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碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

碧川家と西村家

2008年12月11日 12時25分39秒 | 碧川

          ebatopeko

  

 

            碧川家と西村家   

 

 西村家と碧川家について、潮地さんの書かれたものおよび山陰歴史館の資料を参考に、ふれてみたい。

 碧川企救男の父真澄が米子に来たのは明治二十年(1887)七月である。鳥取始審裁判所米子支庁詰めになったのである。四十三歳であった。

 碧川真澄が明治二十三年(1890)に一家揃ってキリスト教に入信し、米子で最初のキリスト教徒となったことは別稿でふれた通りである。

 そのとき、英国人宣教師エビントン師から受洗した最初は真澄であったが、二番目に受洗したのが米子の西村佐司衛であった。碧川真澄と西村佐司衛は心からの友人であったと思われる。

 
 西村佐司衛の父伝九郎は、文政元年(1818)伯耆の国西伯郡外江村に生まれた。その後、伯耆大山・天領武士、西村彦右衛門の養子となり、天領僧正の日光転封の際随従したが、米子城主荒尾但馬守の召し抱えるところとなり帰参した。

 伝九郎は、城主の信望厚く、累進して御側役の要職に就いた。その間、兵学・詩文・馬術・書を学ぶ。幕末には、家老らと同志を糾合して勤王党の主唱者となった。明治維新後は、川田子爵家の家令を務めた。

 しかし、西郷隆盛・桐野利秋と交誼を結び、西南戦争に関与して士族を剥奪された。明治二十年(1887)死去した。しかし、明治二十六年(1893)恩赦により、鳥取士族に復し武家公債を受領した。

  西村佐司衛は、西村伝九郎とトラの子で、弘化四年(1847)米子の立町に生まれた。

 妻はみつであった。彼は家業として金穀貸し付け業を営み、混沌とした世の濁流を避け、自主・独立・余栄を楽しみ、歌人として名を残した。

 また碧川真澄とともに聖公会米子聖ニコラス教会の草分けであったことは、上に記した通りである。

 また、西村佐司衛は村河与一右衛門の顕彰に努めたことでも知られる。

 その碧川家と西村家がさらに深いつながりを持つにいたるのは、明治三十四年(1901)一月十日、西村佐司衛の長女「なをの」(26歳)と碧川家の長男碧川熊雄(28歳)が結婚したことによる。

 その結婚式は、東京京橋の日本聖公会新橋教館において、牧師富田孫太郎氏の司式のもとで執り行われた。

 碧川熊雄は、明治五年(1872)四月十三日、東京下谷車坂において生まれた。彼の名前の由来は、父碧川真澄が入間裁判所(すぐに熊谷裁判所と名称変更)に勤めたからである。

 碧川真澄は子どもの名前を、真澄のその時どきの勤務地にちなんで付けている。熊雄も熊谷からとったものである。

 碧川企救男の名前も、その生まれたのが真澄のそのときの勤務地が、豊前の国(のち福岡県)小倉裁判支庁詰めで、企救郡小倉魚町に住んでいたからである。

 ところで、両親が受洗したとき、熊雄は米子にはいなかったので、その年の五月、明治学院神田講義所で受洗したという。

 碧川企救男と違って、企救男の兄熊雄については、よくわからないところが多い。しかし、聖公会信者としては活躍したことがうかがえる。

 『日本聖公会松江基督教会百年史』の明治二十六年(1893)の項に、

 「信徒、碧川熊雄氏、船中にて伝導のため来松、米子へ、宍道へと、湖を東へ西へと行く。補助として米子在住の女教師ポーター、西村ひろ子姉(伊木久次郎師の姉)の三名を当てる。富田孫太郎師帰阪。」とある。

 松江にバックストン師がおられたころである。

 西村なをのは、西村佐司衛の長女で(次女との説も?)、明治七年(1874)米子内町に生まれた。彼女は初め京都同志社女学校に入ったが、病弱のため退学し、その後岡山県高梁のミッションスクール順正女学校(のちの高梁高等女学校)を卒業した。

 碧川熊雄と結婚した「なをの」は、東京芝新堀にあった亀屋の家に住み、熊雄は勤めに、なをのは裁縫の上手な人だったので、亀屋の縫い物をしていたという。

 その後、なをのは若くして脳血栓のため、半身不随になり(熊雄の母みねは、なをのがあまり働き過ぎたからだと言っていたという)、子どもが生まれなかった。

 そこで明治三十八年(1905)五月二十九日、小樽に住んでいた熊雄の弟企救男の家に生まれた長女澄を生後80日で養女として迎えた。澄という名前は、熊雄の父碧川真澄の名前からもらって付けたという。

