ebatopeko
『拾有七年』を読む ⑮
(前稿まで)
『拾有七年』は、米子の生んだジャーナリスト碧川企救男の紀行文である。庶民の立場をつらぬいた彼は、日露戦争時においても、民衆の立場からその問題性を鋭くつき、新聞紙上で反戦を主張した。
碧川企救男は、鳥取中学(現鳥取西高等学校)を出て、東京専門学校(現早稲田大学)に進学するため郷里を出た。それから17年ぶりの明治四十五年(1912)、郷里鳥取の土を踏んだ。その紀行文である。
明治29年(1896)碧川企救男が鳥取中学の学生であった頃の話に有名なものがある。それは、当時の鳥取中学において風紀の乱れが教員側からも生徒側からも大きな問題となった。
そのとき学生に対して訓戒せよと演説者に推されたのが誰あろう碧川企救男であった。 碧川企救男が、酒を一滴も口にしたことがなかったのが、この際の最適任者と見られたのである。
そして碧川企救男がこのとき演説したのは、自分らの教員がややもすれば酒を飲み、また生徒にも飲ましたりする実例を挙げて、「今日の風紀の乱れたるは、罪生徒にあらずして教師にあり」と結論して、昂然と壇を降りた。
彼は薄命な閨秀(学芸にすぐれた女性)作家、河越照子女史の悲しい末路を思うのであった。
照子女史は非常に強い近眼であったが、なかなか美人であった。そのうち、彼女は志を立てて、東京に出で外国人婦人の通訳などをしていた。彼女の嗜む和歌がもとで、ついに『萬朝報』に身を投じた。
その彼女に京都第三高等学校(現在の京都大学の前身の一つ)のある教授から結婚談が持ち込まれた。
しかるに河越女史は、その教授の手紙の中に、見ぬ恋に憧れたような文句が見えたとして、断然媒介者に破約を申し込んでこの良縁を断ってしまったのである。
それ以来、川越女史の生活は実に淋しいものとなったという。貧しさと戦い、空想と戦い、新聞記者から雑誌記者となり、あらゆる奮闘のすえ明治44年(1911)遂に発狂したという。
碧川企救男は、川越女史と深い交際はなかったが、東京で一、二回面会したことがあったという。碧川企救男を弟のようにいろいろ話をしてくれたという。碧川企救男はその末路に涙を禁じ得なかった。
碧川碧川企救男は、翌日妻の父の墓に詣でた。妻かたは幕末維新の時代、鳥取藩の家老であった和田邦之助信且であった。没後従五位を贈られ、のち明治41年(1908)には従四位を追贈された。
前にふれた松田道之の妻は、この邦之助の妹であった。のち松田は初代大津県令や第七代東京府知事をつとめ、また「琉球処分」を担当した。
幕末期、松田道之は京都において、和田邦之助は鳥取にあって東西呼応して鳥取藩を佐幕派から勤王派に転じさせたのである。徳川家ともっとも関係の深い因幡藩を勤王へと導いた鳥取の中心人物の一人であった。
家老という立場、さらに勤王の志士としての父邦之助の墓はどうなっているかと考えた。しかし、その墓を見た碧川企救男は潜然として涙が下がるのをこらえられなかった。
墓は若桜街道の真教寺という処にある。代々の家老の墓であり墓石も実に立派な藻のであったが、哀れ和田邦之助の系列は碧川企救男の妻かたを除いて他はことごとく死に絶えたのか、香華を手向けるものもなく、墓は雑草の生い茂るに任されていた。
碧川企救男は思った。最近は幕末維新に活躍した因幡藩の志士も「健忘」の因州の人から全く忘れ去られてしまったのかかと。
住職に請うて回向をしてもらった墓に菊が盛んに伸びていた。この春(明治45年)までは妻の弟がいて、ときどき墓の話しも聞いたことがあるが、弟が死んでからは、もうこの墓を弔ってやるものはないであろうと嘆いた。
鳥取市の墓地移転によって、墓は現在和田邦之助の領地であった松崎の西向寺に移っている。
また、碧川企救男は幕末因幡二十士事件についても少し語っている。
私もブログの別稿で「鳥取藩 幕末因幡二十士事件」と題して取り上げているのでご覧頂きたい。
碧川企救男の語る。和田邦之助の偉かったのは、大阪で因幡藩が薩長から疑われ、因幡藩は二心を懐くものなりと立て札を立てられたとき、和田は憤然としてこの立て札を切り捨て、改めて「この立て札を切り捨てたものは因州の武士和田邦之助なり」と書いて悠然と旅宿に引き揚げ、反対者の来るのを待ったということであるとしている。
和田の墓に草が生い茂っていることと、池田家の現在の主人池田仲博侯が徳川家から迎えられた養子であることを思い合わせて、碧川企救男は多少の感慨がないでもないとしている。36歳の碧川企救男の思いであった。
