
・しんきくさい、という大阪弁は、
もどかしい、じれったい、うっとうしい、くさくさする、
いら立たしい、くだくだしい、などという状態を指す語。
これは「しんき」という語に「じゃまくさい」や「めんどくさい」
などと同じく、語意を強調して形容詞化した「くさい」が結合したもの。
私の友人のお嬢さん、このほど見合いをした。
まことに良縁と思われたのに、彼女の方から断った。聞くと、
「ものもあんまり言わへんし、モジモジして、
あんなしんきくさい男、知らん!」とのことであった。
ハッキリ決断のつかない、うじうじしたという意味の他に、
いつまでも果てしない単調な作業の繰り返し、そんなとき、
「ああ、しんきくさ!」という嘆声が出る。
しんきくさいに感嘆符をつけるときは「しんきくさ」になる。
私は鼻は低いが、
目の性がよく何でも見えるのが取り柄であったのに、
近来、字引を見るときは、老眼鏡に頼らなくてはならず、
細かい字がクシャクシャ並んでいると、
「ああ、しんきくさ!」と言いたくなる。
・先のお嬢さんのように「しんきくさい、ハッキリしなはれ」
とどやされるのは男性に多くなっているかもしれない。
「しんきくさい恋」というのもある。
バルザックの「谷間のゆり」
あるいはゲーテの「若きウェルテルの悩み」
にあるような純愛である。
ウェルテルはロッテに恋い焦がれながら指一本ふれず、
フェリックス青年はモルソーフ伯爵夫人に七転八倒するほど、
いかれながら、夫人にチョッカイを出すなどという、
下世話な仕儀はできなくなってしまった。
両方の小説とも、それだけのことを、
えんえん何百ページも費やして書いてあり、
「しんきくさい恋」であり「しんきくさい小説」とも思われる。
しかし、文学的趣味としては、私はこの両作品が好きである。
外見は華麗にして内容はしんきくさい小説が多いが、
この両作品は私にとってはしんきくさくない。
・大阪の町奉行に、久須美ゆうせん、という人がいた。
この人は安政二年(1855年)五月に、
江戸から大阪へ赴任してきた時は、
五十九才の中年紳士である。
この人は詩文の才ある教養高い趣味人で、
大阪のものはみな、一風変わって面白くて仕方ない。
それで私的エッセーを書き止めた。
その見聞録を「浪花の風」というが、おかしいことが多い。
金儲けのことばかり考えていて、
サムライの久須美さんから見るといやらしい。
<お奉行の 名さえ知れずに 年暮れぬ>
と詠んだのは大阪人で、サムライが何じゃ!という土地の気風。
久須美さんにとっては苦々しい。
洞察力のある人とみえて、
人情は大阪の方が悠長でのんびりして、
利を得ても、のちのちを考え、
目前の小利をむさぼるというのではないと観察している。
不思議なのは、儲けることには敏き大阪人のくせに、
「盗難など防ぐことは甚だ粗略なり」と記す。
たとえば、夜中も戸締りせず、
また昼は家中みな出て、空き巣に入られたりしている。
「これ、営利専らの内にも、何となく悠長なる性質ある故なり」
大阪の食べ物、そばは拙いがうどんは美味いとか、
ネギ、タケノコ、魚が旨いとか、江戸と食べ比べをしているが、
うなぎとすっぽんは「上方の調整にては 江戸の口には適し難し」
次の年の夏の暑さは堪えがたかった。
江戸育ちの久須美さんは「実にしのぎかねし」暑さであった。
彼は狂歌を詠む。
<このほどのえらい暑さのしんどさに
お家(え)さんたちも こけているなり>
<順ぐりにこけては休むそのねき(傍)に
御寮人にはえらい身仕舞>
<どだいこの暑さに負けて何せふも
よふ出来ぬなりしんきくさくて>
大したサムライで、着任一年で大阪弁をちゃんと物にしている。
久須美さんは下々のことを聞くのに、
お出入りの按腹医・元節を利用したらしい。
大阪弁も彼に聞いたのであろう。
「しんきくさい、と申すは、いかがな意味か?」
とマッサージ師の元節に聞く。
「さよですなあ。お江戸で申しますなら、
面倒くさい、じれったいというほどのわけでござります」
などと言う。
この元節あんまはもしかすると江戸下りか、
それとも代々江戸っ子の町奉行のあんまをしてきて、
江戸弁に通じ、私設通訳になったのかもしれぬ。
「しんきくさい」も、
他国人には耳慣れぬ言葉である。


