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酒のツマミになる話題をセッセセッセ。独断偏見は”味付け”です※文中の敬称は略。

最愛の友マグロ船長 元旦に死す

2019-01-01 | 日記

人はいつか死ぬ、というより必ず死ぬ。
そうは思っても、突然の別れが耐え切れない。

我が最愛の友・服部一郎が1月1日午前2時2分、大阪・近大付属狭山病院で膠原病皮膚筋炎のため亡くなった。
享年69歳。
10月27日の入院から、わずか2ヶ月余だった。

膠原病は難病の一つで、皮膚筋炎はさらに難病だった。
検査の結果、肺に腫瘍を発見。
これが最終的に命を断つことになった。

服部はこの欄でも度々取り上げていた遠洋マグロの船長のこと。
追悼の意味を込めて、初めて実名で記した。


「ちょっと、しんどいねん。体中が筋肉痛みたいや」
昨年、10月24日に突然、電話をもらった。
電話をもらうまで、しばらく会っていなかった。

とにかく元気だった。
「オカ(陸)に上がったら、ノンビリするわ」
指折りの充実した海員組合保険で常日ごろから健康診断をしていた。

受話器の声に張りがない。
大西洋に遠洋航海すると1年半から、長ければ2年戻ってこない。
だから健康管理は必須だった。
少し高血圧だったが、それ以外は健康体だった。
その彼が悲痛な電話をしてきたのだ。
2度の離婚後、独身貴族を満喫していたが、まさかの病に襲われた。

電話を受けたこちらも、当初は楽観していた。
「どうせ、無理したんやろ?ただの筋肉痛や。暑かったから、今頃夏バテがきたんやないか?」
「ちゃう、携帯取るにも這っていく状態や。体が動かん。もう1週間になる」
「アカン、そりゃ、病院へ行け!手伝いに行こうか?」
「エエわ、大丈夫」
独り者だが、長年のパートナーがいる。
彼女が病院を手配して即入院した。

3日後の27日、軽い気持ちで顔を見に行った。
点滴をして元気そうだったが、車椅子。
少し驚いたが、車椅子を引いて
休憩室へ出かけた。
自動販売機でコーヒを飲んだ。
1週間ぐらいすりゃ、退院できる。
二人とも、そう思うほどだった。

だが、2週間たっても3週間経っても、退院の報告がない。
やがて、ラインしても「既読」にならなくなった。
心配で飛んで行った。

「検査、検査やけど、原因がわっからんのや」
「そんなことがあるんか?」

見舞いに行くたびに衰弱する姿を見て、信じられぬ思いだった。
受け答えは、その時点で普通に出来た。
ところが、一向に回復どころか、悪化していくばかり。
医師のいうには「膠原病の疑いがある」。
そんな程度。
なので、近くの大学病院(近大付属狭山病院)に転院した。

その間、ちょうど1ヶ月。
検査の結果「膠原病皮膚筋炎」の診断が下った。
医学に疎い我々には、聴いたこともない病名。
調べてみると、免疫、抗体の暴走で筋肉を攻撃。
筋力が衰退していく大変な病気だった。

後に分かるのだが、肺やリンパの腫瘍を猛攻撃していた。

その攻撃が腫瘍だけに留まらず、全身の筋肉を攻撃したから、たまらない。
やがて、喉の筋肉をやられ、自力で食事どころか、話すことも困難になってきた。
鼻からチューブで栄養を取らざるを得なくなった。
見舞っても、口はモグモグするのだが、話が聞き取れない。
恐ろしい病だった。
情けなくて、涙がこぼれた。
本人が一番、悔しかった。
「もどかしいか?」
目を見開いて「ん、ん」とうなずく。

左右の肺の真ん中辺りに悪性腫瘍が見つかった。
だが、手術するにも、位置が悪い。
さらには衰弱した体では手術に耐えられない。
抗がん剤投入も難しい。
「どうしてもいいから、助かりたい」
本人の要望で抗がん剤を点滴投入した。