(以下今回)
一日(いちじつ)の朝、碧川企救男は躍る心を抑えて二十年ぶりに彼の母校の中学校を訪れた。旧制鳥取中学(現鳥取西高等学校)である。碧川企救男は「僕を成させてくれた」学校と懐かしんだ。
元来鳥取という処は、たとえば袋の底のような処であるという。四方山と峰に囲まれてわずかに一方、千代川の河口を賀露港に開いているが、この賀露港がそもそも危ない港で、とうてい汽船など停泊しうるところでない。
このため、鳥取は商工業において何ら見るべきものもない。そのため、町は貧しく、市街は狭く、建物は低く、人は因循(保守的)にして井の中の蛙のようである。
この淋しい町にあって、この中学はおそらく唯一の誇りであろうと彼はいう。碧川企救男は、各地を放浪したが、鳥取中学のような景勝の地を占めたものはおそらくないと信じ、彼はこの中学を誇りたいと述懐する。
中学は久松山の麓、お城の二の丸跡に建てられている。外郭は、城の外濠をそのままに残して、老松古椎に三方を囲まれ、樹々の間から、青葉の市街を俯瞰することができる。学校の後ろは山になって、寄宿舎の賄い所の裏から傾斜の激しい、鬱蒼たる久松山が天を圧していた。
碧川企救男は、そのむかし寄宿舎にいたとき、二度も白兎が山から降りてきて、捕まえたことを思いだした。日本広しといえども、山兎を手掴み出来るような山の中に、学校を建てる処はめずらしいのではないかと彼は思った。
そして、碧川企救男は当時の寄宿舎のことを語り始めた。
当時の寄宿舎生活は随分束縛されたものであったと彼はいう。外出は一週間に水曜日と土曜日の放課後と、日曜日に限られた。外出時間は、午前八時から午後六時で、六時には帰舎しなければならない約束であった。
通学生は、寄宿舎生を称して、「籠の鳥」と言っていた。朝は五時に起床の鐘を鳴らし、三十分後に人員検査をおこない、夜は九時半に就寝の人員検査をして、三十分後には否が応でも床に入らなければならなかった。
碧川企救男は、自分がいま新聞記者のような不規則な生活をしながら、朝寝の癖のないのは、まったくこの寄宿舎生活のおかげであると信じているという。彼はこれを「若木の間に矯(た)めた枝の曲は、老樹になっても依然として残っている」と評した。
彼等寄宿舎生活者にとって苦しかったのは、日課点がきびしかったことであるという。その為、碧川企救男のような愚鈍な者は、就寝時間が来ても未だ明日の準備が出来ていないことが度々であった。
そこで、舎監の寝るのを待って、足音を忍ばせて、階下に降り、ランプの火を隠しながら、勉強を続けることを余儀なくされたという。当時の規則の厳重であった一例として、碧川企救男は、十二月二十八日の授業の最終日に、寄宿舎生が一時禁足を命じられた事件を思い起こす。
それは、明治二十五年(1892)のことであった。碧川企救男ら寄宿舎生活者は、授業が済み次第すぐ出発して、帰省の旅行に就くつもりで、朝から脚絆足袋で、教室に出ていた。
すると、四年と一年だけは、昼飯十五分前に授業が済んだので、これらの組の寄宿舎生活者は、寄宿舎の帰るやいなや昼飯の鐘の鳴らない前に、いずれも食堂に入って昼飯を食べた。
ところが、そこに突然校長の姿が現れた。校長は苦い顔をして、これら舎則違反者を睨み廻して、直ちに寄宿舎生全体の出発を止めさせ、校長の訓戒となった。
翔つ鳥後を濁さずと言うのに、鐘の鳴らぬ前に飯を食うとは何事ぞ、と大目玉を食らった。違反者十四五名はズラリと禁足を受けることになった。
ただの十分ばかり早く飯を食ったばかりに、一日の禁足は今から考えると、実に重い刑罰であるまいかと碧川企救男は思った。その上、その学期の学業成績表の氏名の上には、ご丁寧にも「刑罰一」と活版で印刷されるに至っては、むしろ残酷であろうと。
また、寄宿舎生は金銭を所持することを許されなかった。筆墨料もことごとく通帳で取って、月末に舎監自らこれを払い、その収支を明細に記入したものを父兄に送ることにしてあった。
そして、時々寄宿舎生の机の中を改めて、金銭の有無を検査された。困るのは食欲の盛んな少年達である。そこで、彼等はむやみと郵便切手を買うと称して、舎監から二銭もらっては、これを賄いに託し、煎餅やきんつばを買ってきて、食欲を満足させていた。
しかし、この奇策も後に舎監に見破られ、郵便切手は舎監室にたくさん買って置くことになって、まったく現金では渡されず、彼等は、きんつばを得る途を失ってしまったのであった。