
・4月17日のプノンペン陥落について、
4月30日には隣国ベトナムのサイゴンも陥ちたが、
サイゴンへ入った共産軍の北ベトナム兵は、
規律も正しく、サイゴン市民に友好的態度を示した。
しかし、カンボジアではプノンペンばかりではない、
全国的規模で不思議な事態が生まれつつあった。
ロン・ノル政府軍を破って首都を占領したポル・ポト革命軍は、
全国の都市から市民を追い出し、
農村へ、田舎へと総退去させた。
都市をゴーストタウンにしようというのだ。
ポル・ポトらの「赤いクメール」の説明によれば、
まず町をからっぽにするのは、
反対勢力の拠点をつぶすため、という。
これは、元々ゲリラのやり口で、
町や村の住民を森へ追い出し、
そのあと、町や村に火を放って、
敵がそこを利用できないようにする。
その作戦をそのまま近代都市に踏襲した、
と説明する人もいる。
しかしポル・ポトらの主張を要約すると、
都市文化を否定するのは、
彼らのイデオロギーの必然的な結果であるらしい。
「都市は悪だ」
「プノンペン自体はフランス植民地主義、華僑の商業、王制、
ついでに共和国政府の官僚制のおかげでで成長した。
こうしたものは一切ぬぐい去り、
その代わりに平等主義的な農村社会を作らねばならない」
今まで坐して米を食べていた町の人間も、
これからは働いて汗して米を作るべきだ、
金持ちも貧乏人もなく平等であるべきだ、
そうして古代クメールの栄光を受け継ぎ、
純粋クメール族によるユートピアを作ろう、
というのがポル・ポト、イエン・サリ一派の、
基本的理念であった。
これは農民を革命指導者にするという、
毛沢東路線に忠実に追従しているらしい。
しかし都市の市民をいっせいに追い立てるというやり方には、
人間らしい配慮も施策もなかった。
彼らは抽象的に作り出された理論を裏付けることに、
その目的があった。
ポル・ポト軍の黒服の兵士らは無智でたけだけしく、
険悪で、人間らしい情感は持っていなかった。
彼らはそうなるように特別に教育された若者であった。
女兵士もいたが、彼女らも人間らしさを取り落としたような、
無表情でニコリともしなかった、という。
彼らは殺気だっていた。
「早く出ろ、出るんだ!」
彼らは怒号し、銃を空に向けてぶっぱなす。
「アメリカ軍の空襲があるから町を出ろ、
二、三日すれば戻れる、我々が町を守るから、
あとの心配はいらない、家はそのままに」
という広報車が町を走る。
プノンペンの北にいる者は北の郊外へ、
南にいる者は南へと、集結場所を示される。
市民はこの時点で、
ほんとに米軍の空爆があるのかとおびえ、
またある人は革命軍が平和をもたらしてくれると思い、
指示通りにしようと思う。
ポル・ポトらはどんな考えでいるのか、
どういう性質の軍隊なのか、
誰にもわからなかった。
ただ彼らがやたら怖ろしく、険しく、たけだけしい、
という感触を、みんなは得ていた。
それに中国製の武器をたっぷり持っていた。
銃と怒号に追われ、
プノンペン市民はあわただしく、
少しばかりの食べ物と衣類を持って町を出た。
内藤泰子さん一家も、
缶詰やインスタントラーメン、鍋釜、大工道具、蚊帳、
などを車に積み込んだ。
車はエンジンをかけるのを許されないので、
皆で押した。通りは人の波であった。
この時期、プノンペンには流入した難民も合わせ、
300万人の人がいたといわれる。
それがいっせいに町を追われるのだから、
救いようのない混乱である。
強制移動、これがはじまりだった。
道路は、身動きできぬほど人で埋もれていた。
インドシナの4月半ばは、日中は40度を超す暑さとなる。
炎天下、押し合いへし合いの行進は、
まるで「死の行進」である。
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