生命を奪い、人間性を破壊する戦争の悲惨を克明かつ赤裸々に綴る、最前線からの証言。

講談社


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