願栄寺広報紙 「福峯だより」 4月号の発行準備を進めています。
ご門徒皆さまのお手元にお届けするまで、しばらくお待ちください。
4月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。
意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。
4月 拝読 「抑男子女人 (そもそもなんしにょにん)」 の御文 (第五帖 第四通)
【原 文】
抑(そもそも)、男子(なんし)も女人(にょにん)も、罪のふかからん輩(ともがら)は、諸仏の悲願をたのみても、いま の時分(じぶん)は末代悪世なれば、諸仏の御(おん)ちからにては中々(なかなか)かなわざる時なり。これによりて、阿弥陀如来と申奉(もうしたてまつ)るは、諸仏にすぐれて、十悪・五逆の罪人を、我たすけんという大願をおこしましまして、阿弥陀仏となり給えり。この仏をふかくたのみて、一念、御(おん)たすけ候えと申さん衆生を、我たすけずは正覚(しょうがく)ならじとちかいまします弥陀なれば、我等(われら)が極楽に往生せん事は、更(さら)にうたがいなし。このゆえに一心一向に、阿弥陀如来たすけ給えと、ふかく心にうたがいなく信じて、我身(わがみ)の罪のふかき事をば、うちすて、仏にまかせまいらせて、一念の信心さだまらん輩(ともがら)は、十人は十人ながら、百人は百人ながら、みな浄土に往生すべきこと、更(さら)に、うたがいなし。このうえには、なおなお、とうとくおもい奉らんこころのおこらん時は、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、時をもいわず、所をもきらわず、念仏申(もうす)べし。これをすなわち仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)の念仏と申(もうす)なり。あなかしこ、あなかしこ。
【現代語訳】
さて、男性であれ女性であれ、罪の深い者は、諸仏の悲願をたのみとしても、今の時節は末代の悪世ですので、諸仏のお力ではなかなか容易に救われません。そういうわけで、阿弥陀如来と申し上げるお方は、諸仏に超え勝れて、十悪・五逆の罪人をわたくしがたすけようという大願を起こされて、阿弥陀仏となられたのです。この弥陀は、われを深くたのみとし、一念おたすけくださいと申す衆生をたすけないうちは、わたくしも成仏しまいとお誓いくださったのですから、わたくしたち衆生が極楽に往生することは決して間違いありません。ですから一心一向に、阿弥陀如来よ、おたすけくださいと深くこころに疑うことなく信じ、我が身の罪の深いことに煩(わずら)わされずに仏におまかせし、一念の信心を定めるような人は、十人ならば十人ながら、百人ならば百人ながらみな浄土に往生することは、断じて疑いのないことなのです。このうえに、さらに尊く思うこころが起こるときには、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、時も所も選ぶことなく念仏申すのがよいでしょう。これをすなわち、仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)の念仏というのです。あなかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。
3月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。
意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。
3月 拝読 「在家尼女房 (ざいけあまにょうぼう)」 の御文 (第五帖 第三通)
【原 文】
それ、在家の尼女房たらん身は、なにのようもなく、一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、後生たすけたまえともうさんひとをば、みなみな御たすけあるべしとおもいとりて、さらにうたがいのこころ、ゆめゆめあるべからず。これすなわち弥陀如来の御ちかいの他力本願とはもうすなり。このうえには、なお後生のたすからんことの、うれしさありがたさをおもわば、ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、となうべきものなり。 あなかしあなかしこ。
【現代語訳】
さて、在家生活のなかで仏門をこころざす女性は、何のはからいもなく、一心一向に阿弥陀仏を深くおたのみ申し上げ、後生(ごしょう)をおたすけくださいとおすがりすれば、そのような人をみな仏はおたすけくださるに違いないと思い、決してそれを疑うこころがあってはなりません。これをすなわち、弥陀如来がお誓いくださった他力本願というのです。このうえには、後生のたすかることの嬉しさありがたさを思うにつけても、ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、と称えるべきです。あなかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。
2月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。
意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。
2月 拝読 「八万法蔵 (はちまんほうぞう)」 の御文 (第五帖 第二通)
【原 文】
それ、八万の法蔵をしるというとも、後世(ごせ)をしらざる人を愚者(ぐしゃ)とす。 たとい一文不知(いちもんふ ち)の尼入道(あまにゅうどう)なりというとも、後世をしるを智者(ちしゃ)とすといえり。 しかれば、当流のこころは、あながちに、もろもろの聖教(しょうぎょう)をよみ、ものをしりたりというとも、一念の信心のいわれをしらざる人は、いたずら事なりとしるべし。 されば聖人の御(おん)ことばにも、「一切の男女(なんにょ)たらん身は、弥陀の本願を信ぜずしては、ふつとたすかるという事あるべからず」とおおせられたり。 このゆえに、いかなる女人(にょにん)なりというとも、もろもろの雑行(ぞうぎょう)をすてて、一念に、弥陀如来今度の後生(ごしょう)たすけたまえと、ふかくたのみ申さん人は、十人も百人も、みなともに弥陀の報土に往生すべき事、さらさらうたがいあるべからざるものなり。 あなかしあなかしこ。
【現代語訳】
