人間長く生きれば生きるほど、送る人が多くなる。
とりわけ少年時代のヒーロー、ヒロインらが亡くなっていくのは寂しい。
阪神が専守防衛のチーム時代。
大阪タイガースといっていた。
小山正明、村山実の二本柱。
1-0や2-0の接戦をものにするハラハラ野球が好きだった。
強力な投手陣を支えたのは鉄壁の内野陣。
二塁・鎌田実ー遊撃・吉田義男ー三塁・三宅秀史。
今では広島・菊池らでバックトスは当たり前の近代野球。
それを半世紀前に魅せたのが鎌田実。
試合前のシートノックでゼニを取れた。
そのバックトスの名人が1日、肺がんで亡くなった。
享年80.
東京のジャイアンツに対する大阪。
今よりずっと伝統の一戦に重みがあった。
ピークだったのは59年、プロ野球初の天覧試合だった。
「三丁目の夕日」の高度成長期。
【8月3日付・日刊スポーツ】
我が10歳、小学校4年生。
大阪・遠里小野小学校の校内ソフトボール大会でホームラン打って、エースとして優勝。
得意げになって野球に目覚めた頃だった。
長嶋茂雄が2年目、王貞治が早実から巨人入りしたルーキーイヤー。
周囲はみなYGマークの帽子をかぶっていた。
今のように甲子園が巨人戦以外に満員になることはなかった。
そのころから偏屈の兆しのあった私は「大阪タイガース」のOTマークの帽子だった。
ただ、それでも、長嶋茂雄は別格だった。
で、阪神といえば、専守防衛のチーム。
万年2位で「球界の社会党」とも言われていた。
とりわけタイガースの守りは華麗で鉄壁だった。
巨人・長嶋に対抗するサード三宅。
広岡達郎に対抗するショート吉田。
土屋正孝に対するセカンド鎌田。
鎌田は悪球打ちでも驚かせた。
とんでもない高めのボールでも強引に打ちにいった。
「大根切り打法」と名付けられた。
攻守に思い切りのいい選手。
淡路島・洲本高ではエース蔦行雄と同級生で4番ショート。
3年の夏は兵庫県大会決勝で県尼崎にサヨナラ負け。
甲子園切符は取れなかった。
蔦は後に近鉄入り。
引退後、報知新聞の記者になった。
私が入社したころは運動部のデスク(後に運動部長)だった。
横道にそれた。
プロ16年の鎌田の通算成績を見れば平凡(詳細は別記)。
しかし、我が野球少年の胸の奥に深く刻まれている。
記録より記憶に残る選手だった。
◆鎌田実(かまた・みのる)1939年3月8日ー2019年8月1日。肺がん。享年80.南あわじ市生まれ。広田中ー洲本高ー大阪タイガースー近鉄-阪神。57年6月二塁手でデビュー。62年、2番セカンドでリーグ制覇に貢献。71年、阪神に戻り選手兼任コーチ。72年引退。プロ16年で通算打率.234、1041安打、本塁打24。打点264、盗塁84.引退後は西宮・苦楽園駅前でスポーツ用品店経営の傍ら解説者を務める。09年からは神戸大海事科学部野球部監督。右投右打。177センチ。
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