ソウル在住宝田さんからの韓国だより10月号を紹介します。
◆ 韓国からアンニョンハセヨ(支部長韓国だより)
●韓国のお盆(秋夕:チュソク)は旧暦8月15日です。
今年は9月21日(火)がその日でした。この期間は、昔の日本のように、親戚一同が集まり、墓参りや法事などを行います。しかし、今年は土・日曜を含めて5連休で、しかも政府から災害支援金が支給されたにもかかわらず、コロナの影響から里帰りをする人は多くなかったようです。
(下の写真は、自宅近くの国立中央博物館から撮った中秋の名月です。)
●国立墓地を訪れ、朴正熙大統領の墓を参拝しました。
以前から、朴正熙元大統領の墓所がある国立墓地を訪ねてみたいと思いつつ、実現できていなかったのですが、旧盆(チュソク)の期間に訪ねてみることにしました。ところが、正門まで到着して、この期間が遺族の参拝を優先するために予約制となっていることを知り、入場を諦めざるを得ませんでした。改めて訪れたのは、2週間後の10月4日(月)でした。
韓国には国立墓地がソウルと大田にあり、ソウルの墓地は国立ソウル顕忠院と名付けられています。ここには日本統治時代の独立運動家や国家功労者、朝鮮戦争、ベトナム戦争の戦死者、朴大統領など歴代大統領が祀られ、その数は約17万人です。敷地面積は、約143万㎡で東京ドームが軽く30個は入る広さです。それぞれの墓は、整然と配列され、造花が均一に供えられ、驚くほど見事に管理されています。
その中で朴大統領の墓所(写真下)は敷地の最も奥にあり、正門から墓所入口まで最短コースを歩いて約20分かかります。入口から墓までは、約80メートルの石段を登ります。大統領は、先に銃弾(文世光事件)で唐黷ス陸英修夫人の墓の横に埋葬され、波乱万丈だった人生をお互いが称え、そして、いたわっているように見えました。
ところで、この墓地には、昨年7月に99歳で亡くなった白善樺(ペク・ソニョプ)元将軍が祀られていません。白将軍は弱冠32歳で韓国軍最初の大将に昇進し、朝鮮戦争では韓国滅亡の危機を救った最大の功労者の一人です。また、戦後は、交通部長官、フランスやカナダの全権大使、そして会社経営者として、国の発展のために数多くの業績を残されました。これにより李明博政権当時、死後この墓地に埋葬される決定がなされたのですが、日本統治時代に日本に協力したという現政権の判断から、もう一つの国立墓地である大田顕忠院に埋葬されました。救国の大恩人に対する文政権のこの処置、日本人の感性からは、到底理解できるものではありません。
◆ 韓国からアンニョンハセヨ(支部長韓国だより)
●韓国のお盆(秋夕:チュソク)は旧暦8月15日です。
今年は9月21日(火)がその日でした。この期間は、昔の日本のように、親戚一同が集まり、墓参りや法事などを行います。しかし、今年は土・日曜を含めて5連休で、しかも政府から災害支援金が支給されたにもかかわらず、コロナの影響から里帰りをする人は多くなかったようです。
(下の写真は、自宅近くの国立中央博物館から撮った中秋の名月です。)
●国立墓地を訪れ、朴正熙大統領の墓を参拝しました。
以前から、朴正熙元大統領の墓所がある国立墓地を訪ねてみたいと思いつつ、実現できていなかったのですが、旧盆(チュソク)の期間に訪ねてみることにしました。ところが、正門まで到着して、この期間が遺族の参拝を優先するために予約制となっていることを知り、入場を諦めざるを得ませんでした。改めて訪れたのは、2週間後の10月4日(月)でした。
韓国には国立墓地がソウルと大田にあり、ソウルの墓地は国立ソウル顕忠院と名付けられています。ここには日本統治時代の独立運動家や国家功労者、朝鮮戦争、ベトナム戦争の戦死者、朴大統領など歴代大統領が祀られ、その数は約17万人です。敷地面積は、約143万㎡で東京ドームが軽く30個は入る広さです。それぞれの墓は、整然と配列され、造花が均一に供えられ、驚くほど見事に管理されています。
その中で朴大統領の墓所(写真下)は敷地の最も奥にあり、正門から墓所入口まで最短コースを歩いて約20分かかります。入口から墓までは、約80メートルの石段を登ります。大統領は、先に銃弾(文世光事件)で唐黷ス陸英修夫人の墓の横に埋葬され、波乱万丈だった人生をお互いが称え、そして、いたわっているように見えました。
ところで、この墓地には、昨年7月に99歳で亡くなった白善樺(ペク・ソニョプ)元将軍が祀られていません。白将軍は弱冠32歳で韓国軍最初の大将に昇進し、朝鮮戦争では韓国滅亡の危機を救った最大の功労者の一人です。また、戦後は、交通部長官、フランスやカナダの全権大使、そして会社経営者として、国の発展のために数多くの業績を残されました。これにより李明博政権当時、死後この墓地に埋葬される決定がなされたのですが、日本統治時代に日本に協力したという現政権の判断から、もう一つの国立墓地である大田顕忠院に埋葬されました。救国の大恩人に対する文政権のこの処置、日本人の感性からは、到底理解できるものではありません。