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バックトスの元祖名人 鎌田実死す

2019-08-04 | 日記

人間長く生きれば生きるほど、送る人が多くなる。
とりわけ少年時代のヒーロー、ヒロインらが亡くなっていくのは寂しい。

阪神が専守防衛のチーム時代。

大阪タイガースといっていた。
小山正明、村山実の二本柱。
1-0や2-0の接戦をものにするハラハラ野球が好きだった。
強力な投手陣を支えたのは鉄壁の内野陣。
二塁・鎌田実ー遊撃・吉田義男ー三塁・三宅秀史。
今では広島・菊池らでバックトスは当たり前の近代野球。
それを半世紀前に魅せたのが鎌田実
試合前のシートノックでゼニを取れた。
そのバックトスの名人が1日、肺がんで亡くなった。
享年80.

東京のジャイアンツに対する大阪。
今よりずっと伝統の一戦に重みがあった。
ピークだったのは59年、プロ野球初の天覧試合だった。
「三丁目の夕日」の高度成長期。
 
【8月3日付・日刊スポーツ】

我が10歳、小学校4年生。
大阪・遠里小野小学校の校内ソフトボール大会でホームラン打って、エースとして優勝。
得意げになって野球に目覚めた頃だった。
長嶋茂雄が2年目、王貞治が早実から巨人入りしたルーキーイヤー。
周囲はみなYGマークの帽子をかぶっていた。
今のように甲子園が巨人戦以外に満員になることはなかった。
そのころから偏屈の兆しのあった私は「大阪タイガース」のOTマークの帽子だった。 


ただ、それでも、長嶋茂雄は別格だった。
で、阪神といえば、専守防衛のチーム。
万年2位で「球界の社会党」とも言われていた。

とりわけタイガースの守りは華麗で鉄壁だった。
巨人・長嶋に対抗するサード三宅。
広岡達郎に対抗するショート吉田。
土屋正孝に対するセカンド鎌田。

鎌田は悪球打ちでも驚かせた。
とんでもない高めのボールでも強引に打ちにいった。
「大根切り打法」と名付けられた。
攻守に思い切りのいい選手。

淡路島・洲本高ではエース蔦行雄と同級生で4番ショート。
3年の夏は兵庫県大会決勝で県尼崎にサヨナラ負け。
甲子園切符は取れなかった。
蔦は後に近鉄入り。
引退後、報知新聞の記者になった。
私が入社したころは運動部のデスク(後に運動部長)だった。

横道にそれた。
プロ16年の鎌田の通算成績を見れば平凡(詳細は別記)。
しかし、我が野球少年の胸の奥に深く刻まれている。
記録より記憶に残る選手だった。

◆鎌田実(かまた・みのる)1939年3月8日ー2019年8月1日。肺がん。享年80.南あわじ市生まれ。広田中ー洲本高ー大阪タイガースー近鉄-阪神。57年6月二塁手でデビュー。62年、2番セカンドでリーグ制覇に貢献。71年、阪神に戻り選手兼任コーチ。72年引退。プロ16年で通算打率.234、1041安打、本塁打24。打点264、盗塁84.引退後は西宮・苦楽園駅前でスポーツ用品店経営の傍ら解説者を務める。09年からは神戸大海事科学部野球部監督。右投右打。177センチ。



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