碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 (85)

2019年08月24日 11時36分02秒 |  長谷川テル・長谷川暁子の道

 ebatopeko②

 長谷川テル・長谷川暁子の道 (85)

        (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。

 実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。

 長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。

 長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。                         日中間の関係がぎくしゃくしている現在、2020年を間近に迎えている現在、70年の昔に日中間において、その対立の無意味さをねばり強く訴え、行動を起こした長谷川テルは、今こそその偉大なる足跡を日本人として、またエスペランティストとして国民が再認識する必要があると考える。

 そこで、彼女の足跡をいくつかの資料をもとにたどってみたい。現在においても史料的な価値が十分あると考えるからである。        田木 襄 『テルと世界の子供』②

 随筆家の田木 襄氏が上掲のテーマで長谷川テルについて記している。

                                                                                (前回まで)

 北海道や、朝鮮や、九州からと、あちこちから帰舎して来た私たちは、それぞれの土産などを出しあって各室とも賑やかであった。むし暑い夜で、私たちの部屋も廊下に面した方は簾をかけていた。部屋の中から見ると暗いだけの廊下を、白い服とはい佩剣のがちゃがちゃという音が通って行った。

 私は何となく、伝染病の発生かなと思った。しばらくするとまた白い服と、今度は五、六人の緊張した感じの足音が引き返して行った。拘置留される長戸さんを送って出る同室の人たちだったのだ。

 私たちはその二人が、「赤」だったのだと、あとで聞かされた。それだけで説明は不必要なそのころであった。私たちの心持ちでは、いわば長谷川さんが主魁であり、長戸さんはお人が好くて引っ張り込まれただけだという具合であったが、実際はどうだったのか。

 今思うと長戸さんには随分酷な感じ方で、長戸さんは長戸さんでまたそれらしい生き方を行っていたのかもしれない。

 卒業した私は温泉町に赴任した。昭和八年(1933)である。三月に国連脱退、四月は滝川事件。卒業して全国にちらばった私たちは、回覧のノートを作った。長戸さんが結婚したことはわかったが、長谷川さんについては知る人なかったようであった。

 ともかくコミュニスト(と私たちは思っていた)は全然ちがった世界に住む人種であった。そのころ長谷川さんはベルダ・マーヨとなって、エスペラントの世界で活躍を始めていたのであった。

 昭和十二年(1937)、日支事変。「こんなことを始めていいのかしらん」と職員室で新聞を見ながら呟いて、男の先生にひどく叱られた。

 しかしこれは私のヒューマニズムの怒りではなく、年中「持てる国、持たざる国」と説いた地理の教師としての物量の計算からくる不安と、一途な前進をこわがる私の生来の臆病から出たものであった。

 『嵐のなかのささやき』によれば、そのころベルダ・マーヨはすでに劉仁と結婚して上海へ渡っていたわけである。

 中国解放のなめに抗日戦線に直接参加して、重慶が陥る数ヵ月前から日本向けの放送を受け持ち、重慶でエスペラント語による各種の著作をしていたのであった。

 その噂は戦時中に聞いていたが、その放送は聞いたことはなかった。彼女の活動がその根底をエスペラント運動においていることなどは全然知らなかった。

 あの人が、奈良の古い学校を追われたのも、「赤」と一口に片づけられたけれど、実際はエスペラントに連なる革新運動のためだったのだろう。

テルの疾風のような後半生十年の戦いから見ると、これは嵐の前の静けさにも似た、小さなエピソードにすぎぬかも知れない。

 しかし、私には、彼女と『インファーノ・スル・トゥトモンド』(世界の子供)とのかかわりは、やはり彼女の戦いの重要な構成部分をなしていると信じている。そして、児童文学に携わる者の一人として無視できぬものを感じる。

  一九三六(昭和十一)年九月二十九日付、彼女手書きのエスペラント文の手紙がただ一通、私の手許に残っている。赤茶けた便箋は四十年の歳月を物語っているが、『世界の子供』に関する部分は、まるで彼女二十五歳の弾んだ気持を、そのまま直接に伝えてくるように新鮮だ。

 「おハガキありがたく拝読いたしました。あなたの『マテンルージュ』(朝やけ)が外国で出版される由、とてもうれしく存じます。その内容は存じませんが、昨春、大阪で同志栗栖にお目にかかったおり、このことをとても敬意をこめて話しておられました。本当におめでとうございます。ますますご健筆のほど祈り上げます。・・・

 ええ、私は<世界の子供>の日本号を出す準備をしています。同誌はその直前か直後に、ウクライナ号を出すことにしています。その内容は主として文学だそうです。だから、私も同志ブルギニョンも、日本号は、それよりちがうものにしようと思っています。