入院2か月経った頃には、衰弱が激しかった。
全身が腫れあがり点滴針を刺すところがなくなり、左首筋に刺し込んだ。
針は心臓付近までの長さがある。

やがて血液はさらさらになりすぎて凝固しなくなった。

つまり血が流れて止まらなくなった。
枕元は真っ赤に染まる。
輸血は計3度。
処方の末、なんとか凝固し始めたものの師走28日。
医師は「今夜がヤマ場です。持つか、どうか…」
無情の宣告。
Yと二人で泊り込んだ。

幼稚園、小学校時代から親友トリオの一人Y・Sと泊り込むこと数回。
小学校、中学校など青春時代の思い出を病室で語り合った。
と、言っても6本のチューブにつながれた服部は聞くだけ。
コミュニケーションは取れないが、話の内容は理解していた。
何かを喋ろうと、大きな目をクルクル動かしてくれる。
酸素マスク越しに何かを言っている。
「分からん。ん?」
病室で心電図をにらみながら、親友3人が徹夜で話し続けた。
時には懐かしい歌をスマホで聴かせた。
有馬記念のレース動画を見せた。
競馬好きなだけに、嬉しそうだった。
嬉しそうに見えた。

そうしてヤマ場を乗り越えた。
翌29日、病室を訪れた医師が驚いていた。
少なくとも3人の中では「小さな奇跡」が起きていた。
「なんとしても、年を越さなアカンで」

そんなこんな、で大晦日を迎えた。

大晦日の未明に「走れコータロー」を聴かせた。
それが結局、我ら3人の永遠の最後になるとは、その時点で夢にも思わなかった。
痰吸出が痛くて嫌がった。
看護師が来ると機器のほうに目をやる仕草さえした。
眉間にしわを寄せさえした。
笑わせてくれる。

「もうー。エエー!」
よほど痛いのだろう。
断末魔の声ならぬ声を上げたこともある。
その後、スヤスヤ、眠り続けた。

夕方頃までに、医師が首筋の針を変えたり、看護師が床ズレ防止のために態勢を変えたりしていた。
ボロボロに皮膚がめくれていた顔もスッキリ。
その後、スヤスヤ、眠り続けた。
「なんか落ち着いたな。大丈夫やな。帰るで」
後を家族に任せて家路についた。

「おおきにな、正月はゆっくり家で過ごせや。年越しの約束は守るで」
友はわざと、そうしたように、元旦の午前2時2分。
眠ったまま 天国へ旅立った。


元旦の未明4時過ぎ。
うつらうつらしていて、窓の外を見た。
薄紅が綺麗だった。
その時点で、服部が亡くなっている事を知らなかった。
なぜか映したくなった。
朝焼け模様に一番星がキラリ。

以前「これがケープ(南アフリカのケープタウン)の朝焼けや」
ガラケーのカメラで撮影した画像を送ってくれた。
滅多にそんなことをしないやつが。

その「ケープの朝焼け」をふと思い出したのだ。
「おい、俺もう、逝くで」
そう伝えてくれたのか?

そんなにフルスロットルで逝かなくても、と、残念で無念で、仕方ない。
このブログを記していても、涙があふれる。


【画像は75年のOB野球会】
幼稚園から65年の長い長い付き合いだった。
三稜中時代、投手の私と服部はバッテリーを組んだ女房役(捕手)。


服部は同級生の河野街子(故人)と東京へ駆け落ち。
心斎橋の美人喫茶に勤めるほどの美人だった。
強豪の浪速高中退後、プロ野球にまだ参入していないヤクルトで野球を続けた。
若気の至りで20歳前後に離婚。
その後、海上自衛隊横須賀基地などで通信を覚えた、
後にそれが生きた。
マグロ漁船員になった。

「俺、高校中退やけど、このままでは終わらん。負けるかい!」と一念発起。
勉強を重ね、船長まで上り詰めた。
3年前に高血圧の診断を受けリタイア。
それまでは大西洋を主舞台に遠洋マグロの船長として活躍した。

