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鳥取藩 幕末 因幡二十士事件 (43) 郷士による農兵養成
(二十士事件の背景) (24) 郷士による農兵養成
(はじめに)
ここでは、『鳥取県史』、『鳥取藩史』、『贈従一位池田慶徳(よしのり)公御伝記』さらには、山根幸恵氏、河本英明氏の著作およびその他の先行研究などをもとに取り上げてみる。
因幡二十士事件は、尊攘派の家臣による藩主側近の暗殺事件であるが、その背景には鳥取藩内における尊王攘夷派の存在がある。
鳥取藩において、何故にそれほど尊王攘夷思想を信奉するものがいたのかと言えば、その背景に水戸学がある。鳥取藩に水戸学が力を持つようになったのは、鳥取藩の継嗣問題がもとになっている。
嘉永三年(1850)八月朔日、幕府から水戸中納言徳川斉昭の五男、五郎麿を養子とするようにと内示があり、八月二十五日に特旨が正式に伝えられて、ここに五郎麿(慶徳よしのり)が、鳥取藩第十二代藩主として決定した。五郎麿十四歳であった。徳川御三家の一つ、水戸家から藩主を迎えることになったのである。
いずれにしても鳥取藩の十二代藩主として、徳川斉昭の五男である慶徳が就いたことは、水戸家と鳥取藩とのつながりが強まることになった。そして以後鳥取藩では家臣の中で水戸学を学ぶものが多く出たのである。
徳川斉昭は、慶徳に対して数カ条の心得を諭した。慶徳も日記を父斉昭に送り、その日常生活を事細かに報告した。また藩政上の問題が生ずるたびに、父に書状を送り意見を求めている。それゆえ、慶徳の鳥取藩政には、徳川斉昭の影響が極めて強い。尊王攘夷思想が鳥取藩において拡がるもとになっている。
将軍擁立について、鳥取因幡藩の池田慶徳は、松平慶永から一橋慶喜を打診された。慶喜は一橋家に入っているが、もと徳川斉昭の七男であって、「七郎麻呂(麿)」という幼名であった。
一方、池田慶徳も徳川斉昭の五男であって、幼名を「五郎麿」といった。ただし彼が側室の松波春子の子であったのに対し、慶喜は正室である吉子女王(有栖川織仁親王=のち皇女和宮と婚約した有名な熾仁親王の曾祖父=の娘)の子であった。慶徳にとって慶喜は異母兄弟の弟であった。
ともかく鳥取因幡の池田慶徳は、次期将軍に弟である一橋慶喜を推挙しなかったことは、興味ある事実である。
将軍継嗣と条約の問題の中、政局が混沌としていた安政五年(1858)四月二十三日、彦根藩主井伊直弼を大老にすることが決定された。さらに六月、日米修好通商条約が調印し、将軍継嗣について紀州の徳川慶福を決した。
島津久光の入京をきっかけに、鳥取藩は本格的に国事周旋への動きをとるにいたった。京都近辺では、尊攘派志士による倒幕への動きが伝えられた。不穏な情勢に江戸にいた藩主慶徳の帰国に老中和田邦之助らを派遣するにいたった。
当時京都では勅使大原重徳の東下が予定され、慶徳にも入京を勧める大原家の使いが来たが、結局慶徳は入京せず帰国した。これがのち藩内に意見対立をもたらすことになった。
慶徳は松平慶永への書状で、島津藩の無断での入京、滞京を非難し薩長など雄藩による画策の危険性を訴えた。そこには、徳川斉昭の子であるという「御一門の末につらなる」という親藩意識にもとづいて、親藩主導による幕政改革、公武合体策を図ろうとした。
しかし、藩内の攘夷派のつきあげと京都情勢により、ついに藩主が入京しなかった責を問い、和田邦之助らの罷免を慶徳は決断した。藩内には俗論派と国事周旋積極推進派との派閥抗争が表面化していくこととなった。
そういう中で十月十五日藩主慶徳は、ついにはじめて入京するにいたったのであった。
