碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 (102)

2019年09月02日 22時19分42秒 |  長谷川テル・長谷川暁子の道

 ebatopeko②

 長谷川テル・長谷川暁子の道 (102)

          (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。

 実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。

 長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。

 長谷川テルの娘である長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。

  日中間の関係がぎくしゃくしている現在、2020年を間近に迎えている現在、70年の昔に日中間において、その対立の無意味さをねばり強く訴え、行動を起こした長谷川テルは、今こそその偉大なる足跡を日本人として、またエスペランティストとして国民が再認識する必要があると考える。

 そこで、彼女の足跡をいくつかの資料をもとにたどってみたい。現在においても史料的な価値が十分あると考えるからである。

   (前回まで)

 劉仁はここで非常に多くの事を学ぶが、心に感ずるところがあり、水産学校を卒業したのち、奉天の東北大学を受験しその予科に入る。

 東北大学創立八十周年記念叢書『張学良与東北大学』によると、東北大学は東北三省の中心地奉天(瀋陽)に一九二三年四月に設立された(現遼寧省人民政府の所在地)。

 専門コースは文科に国文学課、歴史学課、地理学課、教育学課、ロシア文学課、英文学課の六学課、理科は数学課、化学学課、物理学課の三学課がある。工科は土木学課、機械学課、電工学課、採鉱学課、冶金学課、建築学課の六学課、

 農業科は農学課、林学課、農芸化学課、獣医学課の四学課、商科は銀行学課、外国貿易学課、の二学課、法科は、法律学課、政治学課、経済学課の三学課が設けられ、学費は一年間一五〇大洋(銀貨の単位)、その他雑費、講義費、体育費なども必要であった。

 東北大学は建学の初期に予科制を採用した。およそ旧制中学あるいは同等の学校の卒業生、新制三年高級中学を一年以上修めた者で試験に及第している者、この資格に足る正式な証明書を有している者、入学試験に合格している者は、予科に入ることができた。

 『緑川英子与劉仁』(本渓市政文史委、佳木斯市旅遊局編第二四ページ)によると、劉仁は一九二八年東北大学予科入学となっている。

 しかし『東北大学創立八十周年祝慶叢書、張学良与東北大学』によると、予科生の募集は一九二七年七月で停止されているので、劉仁が東北大学予科に入ったのは一九二七年の秋だということになる。どうしたこのような時間的な間違いが生じたのだろうか。

 第一には劉仁が若くして亡くなったこと、同時期に活動した友人知人が、新中国成立後、仕事や任務のため、国内外の広い範囲に散らばっていったこと、第二は東北大学が一九三一年の九・一八事変後に北平(北京)に移転したこと、

第三は劉仁が大学と共に北平に移転後、実践活動に入ったのち大学を離れてしまったことなどに原因があると考えられる。      

 東北大学は北平に移転したといっても独自の校舎はなく、学生は北京大学、精華大学、南京大学などに分散して勉強したことなどから、卒業生同士の連絡もろれず、新中国成立後大学は瀋陽に復帰したが、その後の中国国内のさまざまな事情もあり、

日本に留学した劉仁の資料などを、親族といえども持っていることができず、文化大革命の時に消却していまったことなどが絡み合い、記憶違いが生じたのではないだろうか。

     

  だが一九二二年水産学校に入学した劉仁は一九二四年に同校を卒業しているはずであるから、一九二八年以前に予科に入っている可能性は充分にあり、またそうでなければ水産学校しか卒業していない劉仁は、東北大学に入ることはできなかったはずである。

 『緑川英子与劉仁』によると呉一凡(劉仁の東北大学時代の同級生・元遼寧省林業庁副庁長)は「一九二八年夏、私と劉仁は同時に東北大学法学院予科に合格した。当時彼は劉鏡寰と言った」と書いている。

 同級生が語るのであるから、一九二八年予科入学と言うのは、恐らく正しいと考えられる。とすれば大学側が何らかの措置を講じて予科の募集を一年のばしたのかも知れないが、根拠となるものが、目下のところ見つからない。

 一九二七年予科には二〇〇人の学生が入学した。

 予科では、二年間で中学課程の補習と基礎的な理論と外国語の大幅なレベルアップがおこなわれた。                                                                          この頃の劉仁は身長が一㍍八〇㌢くらいもあり、がっちりとした体のなかなかの美丈夫であったうえに運動がよくでき、マラソンや水泳などが得意であった。

 彼の宿舎の前に運動場があり、彼は毎日早朝にここで三〇〇〇㍍くらい走っていたそうで、とても健康で、友人たちに常々「健康な身体があれば、どんなことでも、どんな時でも、やってゆけると語っていた」と呉一凡は述べている。

 劉仁のこの言葉は、学生の体育活動を重視し、東北大学の学生が積極的に体育活動に参加することを促した、当時の校長張学良(張作霖の長男)が常用した「健全な精神は、健全な身体に宿る」と言うことばに触発されたのかもしれない。

 


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。