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碧川企救男の欧米見聞記 ⑰
(帰休兵のご機嫌取り)
(前稿まで)
鳥取県米子市ゆかりの人物で、日露戦争に対しても敢然と民衆の立場から批判を加えたジャーナリスト碧川企救男は、1919(大正8)年第一次世界大戦の講和条約取材のためパリに赴いた。
中央新聞の記者であった企救男は、社長の吉植庄一郎に同行したのである。彼にとってはじめての外国旅行であった。
ジャーナリストの碧川企救男は、取材ののときもつねに着流しであったのでこれという洋服がなかった。洋行する企救男が着るものもなく困っているのを見かねた、義理の息子で詩人として著名になった三木露風(企救男の妻かたの前夫の子)が、洋服を見つくろってくれた。
三木露風は、企救男の長男道夫と一緒に万世橋の近くの柳原に行って、吊しの洋服を買った。既製服会社の現在の「タカQ」だという。背の低かった企救男にぴったりの洋服であった。
横浜から「コレア丸」いう船に乗船し、ヨーロッパ目指して出発した。このときの航路は、まず太平洋を横断しアメリカの西海岸サンフランシスコを目指した。
この出発のとき、企救男の母みねと妹の豊は、横浜のメリケン波止場で見送ったあと、磯子の若尾山から彼の乗船した「コレア丸」が水平線の彼方に隠れるまで眺めていたという。
ついに「コレア丸」は大正八年(1919)五月十三日、横浜を出て十八日の航海のはて桑港(サンフランシスコ)に着いた。
(以下今回)
碧川企救男は、サンフランシスコ(桑港)おいて、彼の言う「西洋風一膳飯屋」すなわち「カフェテリア」というものに感心したのであった。
サンフランシスコ(桑港)であれハワイ(布哇)であれ、彼の目についたのは、通行の米国人がみんな胸に「V」の徽章をつけていることであった。
これは第一次世界大戦の「勝利公債」の応募者に対し贈られた徽章で、いやしくも米国民として、国家を愛する一人として、そして今の大戦に賛成した一人として、是非この公債を買わねばならないということを訴えている。
だから、この公債に応募しないものにはこの有難い徽章は与えられず、この徽章を胸につけていない者は幅が利かないと言うわけである。
何でも今度の第五回勝利公債は、すでにアメリカ各地の応募高を合わせると、四十億に達しているという。それでもこれで良ではなくむしろ不良だと言われている。まだ足らないと言うことであろうか?
それでこの公債は何に使われるかと言えば、出征軍兵士の帰休費用に充てられるという。
アメリカは長い間、「モンロー主義」でによってヨーロッパには介入しなかったが、独逸軍の「無制限潜水艦攻撃」によって、参戦に踏み切った。
ときの大統領はウィルソンであった。今回の大戦で、各国の首脳が頭を悩ましたのが、帰休兵士をいかにして元の地位に就かせるかということにあった。
イギリスでも、この問題が時の首相ロイドジョージさんの頭を白くさせたという話があるという。
ロイド・ジョージは、自由党で保守党のチェンバレンと対抗する政治家であった。ボーア戦争に反対し、またイギリスの福祉国家の基礎を作った首相である。
もっとも出征した兵士にしても困ったことで、戦争だからと出されたものの、さあ戦争から帰って工場に行ってみると、彼の代わりに入った女の労働者で一杯で、余剰員の整理の真っ最中である。
そこに新たに労働者など入る余地などない。そこで、にわかに帰休兵の立ちん坊が、あちらにもこちらにも出ることになった。そこでこの兵士達も黙っていない。
そこで、ロイドジョージさんは、半年間の給与を帰休兵に与えることにした。アメリカでもそれに倣って半年間の給与をやらねばならぬとなると、政府の負担は想像を絶する。だから何でも公債を募集せずには居られないわけである。
もっともその辺は抜け目なく、殊にお祭り好きなアメリカ人とて、ヤレ水兵が帰ったの、ヤレ機関銃隊が帰ったのと大騒ぎをして、歓迎しているが、歓迎だけでは兵隊共聞きそうにない。そこでこの帰休給与を出すのである。
帰休給与を出さないと、「オイ、仏蘭西にいたとき、独逸の兵士から受け取った革命のパンフレットを出しますよ」と居直りそうになるから、資本家の多いアメリカでは、露西亜の二の舞をやられては一大事とばかり、腫れ物にさわる恐ろしさで、しきりと帰休兵のご機嫌をとっているのである。
アメリカに渡航する者が、アメリカ政府に出す色々な調査の中に、「汝は多妻主義にあらざるか」のつぎに、「汝は無政府主義者アナーキスに非ざるか」の一項がある。
ところが、このアナーキスをご苦労にも日本語では社会主義者と翻訳してある。
社会主義を恐れるアメリカでは、今やこの帰休兵の慰撫策に日もこれ足らざる有様であるのは、イヤお国柄ご心配も無理はない、と碧川企救男は高みの見物を決め込んでいる。