十一月五日江戸に到着した慶徳は、松平春嶽と連携を保ちつつ国事周旋を勧めた。しかし周旋は難航した。一橋慶喜はすでに開国論に傾斜しつつあり、次第に慶徳と慶喜の兄弟間には意見対立が生じはじめていた。
勅使三条実美らは十一月二十七日に江戸城に入り、攘夷の勅諚を将軍家茂に伝えた。幕府はついに攘夷勅旨を遵奉する旨を明らかにせざるを得ぬ立場に追い込まれた。だが幕府には攘夷を実行する見通しはなかった。
鳥取藩の立場は、藩主慶徳をはじめ藩重臣とも基本的には公武合体であった。それは文久三年(1863)二月においても鳥取藩の国事周旋は比較的穏健で、公武合体派との結びつきによってすすめられた。
こうして鳥取藩の国事周旋は行き詰まっていったのである。二月二十一日、中老田村貞彦と安達清一郎は関白鷹司邸を訪ね、国事周旋のお断りを申し入れた。藩主慶徳は国事周旋策に自信を失ってきたのであった。
京都では、五月二六日に因州藩主の上京・京都警衛勤仕(ごんじ)ー七月から九月までーを命ずる幕命が藩邸に伝えられ、さらに六月二日には藩主の上京を促す朝廷の命令も下った。
三日、将軍家茂は参内(さんだい、注:天皇に拝謁すること)して江戸に帰る許可を得て、一三日には大坂から乗船して江戸へと向かった。また将軍に前後して公武合体派の諸侯も帰国の途についた。
かくして、京都では再び急進尊攘派の勢力が大きく高まろうとしていた。このようなときに、慶徳は上京の命令を幕府と朝廷の両方から受けたのである。
側近黒部権之介は、五月末に上京を命じられ、京都在住の幕閣を主に対象として周旋にあたっていた。国元の側用人から黒部へは、藩主が上京してもあまり周旋のめどがないので、藩主の上京を引き延ばす策を講ずるよう指示が与えられていた。
六月八日、黒部は国元の側役あてに、幕府・朝廷から上京の命を受けた以上は上京しなければならないが、もはや周旋のしようもないので、ただ朝廷をお守りするためだけでも上京されては如何かと報じた。
一方、在京の周旋方中野治平は、周旋方筆頭の土肥兼蔵あてに事業報告とともに、国事周旋のために一刻もはやく上京されたいと進言している。
京都留守居安達清一郎は、上京後一転して藩主入洛(じゅらく)支持説にまわった。六月一四日の因州藩の英国船砲撃について、安達は早川卓之丞(たくのじょう)に対し、即刻の上京を願い上げますと申し送った。
黒部、安達、中野の三人の思惑は、違いはあったであろうが、それぞれの考えもとに藩主の上京をうながす報告を国元に送ったのである。
六月二一日、藩主池田慶徳は上京すべく鳥取を出発した。お供には側用人の山下豊雄・小姓筆頭で側役も兼ねている高沢省己(せいき)・早川卓之丞(たくのじょう)が従った。また儒者の景山龍造もあとを追うように命令を受けていた。
周旋策の成算もなく、堀の指摘した藩論の統一もはかることなく、藩主慶徳は京都に向かったのである。
藩主の慶徳は、出発前の一四日には家中に対し、留守をしっかり守り、差図なき間はみだりに私のもとにま罷り出ないようと申し渡された。
一六日には、緊急事態のときのことが定められた。城中から緊急号砲があった場合は、所定の場所へ武装して集結するよう伝達されていた。
これは藩主留守中に、攘夷決行のために臨戦体制を取らなければならない事態が発生するかも知れないと予測していたからであろう。
六月十四日、大坂湾に入ってきた英国船に、天保山を守備していた因州藩が砲撃を加える事件が起きた。これより先、六月八日に因州藩の摂海警衛(せっかいけいえい、注:大坂湾の警備のこと)の任は解かれ、
