
・ところで、若者の洗脳とか、
人民の農村への大下放とか、人民公社とか、
血の粛清という言葉を聞くと、
我々は中国の文革を思い出さずにいられないが、
ポル・ポト派はまさにその文革をお手本に、
毛沢東思想を教科書に、絵に描いたような、尖鋭化した革命を、
性急に行おうとしたらしい。
周恩来はその死に際に、
ポル・ポトたちカンボジアの指導者を枕元に呼んで、
「革命は急速にやってはいけないよ」
とそのゆきすぎをたしなめた、
という話も伝わっているが、
ポル・ポトやイエン・サリはその忠告を、
歯牙にもかけなかったのだろう。
ポル・ポト時代、顧問という名目で、
二万人に及ぶ中国人がカンボジアにやって来、
農業工業軍事、さまざまの面で指導に当たった。
ポル・ポトたちの中国傾斜も甚だしかったが、
中国の入れ上げもたいへんなものだった。
中国はおびただしいお金とエネルギーを、
カンボジアにつぎ込む。
中国人はカンボジアをほんとの理解と愛で援助しただろうか?
中国にとってはぴったりしたやり方でも、
風土国情民族性の違うカンボジアに、
そのお宗旨はあうものだったろうか?
外国の思想や政策を自国にそのままもってくるには、
充分消化されそしゃくされつくした、
その風土、民族性に適したものになっていなければならない。
これは政治に素人の我々でも考えられることだが、
何しろ、ポル・ポトたちは急いでいた。
赤色クメールは少数派だから、
市民や農民の反乱や反対勢力を恐れた。
ゆっくり革命をやるわけにはいかない。
市民に考える余地を与えず、
文字通り一気にやろうとした。
プノンペン入城後、
全市民に退去命令を出した。
ポル・ポト派は、
全国民の支持を受けて誕生した政権ではなかった。
そのころ、
アメリカはインドシナから手を引きたがっていたし、
シアヌーク殿下の人望はまだ高かったし、
中国の後押しはあり、
ロン・ノル政権から人心は離れており、
隣国、ベトナム解放軍の実力も人気も充実していた。
その影響に便乗してポル・ポトは好機をつかみ、
権力を握る。
しかしまだその力は弱く、
国民を掌握できない。
ポル・ポトたちは恐怖心で民衆を承伏させるしかない、
と思う。
彼らは都市のインテリ、学生、市民が、
反対勢力の温床になることを恐れる。
都市を壊せばよい、と思う。
既成の社会、中国以外の外国の匂いのついたもの、
すべてを抹消し、そのあとに新しい社会、
完全に階級のない、自立自足の平等社会を作る、
とうたいあげる。
言論の弾圧、などという以前に、
一切の言論を封じてしまうため、
インテリや学生を殺すことになる。
ポル・ポトらの猜疑心はやむことを知らない。
民族を寸断して、地方へ大移動させ、
見知らぬ人ばかりの他郷へ投げ込む。
血縁知人友人は離れ離れになり、
家族さえも別れさせる。
人は孤立し、根無し草になる。
強制と服従を全国土にゆきわたらせる。
むろんポル・ポト政権のような、
野蛮で未熟で偏波な思想の政権は、
どんな国にしろ、二度と生まれてはならないが、
もともとその要素はどの国も持っている。
それは人間のふかい心の奥底にとじこめられている、
魔性のものと関連があるからである。
人間は本来、悪魔になりたがっているのかもしれない。
しかしまた、ポル・ポト政権が滅んで、
カンボジア人に生気がよみがえったとき、
人々はまっ先に破壊されたお寺へ集まり、
散らばった仏像の破片を拾い集めてお祀りしたという。
近親者を求めてさがし合い、
結婚式と赤ん坊の生まれたお祝いに、
村びとが再び寄りつどうようになったという。
人と人とのぬくもりをたしかめ、
手をにぎりあい、笑いを交わすことの自由を、
喜び合った。
人間はまた仏性も、あわせ持っていた。
このあいだ、テレビで近年はじめてといってよい、
アンコールワットやトムの取材番組があった。
それらは私が思ったほど荒廃していず、
浮彫も観音像も美しい姿をとどめていた。
私をホッとさせたのは、
カンボジア男性の健康的でたくましい体つきを見たこと。
ポル・ポト時代の栄養失調から、
回復しつつあるのが嬉しかった。
ただ、しんと人影のないアンコールワットの中で、
老僧一人がポル・ポト時代に殺された人の冥福を祈るため、
黙々とお百度をふんでる姿が印象的だった。
いま、カンボジアは人々の生命力が噴出したように、
出産ラッシュだという。
おのずからなる民族の復元力がはたらくのか、
またはこの例のない不幸を経験した民族に、
仏さまが大慈大悲のみ心を寄せて下さったからなのか。
ポル・ポト時代は、
もっと解明されるべき要素をもっている。
謀略まみれの風説として忘れ去られるような、
たぐいのものではないと思う。
二十世紀におきた最大の事件の一つではないか。
そのわりに人々に知られること少ないのも、
私にとっては最大の謎である。



(了)