さて、釈尊(しゃくそん)の説かれたあらゆる教えを知り尽くしたとしても、後生(ごしょう)の一大事についての心得がなければ愚者(ぐしゃ)といい、一方、たとえ文字もよめないような在家の尼であっても、後生の一大事について心得ていれば、その人を智者(ちしゃ)というのだと言われています。 ですから当流のこころでは、つとめて多くの聖教(しょうぎょう)を読み、もの知りになったとしても、一念の信心のいわれを知ることがなければ、それも役に立たないのだと心得てください。それゆえ、親鸞聖人の御言葉にも、「どのような男性も女性も、弥陀の本願を信じなければ、決してたすかるということはありません」と仰せられているのです。 ですから、どのような女性であっても、さまざまな雑行を捨てて、一念に、弥陀如来よ、この度の後生をおたすけくださいと深くおたのみ申し上げるならば、十人も百人も皆ともに、弥陀の報土へ往生できるのです。 そのことを決して疑ってはなりません。 あなかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。
1月25日(土)・26日(日)の両日、当院報恩講を厳修いたしました。
ご法話の講師には、真宗大谷派山陽教区 駐在教導 箕浦彰巖師をお招きし、お話しいただきました。
多くのご門徒様、有縁の皆様にご参詣をいただき、尊いご懇念を賜りましたこと厚く御礼申し上げます。
新年1月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。
意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。
1月 拝読 「末代無智 (まつだいむち)」 の御文 (第五帖 第一通)
【原 文】
末代無智の、在家止住(ざいけしじゅう)の男女(なんにょ)たらんともがらは、こころをひとつにして、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、さらに余(よ)のかたへこころをふらず、一心一向に、仏たすけたまえともうさん衆生をば、たとい罪業は深重(じんじゅう)なりとも、かならず弥陀如来はすくいましますべし。 これすなわち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。 かくのごとく決定(けつじょう)してのうえには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。
【現代語訳】
末代の世の智慧なき在家生活者は、男性も女性もただこころを一つにして、阿弥陀仏を深くおたのみ申し上げるのがよいでしょう。 決して他の仏菩薩等にこころを振り向けることなく、一心一向に阿弥陀仏よ、おたすけくださいとおたのみする衆生を、たとえ罪は深く重くとも、弥陀如来は必ずお救いくださるのです。 これがすなわち、第十八願の念仏往生の誓願のこころなのです。 以上のごとく信心が決定したうえには、寝てもさめても、命のある限りは、称名念仏すべきであります。 あなかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。
12月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。
意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。
12月 拝読 「五劫思惟(ごこうしゆい)」の御文 (第五帖 第八通)
【原 文】
それ、五劫思惟(ごこうしゆい)の本願というも、兆載永劫(ちょうさいえいごう)の修行というも、ただ我等一切衆生をあながちにたすけ給わんがための方便に、阿弥陀如来御身労(ごしんろう)ありて、南無阿弥陀仏という本願をたてましまして、まよいの衆生の、一念に阿弥陀仏をたのみまいらせて、もろもろの雑行(ぞうぎょう)をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚とらじとちかい給いて、南無阿弥陀仏となりまします。これすなわち我らがやすく極楽に往生すべきいわれなりとしるべし。されば、南無阿弥陀仏の六字のこころは、一切衆生の報土に往生すべきいわれなるとしるべし。このゆえに南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏の我等をたすけたまえるこころなり。このゆえに南無の二字は、衆生の、弥陀如来にむかいたてまつりて、後生たすけたまえともうすこころなるべし。かように弥陀をたのむ人を、もらさずすくいたまうこころこそ、阿弥陀仏の四字のこころにてありけりとおもうべきものなり。これによりて、いかなる十悪・五逆、五障三従(さんしょう)の女人なりとも、もろもろの雑行をすてて、ひたすら、後生たすけたまえとたのまん人をば、たとえば十人もあれ、百人もあれ、みなことごとく、もらさずたすけたまうべし。このおもむきを、うたがいなく信ぜん輩(ともがら)は、真実の弥陀の浄土に往生すべきものなり。あなかしこ。あなかしこ。
【現代語訳】
さて、五劫(ごこう)の間ご思案なされた本願というのも、はかりしれない永きのご修行というのも、ただわれわれ一切の衆生を何としてでもたすけようと思われてのものであります。そのためのお手だてとして、阿弥陀如来はご苦労くださり、南無阿弥陀仏のいわれを誓われた第十八願をお立てになられたのです。すなわち、迷いの衆生が一念にわれをたのみとし、さまざまな雑行(ぞうぎょう)を捨て、一向一心にわれに帰依するならば、そのような衆生をたすけよう、もしたすけないということがあれば、わたしも覚りを得まいとお誓いになられて、南無阿弥陀仏となられたのです。これがとりもなおさず、わたくしたちがたやすく極楽に往生することのできるいわれであると知らなければなりません。したがって、南無阿弥陀仏の六字の意味合いは、すべての衆生が報土に往生することを表された、そのすがたなのです。つまり、南無と帰命すれば、ただちに阿弥陀仏がわれわれをおたすけくださる意味合いを表しているのです。ですから、まず南無の二字は、衆生が弥陀如来にこころを向け、後生(ごしょう)をおたすけくださいと申すこころを言うのです。そして、このように弥陀をおたのみする人を漏らすことなくお救いになられるこころこそ、阿弥陀仏の四字のこころなのだと思うべきです。こういうわけで、どのような十悪・五逆、五障・三従(さんしょう)の女人であっても、さまざまな雑行を捨て、ただひたすら後生をおたすけくださいとたのむならば、たとえば十人であれ、百人であれ、みなことごとく、漏らさずおたすけくださるに違いないのです。この趣を疑うことなく信じる人こそ、真実の弥陀の浄土に往生することができるのです。あなかしこ、あなかしこ(=敬って申し上げます)。