 熊雄は、横浜にある輸入品を扱うウイトコスキー商会に勤めていた。会社では、仕事の輸入品の中では、洋酒の係であったが彼自身は酒を飲まなかったという。

 朝は娘の澄が登校してから、洋服を着て(当時洋服を着る人は極めて少なかった)、浜松町から当時「院電」といっていた電車でパス(定期)を使って通勤していた。娘の澄はそのパスが羨ましかったという。

 かのウイトスコキー商会では、ワシミルクという、母乳代用のコンデンスミルクでは一番良いといわれたミルクを扱っていた。

 あるとき、その偽物が出たというので、その対策のため熊雄は、台湾に出張した(当時台湾は日本領)。そのとき、娘の澄も一緒に連れて行った。そして、台北から台南まで旅行した。また親類の石黒さん?がいた高雄までも行ったという。

 
 西村家についてであるが、なをのの他の兄弟はどうなっているのであろうか 

 西村佐司衛の長男は卯(しげる)である。明治十六年(1883)に米子内町に生まれた、旧制松江中学から五高(熊本)に進み、明治四十三年(1910)東京帝大独法科を卒業した。

 明治四十五年(1912)検事となり、以後東京、長野、伊那、新発田、宇都宮、横浜、名古屋、山形(ここで検事正となる)、函館、水戸を経て最後に大審院検事となり昭和二十年(1945)退官した。

 退官後、北海道弁護士会長になっている。勲二等を賜った。
 姉なをのの娘である姪の澄(実は企救男の長女)の記憶の中には、当時東京帝大に在学していた西村卯が、澄に「厳窟王」や「幽霊船」などの本を薦めたという。

 次男徳吉は、明治十九年(1886)米子内町で生まれ、のち米子尾高の医師中村家に養子に行き、中村徳吉となった。

 旧制米子中学の一回生で、東京帝大から「聖路加病院」につとめ、のち外科医長となり、アメリカ赤十字病院外科部長としてシベリア出兵にも従軍医として加わった。

 姉なをのの娘澄に対して、徳吉は「ハイネ詩集」などを買ってきてくれたという。また、聖路加病院につとめていたころ、当時まだ一般的になっていなかったラジウムを澄に見せて説明してくれたという。

 また、聖路加病院では、「聖路加国際病院創立者・トイスラー小伝」を著し、創立者の掲げた理念と実績を学ぶための好個のテキストとして、聖路加病院では新人教育に必ず使用されるものとなった。

 中村徳吉の「米子松江大社旅行記」には、つぎのような米子の記述がある(年不詳)。

 「(前略)皆生は、小生がまだ米子にいた昔は、海中に湯が出ると噂されていた土地で、年月たつうちに日野川から流されて来た土砂により、海岸が埋まり、その土地を人工により、波涛を防いで陸を広くし、湯を引いて温泉旅館を作った町である。

 波打ちぎわに大きな石が数百メートルに渡って幾層にもつみ重ねて、日本海の怒濤から旅館を守っている。旅館3,40はあるだろう。

 文字通りの白砂青松がここから20キロの境港迄連なり、夜見湾(或は弓ヶ浜)を形成している。皆生の真向に島根半島の突端地蔵崎が見える。

 晴れた日には、隠岐の山が見えるという。海岸の松、所謂磯馴(ソナレ)松は、幹が皆陸地へ傾いている。強い海風を受けるためであろう。

 松の根本に佇んでなごやかな松風を聞く。小学校の時、遠足でこの浜に来て楽しく聞いた松籟を、数十年後に童心に帰って味わい返す事は、また一つの幸福であると思った」


 その他、徳吉の弟に万がいた。彼はのち碧川澄が昭和三十六年(1961)山陰を旅したとき、米子界隈を案内している。澄は「黒見」の叔父さんと言っていたが。境港に長く住んでいたという。西村家から境港の黒見家に迎えられたのであろう。

 碧川澄の紀行文「ちちははのふるさとを訪ねて」が当時の米子市長、野坂寛次氏に届けられたのは、この万を通してであった。

 野坂寛治氏は、この紀行文を感激して読み、その感想を記したあと、終わりにこう認めている。「一月八日 初市会の前 碧川澄夫人侍史」として、碧川澄宛てに送っている。おそらく昭和三十七年の一月であろう。

 その中に「御著を万ちゃんを通して御恵与頂きまして、誠に有難く拝読致しました。・・・黒見君は万ちゃん万ちゃんと親しんでいて、この万ちゃんが不肖な私を実にアガメ奉られて、常にコソバユくて避けて居る程にエライものにされて困ってゐます」と記している。

 この万の下に末弟の正次がいたが、彼のことについては、いまのところよくわからない。 
 



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