ebatopeko②
長谷川テル・長谷川暁子の道 (83) 水野破魔子 同級生、ベルダ・マーヨ ⑤
(のち、随筆家となった水野 破魔子が同級生の長谷川テルについて書いている)
(前回まで)
昭和六年(1931)満州事変。中国や満州から来た留学生は 日中間の関係がぎくしゃくしている現在、2020年を間近に迎えている現在、70年の昔に日中間において、その対立の無意味さをねばり強く訴え、行動を起こした長谷川テルは、今こそその偉大なる足跡を日本人として、またエスペランティストとして国民が再認識する必要があると考える。
そこで、彼女の足跡をいくつかの資料をもとにたどってみたい。現在においても史料的な価値が十分あると考えるからである。相次いで帰国した。揚(ヤン)さん、襲さん(ロン)さん、李さんがクラスからいなくなった。揚さんは雲南省の出だと聞いた。
李さんは私の隣の席であったが、眼鏡をかけた細面の、中国人らしい面立てで、李莉(リーリー)というその名を「Lilyみたいですね。莉は?莉花なのですよ」と話してくれたことがある。
兄とパリに行くのだと、学校を去る前に言ったが、どうしたろうか。満州出身だった張(チャン)さんだけが卒業した。
韓国人の呉(オ)さん、朴(パク)さん、ことに呉さんは寄宿舎も同室であったが、私は言葉遣いに注意して政治のことに触れないようにした。それなのにそのころの私は、帰国した留学生の心事にほとんど無頓着だったーただ興味本位の想像だけであったがーそんな態度は今思うと自分でも不思議である。
(以下今回)
昭和七年(1932)、上海事変。廟行鎮の敵の陣、我の友隊すでに攻む、折柄凍る如月の、二十二日の午前五時。しかし道頓堀も千日前も賑やかな娑婆であった。慰問文を書いたり、歌舞伎に夢中になったりしている私の毎日。羽左衛門が菊五郎、彦三郎と肉弾三勇士をやったり、文五郎がそれを人形で遣ったりするかなしさ。
長谷川さんは校友会雑誌に小説を発表した。善良で無意味な学生生活がむき出しにされた。長谷川さんはもうそのころ、もえあがっていたのだろう。憎悪と批判が渦をまいていた。みなは驚いたり苦笑いしたりした。私は長谷川さんの冷静さを畏敬したが、その野暮ったいものへの軽蔑と冷たさがいやであった。
三人以上集まるときは舎監に集会届けを出さなければならないとお達しが出た。もっとも、そんなことを厳密に実行したわけではなかった。しかし私はーおそらく私たちーはそんなお達しの裏にある力や流れには無関心であったし、それを不当とすることも学んではいなかった。
長谷川さんが金子ふみの自叙伝を持ってきてくれた。庭一つ向こうの寮から、本当は禁じられていた兵児帯姿で、私のいる寮舎の廊下にきていた姿も思い浮かべることが出来る。
私はこの書物の暗さと、エキセントリックな表現がいやでーつまり私の物の見方はいつもそんなだったのであるー貸してくれた人への義理のような気持で大急ぎで読んでしまった。朴烈と並んでいる写真ははっきり記憶している。「私は吉野葛の方がいい。なんならいっそ、泉鏡花でもいいわ」
本を返すとき、そんな憎らしいことをいった。谷崎潤一郎の『吉野葛』は『盲目物語』といっしょにずいぶん凝った装幀で出ていて、透明な哀しみを湛えた美しさだと私は思っていた。
鹿児島の、冒頭の手紙をくれた久保田さんが、この自叙伝で大変感激していたのも覚えている。何だか、長谷川さんが同志を探す手紙だったような気がするのだが、私はそれに落第したわけである。
長谷川さんと話らしい話をしたのはそれが最後の記憶である。
昭和七年(1932)、夏休みを終えて全校生が寮に帰ってきた夜、多分九月の九日であったろう、私たちの学校は全生徒がだいたい寄宿寮生活をしていたのだが、その中から長谷川さんと長戸さんは警察に拘留され、そのまま学校には帰らなかった。