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「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

9、しんきくさい

2022年01月06日 09時24分36秒 | 田辺聖子・エッセー集










・しんきくさい、という大阪弁は、
もどかしい、じれったい、うっとうしい、くさくさする、
いら立たしい、くだくだしい、などという状態を指す語。

これは「しんき」という語に「じゃまくさい」や「めんどくさい」
などと同じく、語意を強調して形容詞化した「くさい」が結合したもの。

私の友人のお嬢さん、このほど見合いをした。
まことに良縁と思われたのに、彼女の方から断った。聞くと、

「ものもあんまり言わへんし、モジモジして、
あんなしんきくさい男、知らん!」とのことであった。

ハッキリ決断のつかない、うじうじしたという意味の他に、
いつまでも果てしない単調な作業の繰り返し、そんなとき、
「ああ、しんきくさ!」という嘆声が出る。

しんきくさいに感嘆符をつけるときは「しんきくさ」になる。

私は鼻は低いが、
目の性がよく何でも見えるのが取り柄であったのに、
近来、字引を見るときは、老眼鏡に頼らなくてはならず、
細かい字がクシャクシャ並んでいると、
「ああ、しんきくさ!」と言いたくなる。


・先のお嬢さんのように「しんきくさい、ハッキリしなはれ」
とどやされるのは男性に多くなっているかもしれない。

「しんきくさい恋」というのもある。

バルザックの「谷間のゆり」
あるいはゲーテの「若きウェルテルの悩み」
にあるような純愛である。

ウェルテルはロッテに恋い焦がれながら指一本ふれず、
フェリックス青年はモルソーフ伯爵夫人に七転八倒するほど、
いかれながら、夫人にチョッカイを出すなどという、
下世話な仕儀はできなくなってしまった。

両方の小説とも、それだけのことを、
えんえん何百ページも費やして書いてあり、
「しんきくさい恋」であり「しんきくさい小説」とも思われる。

しかし、文学的趣味としては、私はこの両作品が好きである。
外見は華麗にして内容はしんきくさい小説が多いが、
この両作品は私にとってはしんきくさくない。


・大阪の町奉行に、久須美ゆうせん、という人がいた。

この人は安政二年(1855年)五月に、
江戸から大阪へ赴任してきた時は、
五十九才の中年紳士である。

この人は詩文の才ある教養高い趣味人で、
大阪のものはみな、一風変わって面白くて仕方ない。

それで私的エッセーを書き止めた。
その見聞録を「浪花の風」というが、おかしいことが多い。

金儲けのことばかり考えていて、
サムライの久須美さんから見るといやらしい。

<お奉行の 名さえ知れずに 年暮れぬ>
と詠んだのは大阪人で、サムライが何じゃ!という土地の気風。
久須美さんにとっては苦々しい。

洞察力のある人とみえて、
人情は大阪の方が悠長でのんびりして、
利を得ても、のちのちを考え、
目前の小利をむさぼるというのではないと観察している。

不思議なのは、儲けることには敏き大阪人のくせに、
「盗難など防ぐことは甚だ粗略なり」と記す。

たとえば、夜中も戸締りせず、
また昼は家中みな出て、空き巣に入られたりしている。

「これ、営利専らの内にも、何となく悠長なる性質ある故なり」

大阪の食べ物、そばは拙いがうどんは美味いとか、
ネギ、タケノコ、魚が旨いとか、江戸と食べ比べをしているが、
うなぎとすっぽんは「上方の調整にては 江戸の口には適し難し」

次の年の夏の暑さは堪えがたかった。
江戸育ちの久須美さんは「実にしのぎかねし」暑さであった。

彼は狂歌を詠む。

<このほどのえらい暑さのしんどさに 
お家(え)さんたちも こけているなり>

<順ぐりにこけては休むそのねき(傍)に
御寮人にはえらい身仕舞>

<どだいこの暑さに負けて何せふも
よふ出来ぬなりしんきくさくて>

大したサムライで、着任一年で大阪弁をちゃんと物にしている。

久須美さんは下々のことを聞くのに、
お出入りの按腹医・元節を利用したらしい。
大阪弁も彼に聞いたのであろう。

「しんきくさい、と申すは、いかがな意味か?」
とマッサージ師の元節に聞く。

「さよですなあ。お江戸で申しますなら、
面倒くさい、じれったいというほどのわけでござります」
などと言う。

この元節あんまはもしかすると江戸下りか、
それとも代々江戸っ子の町奉行のあんまをしてきて、
江戸弁に通じ、私設通訳になったのかもしれぬ。

「しんきくさい」も、
他国人には耳慣れぬ言葉である。






          

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