日本帰港はいつも年の暮れだった。
築地などへ本マグロ(クロマグロ)を卸していた。
年末から年始にかけて、が彼の勝負どころだった。
「暮れから正月に値段が上がるんや」
得意げに話していた。

◆遠洋航海すれば1年、2年◆
だから、彼は自宅を持たなかった。
アパートを仮住まいにした。
帰港すると3人が寄った。
服部とYは競馬談義に花が咲く。
私も一丁噛むが、詳しくないので聞き役。
たまに馬券を頼んだ。
もう時効だが、服部は758万円の馬券(500円)を的中させた。
Yに震える声で「エライの当てたで」

3人が白熱するのは野球談義だった。
マグロ談義はだめ。
「近大マグロ?大間?あんなもん、マグロやない。メバチもそうや。マグロはクロマグロやで」
大西洋、インド洋をまたに駆けた自負心が止まらない。

◆食べ切れなかった大トロ◆
「これブロックや」
冷凍したレンガのようなでかいトロ。
帰港するたびに、腹いっぱい食べさせてくれた。
大トロの味が忘れられない。
食べ過ぎて胸が悪くなったことさえある。
贅沢すぎた。
「服部よ、エエ目させてくれて有難うよ。あれは美味かった」
クライマックスの元旦を服部は人生でも全うした。
天国への航海に出航してしまった。


人生って、こんな、あっけないのか?
2年前には戦友のカメラマン伊ケ崎光雄(享年69)が旅立った。
奈良の名店居酒屋「蔵」で、2015年夏、4人が集った。
戦友カメラマンの食道ガンとの闘病はそこからスタートした。
わずか2年。
公私の最愛の友2人を69歳でガンに奪われた。
年末年始がつらい、悲しい、寂しい。





4 コメント

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お久しぶりです (せばすちゃん)
2019-01-01 23:52:06
年も明け元旦
私は今、葬祭センターの控え室。
大晦日、朝7:35 に父が亡くなりました。85歳。
今日はお通夜。
明日、葬儀となりました。
2017年3月、脳梗塞
10月、退院
いえでの介護、入退院を繰り返し、11月末、誤嚥性肺炎で入院して1ヶ月、絶飲食。
食べたい、飲みたい、帰りたい、死にたいと訴え続け、時には笑い。朝早くの病院からの電話。着いた時には心臓も止まり、死に目には間に合いませんでした。
小さい頃、味噌、ビスケット、小麦粉で
撒き餌を作り、父の自転車の後ろに乗り、中村晃子の虹色の湖?を歌いなから近くの川に釣りに行ったことが思い出されます。
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お悔やみ申し上げます (和田浩)
2019-01-02 03:54:43
さぞや悔しくて悲しいことでございましょう。私も2年前、67歳の兄を膵臓ガンで亡くしました。そして今、昨日、年始に訪れた同期入社の友が、前立腺ガンと闘っています。2人に1人ガンになるというのを実感してます。それにしても若い頃、お二人とも男前でしたね。合掌。
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Unknown (こちウワ男)
2019-01-02 06:52:41
せばすちゃんさん、久しぶりのお便りが残念な訃報ですね。ご尊父のご冥福を祈ります。本人が一番悔しいのでしょうね。でも、送る方も悔しいです。本当に走馬灯のように、とは、よく言ったものです。次から次から昔の事が思い出されて涙が止まりません。お互い、一杯思い出し、泣きましょう。
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Unknown (こちウワ男)
2019-01-02 07:02:47
和田さん、温かいお言葉有り難うございます。元気だったら、4人で食事でもすれば良かったですね。今は残った元気な時の写真を眺めています。今の時代と違って、少ないですが、1枚でいろんな思い出が広がります。最後は手足動かず、言ってる言葉は分かるのに返されない。会話したかろうに悔しかった、と思うと余計に泣けてきます。ほんの2か月前は想像だに、しなかったはず。嗚呼。の心境は我々以上でしょうね。
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