柳河藩(やながわ、注:筑後国柳河、現在の福岡県柳川市)と交代するよう幕府から命じられていたが、交代を完了しない内に、この事件が起きたのである。
守備に当たっていた因州藩内部にも、砲撃を主張する軍式懸岩越作之右衛門と(ぐんしきかかり、注:当時藩内では、のち二十士事件の一人となった山口謙之進がいたが、彼は勝海舟に砲学を学んでいる。山口の上京の折、のちの明治大学の創設者である岸本辰雄が同道していることも興味あることである。注:山口謙之進に関する論文あり)
これを阻止しようとする番頭荒尾隼人の対立があったが、旗頭乾雅楽之助の決断によって、英国船に向け五発の砲撃がなされた。因州藩大砲の射程距離は短く、英国船は何等の損傷も受けることなく、湾外へと去っていった。
因州藩の処置に対して、大坂城代松平伊豆守は、「攘夷のことについては、未だ横浜において談判中であるので、向こうから襲来しないうちは粗忽なことはしないよう、通行の外国船への無闇の攻撃はしないよう」との幕府の見解を伝えて来た。
一方、朝廷からは「勅意を奉じて英国船打ち払いをしたことは神妙である」とのお褒めの詞があった。この因州藩の英国船砲撃は十七日に国元に届いた。藩主慶徳は大いに喜び、旗頭乾にお褒めの書を与えた。
当時の欧州諸国の軍事力についてほとんど知ることなく、藩主慶徳は安易な攘夷決行へと進んで行ったのである。
五月十日の攘夷決行日に、長州藩は下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃したのをきっかけにして、「攘夷実行」の態勢に入った。それ以後長州藩は外国船との間に砲火をまじえていた。
在京家老の和田邦之助(彼が「碧川かた」の父親である)は、周旋方の主張の影響を強くうけ、次第に尊攘主義的な傾向を強めつつあったが、六月一二日に国元家老へ、「国元の大砲、そして火薬などを長州藩へ送ってはどうか」と建議している。
また、京都留守居安達清一郎も「数十人の壮士を選び、使者を長州藩へ送りしばらく留めて、長州藩を救援すべき」ではないかと、他藩に先がけて使者を派遣するように献策していた。
六月二六日、番頭臼井豊後が長州藩見舞い使者として鳥取を発し萩へと向かった。伏見留守居(京都留守居兼帯)河田左久馬も副使に任命され、二四日に京都を発して同じく萩へと向かった。
河田左久馬は代々伏見留守居を勤める河田家の九代目として伏見藩邸に生まれ、嘉永四年(1851)に家督を相続し、早くより尊攘派志士との結びつきがあったが、長州藩の攘夷決行をつぶさに見聞することによって、その尊攘論の立場をますます強化して帰京することとなった。
(前回まで)
攘夷の期日を幕府が五月一〇日に定めたという報が伝えられると、藩内では攘夷決行にそなえる臨戦体制の一環として、五月一日に民兵取り立ての方針が発表された。
領内の浜坂・鹿奴・境の三ヶ所に民兵稽古場を設置し、農民を民兵として徴発し、大砲・銃の操作を教練し、一朝ことある時に兵力として利用しようとする策であった。
民兵取り立て策を藩内で中心として進めたのは、神戸大助であった。
嘉永七年(1854)藩が海岸警備についての意見を藩士に求めた時、神戸大助は「西洋歩兵管轄」(洋式の編隊方法)と、「歩兵御趣向書」を差し出して、民兵取り立て策を建言していた。(「神戸大助海防策上書」)
「歩兵御趣向書」によれば、二〇歳より三五歳までの在・町方の者で、余業勝ちにして身体強健の者約一〇〇〇人を歩兵として取り立て、邑美郡浜坂村気多郡鹿野宿もしくは久米郡江北村に繰場を設けて教練し、歩兵には給米八俵を与えて藩の常備兵力の一環に加え、海岸防備に当たらせようとしていた。
