・蜻蛉のお父さんも娘が兼家と結婚したせいでしょう、
日が当たってきまして陸奥守に任命されて、
任地へ行くことになりました。
陸奥の国(今の東北地方)へ行きます。
彼女は結婚したばかり、頼りの父に行かれてしまうと
この上なく淋しく心細い思いで沈んでいます。
「兼家さんに見せなさい」
と、歌を書いて父は発って行きます。
<君をのみ頼むたびなる心には ゆくすえ遠く思はゆるかな>
(行き先遠い旅に出ます。
どうぞ娘のことは末長くよろしくお願いします)
兼家に見せますと、
<われをのみ頼むといへばゆくすえの 松のちぎりを来てこそは見め>
(私を頼むと言われるお言葉、確かに引き受けました)
しばらくの間は幸福な月日だったと思われます。
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・蜻蛉というのは求めるところが大きい。
つまり、兼家に始終自分の側にいてほしいのです。
蜻蛉の姉妹に結婚している人がいます。
姉か妹か不明ですが、
この人のもとへは結婚相手の男がまめに通ってきます。
姉妹で同じ邸内に住んでいますから、
手にとるようにわかります。
別に張り合うわけではないのですが、
やはり辛かったのでしょう。
新婚当時は兼家は大変やさしかった。
そのうち、蜻蛉は懐妊しました。
物心両面にわたって頼りになる父がいない所で、
出産するのはどんなに心細かったか。
兼家は出産までの間、親切に面倒を見てくれました。
「そのほどの心ばへはしも ねんごろなるやうなりけり」
と書いています。
蜻蛉にプライドがあったのと、
私(田辺さん)が思うに身分が夫より低いという、
コンプレックスがあったのじゃないか・・・と。
結婚するまで蜻蛉は宮仕えというものをしていません。
たくさんの人の中でもまれることもなく、
気苦労も知りません。
自分は大事にされて育ってきた、
そして教養もある、美貌もある。
ことに歌を作る才能がある、というプライド。
蜻蛉が結婚した時分は天暦のころ、
村上天皇の時代で文化の発達した時代でした。
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・「蜻蛉日記」の文章は難しいと言いましたが、
王朝文学の特質として直接表現を避けていることがあります。
妊娠、出産を、
「なほもあらぬことありて 春夏悩み暮らして
八月つごもりに とかう物しつ」
(普通じゃない状態がありまして、
春から夏とずっと具合が悪くて、
八月つごもりには、旧暦ですから今の九月ごろ、
まあ、何とかお産が済みました)
「とかう物しつ」・・・
千年の間、代々の国語学者の先生方が、
この意味を解き明かして下さった。
注釈書がないと私たちはこんな原文は読めません。
本当に学問の道は、
数知れない研究者の尊いお姿があることを、
思わないわけにはいきません。
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・子供が生まれて、
「そのほどの心ばえはしも ねんごろなるやうなりけり」
(そのころの夫、兼家は大変親切にしてくれました)
夫は親切にしてくれる。
蜻蛉にとっては女の幸せを強く感じたでしょう。
兼家がやさしく世話をしてくれている頃、
彼が留守をした時がありました。
その辺の手筥を開けますと兼家の手紙が入っていまして、
どうも新手の女にやる文らしい。
蜻蛉が妊娠している間に別の愛人を作ったらしい。
それを読んで素知らぬ顔をしていれば、
しおらしい女なんですが、黙って引っ込む女ではありません。
「疑はし ほかにわたせるふみ見れば
ここやとだえに ならむとすらむ」
(どうもあやしいですね。
私の所へはもう帰って来ないつもりでしょ)
そんなことがあって、
十月末ごろ三夜続けて夫が来ないことがありました。
今から宮中へ参内しないといけない、
などと言って出て行くのであとを尾けさせると、
町中の家へ入ったという。やっぱりだわ。
二~三日して夫が来ます。
「開けないでおきなさい」
「いいわよ、開けなくても」
と突っ張っておりますと夫は例のところへ行ったらしい。
あくる朝、このまま黙っていられないとやった歌が、
前に言いましたね。
<なげきつつ独りねる夜のあくる間は いかに久しきものとかは知る>
ですね。
きつい性格の裏にしおらしい所が出ていて、
女の歌としては古今の名歌です。
(次回へ)