碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

『ちゝはゝのふるさとを訪ねて』 (25)

2013年07月27日 14時53分24秒 | 『ちゝはゝのふるさとを訪ねて』

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     『ちゝはゝのふるさとを訪ねて』 (25)

         ー碧川 澄の山陰紀行ー 

 (はじめに)

 碧川 澄は、「碧川企救男・かた」の長女として明治38年(1905)に生まれた。ただ、碧川企救男の兄である長男碧川熊雄・なをの夫妻には子どもがなかったので、碧川 澄は生後80日で長男の熊雄の養女となった。

 そのため彼女が父と言っているのは碧川熊雄のことであり、母と言っているのは「なをの」のことである。

 碧川 澄は名前からわかるように、碧川熊雄・企救男の父である碧川真澄の名前からとったものである。養父母となった碧川熊雄・なをの夫妻は、澄をこよなく愛し可愛がった。澄もよくなつき、ながらく養女であることを知らなかった。

 『ちちははのふるさとを訪ねて』は、碧川 澄が父である碧川熊雄・実父企救男の故郷山陰であり、母である碧川なをの・実母かたの故郷でもある山陰をはじめて(実際は3歳くらいのときに米子に行ったらしい)旅した紀行文である。そこには昭和30年代の出雲、松江や米子の様子が活写されており、実に貴重なものである。 
 
 なお碧川 澄は戦前に立教女学校を出て、東京中央郵便局の外国郵便課につとめていた。澄はエスペラントに堪能であったため、それを生かしたのであった。しかし、昭和16年(1931)結核に罹り、昭和18年5月手術によって奇跡的に回復した。

 結核から回復して片肺となった碧川 澄であったが戦後、自らの経験を生かし結核を病んでいる方々のための奉仕活動に、日夜没頭するのであった。戦後まもなく結核は食糧不足の日本での国民病といわれ、その患者は200万人とも300万人とも言われた。 

 ごく少数は入院出来たが多くは自宅療養であり、その方々の回復のために活動したのであった。彼女の行動に対して昭和23年、千葉県は結核予防事業功労者として表彰するにいたった。

 また「保健同人社」に入り、ここでも療養者を慰める活動を展開し、昭和27年(1952)からは「ラジオ東京」から毎週一回、「療養手帖」を碧川 澄の企画で放送した。彼女は「療養のママさん」として全国の療友に呼びかけ、全国の寮友はひたすら枕元のラジオに耳を傾け、その声に慰められたたのであった。テレビのない時代の療養者の星であった。

 また、「保健同人社」は昭和30年(1955)、長島愛生園のハンセン病患者「玉木愛子」の自伝『この命ある限り』の出版をにおこなった。その編集に携わったのが碧川 澄で、一週間にわたって岡山の愛生園に泊まり込み、玉木愛子と交流し出版にこぎつけたのであった。

 この碧川 澄の療養者に対して心を尽くす姿勢は、碧川企救男・かたの娘で、澄の末妹にあたる碧川 清の姿勢に共通するものがある。(注:碧川清については、私のブログの別稿、「碧川 清」のことー生涯を看護にーにおいて詳しく述べている。参照いただきたい)

 この碧川 清は、碧川 澄がこの『ちちははのふるさとを訪ねて』を記した昭和36年(1961)には、日本初の「重症心身障害児施設 島田療育園」の総婦長として迎えられている。

 このように碧川 澄は常にまわりの人々、とくに病める人や弱い立場にある人のために、自らの最大限のサポートを捧げたのであった。何よりその人たちが少しでもやすらげる事が彼女の願いであった。

 今回この『ちちははのふるさとを訪ねて』を紹介することにあたり、碧川熊雄・企救男および碧川なをの・かたの孫であり、碧川 澄の子にあたる潮地ルミ様、碧川葆・浩子様ご夫妻のご支援をいただきましたことに厚く御礼申し上げます。  

 この紀行文は昭和36年(1961)7月19日から出雲市で開かれた「婦人民生児童委員代表者研究協議会」に埼玉県代表として出席した碧川 澄の記した謄写版(ガリ版)の鉄筆で書かれた記録である。その生の息吹を伝えるために、出来るだけ原文を忠実に再現したいと思う。


 

   (天神町の家)  その1     祖父 碧川真澄①
      

  (以下今回)

 「ふるさとの なつかしき家 来て見れば 門の柳の いたく老いぬる」 

 大正8年(注:1919)、野々村の伯母(注:叔母?。碧川熊雄・企救男のすぐ下の妹が、明治12年生まれの豊である。彼女は立教女学校にすすんで三井家の英語の家庭教師をしたこともある。31歳で島根の陸軍大尉(のち少佐)野々村繁の後妻となった。遅い結婚であった)が米子に来たときにうたったものである。

 天神川を前にしたこの家は、戦時中の疎開で前通りも広くなり、いまはバスも通っている埃っぽい道端にあった。門の柳も今はなく、まったくつまらない家である。

 当時判事であり(注:検事?)、後に弁護士の看板をかけていたというから、もっと落ちついた格式めいたものを感じさせるものかと思っていたのに、これはまたいわゆる町屋らしい、間口もやっと3間くらいの2階家であった。

 碧川の祖父(注:碧川真澄)は明治3年(注:1870年)、明治新政府辞令をもって裁判官(注:検事?)になって以来、東北、関東、九州と20年間転勤、転勤をつづけ、父(注:碧川熊雄)は東京、伯父(注:碧川企救男)、伯母(注:叔母?=豊)その名も豊前で生まれた伯母は豊子、伯父は福岡県企救郡とかで企救男といっている。

 米子に祖父が来たのが明治19年(1886)らしい。祖父のメモによると、
     「 鳥取始審裁判所米子支庁詰を命じ候事 司法省 」

とある。奏任官5等で、「年俸780円下賜候事 太政官」となっている。そして26年(注:26年間勤めたということ)、高等官6等をもって官を辞し、この家で弁護士を開業し、40年(注:明治40年=1907)頃までここに住んでいたらしい。

 このことはいずれも祖父のメモによるものであるが、くわしく知る人も語る人もいまはない。

 しかし、この米子滞在の20年間に碧川家に信仰の大革命があったことを祖父のメモは今も墨痕あざやかに、しかも火を吹くような信仰の焔をもって、祖父は私たち子孫に伝えようと書きのこしている。



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