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「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

13、カンボジアに何が ⑤

2022年08月06日 09時32分52秒 | 田辺聖子・エッセー集










・4月17日のプノンペン陥落について、
4月30日には隣国ベトナムのサイゴンも陥ちたが、
サイゴンへ入った共産軍の北ベトナム兵は、
規律も正しく、サイゴン市民に友好的態度を示した。

しかし、カンボジアではプノンペンばかりではない、
全国的規模で不思議な事態が生まれつつあった。

ロン・ノル政府軍を破って首都を占領したポル・ポト革命軍は、
全国の都市から市民を追い出し、
農村へ、田舎へと総退去させた。

都市をゴーストタウンにしようというのだ。

ポル・ポトらの「赤いクメール」の説明によれば、
まず町をからっぽにするのは、
反対勢力の拠点をつぶすため、という。

これは、元々ゲリラのやり口で、
町や村の住民を森へ追い出し、
そのあと、町や村に火を放って、
敵がそこを利用できないようにする。

その作戦をそのまま近代都市に踏襲した、
と説明する人もいる。

しかしポル・ポトらの主張を要約すると、
都市文化を否定するのは、
彼らのイデオロギーの必然的な結果であるらしい。

「都市は悪だ」

「プノンペン自体はフランス植民地主義、華僑の商業、王制、
ついでに共和国政府の官僚制のおかげでで成長した。
こうしたものは一切ぬぐい去り、
その代わりに平等主義的な農村社会を作らねばならない」

今まで坐して米を食べていた町の人間も、
これからは働いて汗して米を作るべきだ、
金持ちも貧乏人もなく平等であるべきだ、
そうして古代クメールの栄光を受け継ぎ、
純粋クメール族によるユートピアを作ろう、
というのがポル・ポト、イエン・サリ一派の、
基本的理念であった。

これは農民を革命指導者にするという、
毛沢東路線に忠実に追従しているらしい。

しかし都市の市民をいっせいに追い立てるというやり方には、
人間らしい配慮も施策もなかった。

彼らは抽象的に作り出された理論を裏付けることに、
その目的があった。

ポル・ポト軍の黒服の兵士らは無智でたけだけしく、
険悪で、人間らしい情感は持っていなかった。

彼らはそうなるように特別に教育された若者であった。
女兵士もいたが、彼女らも人間らしさを取り落としたような、
無表情でニコリともしなかった、という。

彼らは殺気だっていた。

「早く出ろ、出るんだ!」

彼らは怒号し、銃を空に向けてぶっぱなす。

「アメリカ軍の空襲があるから町を出ろ、
二、三日すれば戻れる、我々が町を守るから、
あとの心配はいらない、家はそのままに」

という広報車が町を走る。

プノンペンの北にいる者は北の郊外へ、
南にいる者は南へと、集結場所を示される。

市民はこの時点で、
ほんとに米軍の空爆があるのかとおびえ、
またある人は革命軍が平和をもたらしてくれると思い、
指示通りにしようと思う。

ポル・ポトらはどんな考えでいるのか、
どういう性質の軍隊なのか、
誰にもわからなかった。

ただ彼らがやたら怖ろしく、険しく、たけだけしい、
という感触を、みんなは得ていた。

それに中国製の武器をたっぷり持っていた。

銃と怒号に追われ、
プノンペン市民はあわただしく、
少しばかりの食べ物と衣類を持って町を出た。

内藤泰子さん一家も、
缶詰やインスタントラーメン、鍋釜、大工道具、蚊帳、
などを車に積み込んだ。

車はエンジンをかけるのを許されないので、
皆で押した。通りは人の波であった。

この時期、プノンペンには流入した難民も合わせ、
300万人の人がいたといわれる。

それがいっせいに町を追われるのだから、
救いようのない混乱である。

強制移動、これがはじまりだった。

道路は、身動きできぬほど人で埋もれていた。
インドシナの4月半ばは、日中は40度を超す暑さとなる。

炎天下、押し合いへし合いの行進は、
まるで「死の行進」である。

数字化ん

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