 私は日本を、いろいろな材料で、多面的に紹介したいと考えています。誌面がタップリあれば、同志槇本の作品も掲載することができます。

 表紙は、手をつないだ日本・朝鮮・アイヌ・台湾の子供たち。そして記事に、表紙の説明と槇本の童謡『来い来い世界の小さい同志』か『赤い旗』を入れます。

 子供たちの作品は、①日本の少年少女。貧しい子供の作った、手ごろないい材料をお持ちではないでしょうか。②朝鮮の少年少女の作品。有名な朝鮮の作家張赫宙が、現在私の町に住んでいて、少しずつエスペラントを習っています。

 彼は朝鮮の教え子の貧しい子供たちの作品を提供してくれることになっています。それは被抑圧民族の悲惨な生活を物語ってくれるでしょう。

 子供たちの劇。きたる十二日築地小劇場で新協劇団と東童劇団が公演する、『昆虫記』について書きたいと思っています。同志杉本良吉の協力で、舞台写真も手に入りそうです。この劇は、人間の生活に対する風刺だそうですね。

 富士山。同志ブルギニョンは、日本の火山や動植物について書けといっています。そこで私は美しい写真を添えて富士山のことを書きます。

 他にもいくつか埋め草もこさえておくつもりです。この号の挿絵は、私の友だちが描いてくれます。・・・」

 ここにもう一通、彼女の手紙の中に出てくる『世界の子供』の編集者ブルギニョンの、タイプされた長文の手紙がある。これは、彼女の手紙より一カ月ほど早い、八月二十六日付となっている。

 (以下今回)

 「・・・しばらく前、ある婦人同志から(『世界の子供』への)寄稿について、とても興味津々たる手紙をもらいました。彼女はエスペラント名をベルダ・マーヨ(みどりの五月)、本名を長谷川テルといいます。

 東京に住んでいて、最初の接触から、私たちの『世界の子供』に対し、極めて真摯な協力者となってくれています。・・・」

 彼は、こう彼女を紹介しているが、もちろん、私たちは、前掲の手紙にも明らかなように旧知の間柄であった。  ブルギニョンは、つづけて、自分の抱く児童文学についての原則論をのべている。

 作品は、子供にも十分理解されるような、やさしくて親しみやすい、単純なスタイルを持つこと。プロレタリアートの立場で書かねばならぬが、政治主義過剰にならぬこと。生硬な教科書ふうでない自然科学読み物のこと。

 国際的雑誌であることを忘れず、日本紹介にしても、日本固有の特殊性をもつ事物を選ぶこと。しかもその表現はすべて文学的であること等々。実にゆき届いた注意ばかりである。そしてイラストのことまで言及し、材料の収集なり助言なりで、彼女に協力してくれというのだ。

 しかし、彼女の手紙でわかるように、彼女の編集企画は、ブルギニョンの示唆と完全に一致している。おそらく、彼女の案に賛成した彼は、私への手紙に書いていることと同じことを、克明に書きやったものと想像される。

 そして彼女の行動性からいえば、私の協力など必要もないようなものだったろう。しかもブルギニョンは、同じ手紙で、私がすでに同誌のため送っていた、槇本のいくつかの作品の中の「スベリダイ」を、フランス十八世紀の有名な詩人ラ・フォンテーヌの寓話の趣があるといって、日本号に載せたいと書いているのだ。

 だから、私としては、彼女の仕事には何の不安も持っていなかった。しかし私には、緊急な仕事が待っていた。

 この同じ手紙で、イアレヴ(国際革命エスペラント作家協会)の委員で、その機関誌『インテルナツィーア・リテラトゥーロ』(国際文学)の編集者でもあったブルギニョンは、その方の関係で、テルもその手紙で触れている、私の長編小説『マテンルージョ』が完成しているなら、折り返し原稿を送ってこいと催促していたからである。

 私は、私の共働者が、なけなしの郵便貯金から四十円という大金を引き出し、買ってくれた骨董品に近いコロナのポータブル・タイプライターで、早速原稿を浄書して送った。こうして二人の原稿は、おそらく前後して、ブルギニョンの手許に無事届いたのではなかろうか。

 というのは、この一九三六年は世界人類を地獄の業火の中に叩き込む雷雲(日本では二・二六事件、日独防共協定、外ではスペイン内乱、ソ連の合同本部事件、独伊枢軸の形成、中国の西安事件など)が、地平線を不気味におおい始めてはいたものの、歴史のはざまというか、なおいささか自由が残されていた年だったからである。

 それが証拠に、ポエウ(日本プロレタリア・エスペランチスト同盟)壊滅のあと、栗栖継・米村健と私は、イアレヴの会員となり、日本支部をつくり、その機関誌『マーヨ』(五月)を発行、この年の十一月、正規の第三号を出している。そしてテルも有力な協力者だった。

 


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