7月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。
意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。
7月 拝読 「当流聖人 (とうりゅうしょうにん)」 の御文 (第五帖 第十八通)
【原 文】
当流(とうりゅう)聖人のすすめまします安心(あんじん)というは、なにのようもなく、まず我身(わがみ)のあさましきつみのふかきことをばうちすてて、もろもろの雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)のこころをさしおきて、一心に、阿弥陀如来後生(ごしょう)たすけたまえと、一念にふかくたのみたてまつらんものをば、たとえば十人は十人、百人は百人ながら、みなもらさずたすけたまうべし。これさらにうたがうべからざるものなり。かようによくこころえたる人を、信心の行者というなり。さてこのうえには、なお我身の後生のたすからんことのうれしさを、おもいいださんときは、ねてもさめても、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ととなうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
【現代語訳】
当流親鸞聖人がお勧めになる安心(あんじん)というのは、何のはからいもなく、ともかくも我が身の浅ましく罪深いことに煩(わずら)わされずに、さまざまな雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)をたのみとするこころを打ち捨てて、一心に阿弥陀如来よ、後生をおたすけくださいと一念に深くおたのみ申し上げるならば、そのような者を、たとえば十人であれば十人ながら、百人であれば百人ながら、みな漏らすことなくおたすけくださるに違いないというものです。このことを決して疑ってはなりません。このようによく心得た人を信心の行者というのです。さてこのうえには、さらに我が身の後生がたすかることのうれしさを思い出すにつけても、寝てもさめても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えるべきです。あなかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。