神戸大助は、その後安政年間(1854~60)には郡奉行を勤め在方支配に当たっていたが、文久二年(1862)九月に側役に登用され、三年四月に郡代助役に転じ再び在方支配に当たることとなった。五月一日の民兵取り立ての藩施策決定には、郡代助役神戸大助の主張が大きく影響したものと思われる。
神戸大助の案では、浜坂・鹿奴・境の三ヶ所に、それぞれ次のように各郡から壮健の者を集めて教練をほどこそうとしていた。(「民兵に付いての書き付け類」)
それには次のようにある。
五〇〇人 浜坂出(内五〇人ずつ月々)
五〇人邑美郡 六〇人岩井郡 七〇人法美郡 八〇人八上郡 一二〇人八東郡
一二〇人高草郡
五〇〇人 鹿野(内五〇人ずつ月々罷出る)
一〇〇人気多郡 六〇人智頭郡 一一〇人河村郡 一二〇人久米郡
一一〇人八橋郡
五〇〇人 境(内五〇人ずつ月々罷出る)
八〇人汗入郡 二〇〇人口会見郡 九〇人奥会見郡 七〇人口日野郡
六〇人奥日野郡
総計一五〇〇人の民兵の内、毎月その一割ずつを交代にして稽古場に詰めさせて銃砲術を教導しようとしていた。
民兵には、一カ年米四斗入り一俵の給米を与えるとともに、諸役目丁場出などを免除する事としていた。在中名字御免等の豪農層を選んで民兵の小頭役に任命する方針としており、神戸大助が藩に提出した「民兵に付いての書き付け類」には、
邑美郡西尾勘兵衛・西尾柳右衛門・井口稲次郎・林次郎左衛門・田中甚兵衛・西尾甚三郎といった具合に、因伯一四郡で総計一三六人の豪農層が列挙されている。
八月五日、中本軍大夫・富山敬蔵の二人がそれぞれ浜坂・境の地で「民兵銃取り立て」に当たること、在方役人より稽古場小屋を受け取ることを命じられている。(控帳)。
(注:中本軍大夫は「家譜」によれば、藩医中本柳朴の長子で、西洋流砲術の心掛けありとなっている。
富山敬蔵については、不明であるが、中本同様に西洋流砲術に心得があったものと
推定される。)
鹿野民兵銃取り立て場の教導役を任命した記事は、藩政史料には見あたらないが、「在方諸事控え」八月二一日の条には、同書普請懸かりに在方役人が任命された記事があるので、鹿野にも稽古場の建設がすすめられたことは確認出来る。
九月三日、浜坂民兵銃取り立て稽古場が完成し、中本軍大夫と郡代にそれぞれ稽古を開始するように家老より申し渡された。
翌四日には、軍式方頭取り締まり助役岡崎平内・郡代助役神戸大助に「台場手配・民兵調練諭し方御用」のため在出が命じられた。(「控帳」)。民兵調練がいよいよ始まったのである。
(注:最近、京都産業大学の笹部昌利助教授による「幕末維新期の「農兵」と軍事動員」(2016)という論文が発表された。)これは注目すべきものである。
その大要は次のようなものである。
近世日本における「農兵」とは、疲弊した武家社会を助けるために生じた理念であり、現実性をともなうものではなかった。さらに、それはアヘン戦争の情報によって「海防」意識が高まった十九世紀になっても変わるものではなかった。
「農兵」が現実的な存在となってくるのは、ペリー来航以降、外国船への対応が恒常化してからであった。
鳥取藩領内においては、文久年間、大名による国事対応が頻繁化し、かつ京・大坂への兵事動員が繁多となったことによって、藩領内の警備の手薄さが再認識され、これへの対応として「農兵」による補填が図られたが、軍事インフラの充実に重きを置いた藩当局の判断により、「農兵」教導は挫折を見た。
しかしながらこの折、建設された軍事インフラである台場への対応が、在地社会に委ねられたことは、民衆における軍事への志向性を生み出した。
殊に、藩政の中心たる領内東部地域において、その志向性は低調で、領内西部、遠隔地において顕著であった。この民間より動員された兵力は長州戦争における活躍によってその正当性が確認され、鳥取藩内においても、「農兵」教導とあらたな「洋式」軍事編成が模索されるようになった。
軽装の洋式「歩兵」は、戊辰戦争において活躍し、その後の調練次第で藩の常備兵化が期待されたが、入隊した兵が抱いた志向は、近世的身分制における褒賞と特権を重視するものであり、そのことが隊内外において混乱を生じさせた。
「国民皆兵」主義の実現を目指し、あらたな軍隊の創出を目指す政府は、旧武士層たる士族の特権を否定し、幕末に生成された「農兵」をも否定した。
要点をさらに箇条書き形式にしてみると次のようになる。
① 農兵は幕末期に「内憂外患」のなかでとなえられたものである。
② 鳥取藩では文久年間、大名の国事(外敵および内政=尊攘運動など)多忙だったこと。
③ 上記の対応として兵事動員が頻繁になったこと。
④ そのため、藩内の警備が手薄になったこと。
⑤ 上記の対応として、「農兵」による補填が図られたこと。
⑥ しかし鳥取藩では台場など軍事施設に重点が置かれ、農兵の教導は不十分であった。⑦ ただ台場など軍事施設への対応が在地に委ねられたこと。
⑧ その結果民衆の軍事への志向性生みだしたこと。
⑨ それは、鳥取藩の中心である東部ではなく藩の西部に顕著であること。
⑩ 鳥取藩でも洋式「軍事編成」が模索されたこと。
⑪ 藩でもその「常備兵」化が教練次第で可能であったが、身分的特権志向のため失敗。
⑫ 維新政府は「国民皆兵」をめざし、士族、そして「農兵」を否定したこと。
以上である。
郡代助役神戸大助を中心として進められていた「民兵」取り立て策は、本格的な農兵隊の編成を目ざすものであった。
しかし、この構想は次第に後退していった。理由の一つには、台場守備への農兵動員が関係していた。前に記したように、文久三年(1863)秋に重要な海岸地帯の浦富・浜坂・橋津・赤崎・由良・淀江・境に台場が築造され、「反射竈」で鋳造した砲が設置された。
この内、伯州分の台場については、「由良(武信左五右衛門)、赤崎(武信潤太郎)、淀江(松波徹翁父子)郷士共引きうけ、親族子分の者共へ作廻せ、尤も長瀬・上り道は当時構大庄屋共へ作廻せ置き、追々人選の上、作廻手申し付け候様」に定められていた。(「控帳」八月四日条)
郷士・大庄屋の作廻のもとに、出張して来る藩役人の砲術訓練を受けさせ、台場近くの農民たちに台場守備に動員しようとする方策であった。
民兵取り立て策と、台場守備の農民動員策はほぼ同時期に着手されたが、本来全く別の藩施策であった。
民兵取り立て策は、藩の常備兵力の一環として、農兵銃隊の編成を目ざすものであり、台場守備の農民動員策は、農民を兵として取り扱わず、単に台場守備に農民を動員する体制を設定することにあった。
しかし、両方の施策はともに農民を動員することには違いはなかったので、伯州の台場守備への農民動員策が優先して採用展開されるうちに、境・鹿野(注:これは伯州東三郡の民兵訓練をも分担することとなっていた)の民兵取り立て稽古場は、実質的にはその機能を開始しないままに終わったと思われる。
民兵取り立て稽古場の実質的機能を開始したのは、浜坂一箇所だけであった。民兵取り立て策の後退には、神戸大助が文久三年(1863)一一月に郡代助役から小姓頭側役兼帯へ転任したことも関係したらしい。
在方役人の多くは、神戸大助の民兵取り立て策を支持せず、彼が在御用場から去ると、その策は大きく後退したのである。
翌元治元年(1864)四月三日、神戸大助は郡代農兵奉行兼帯に任じられ、在御用場に復帰し、「農兵の義は当節柄急務の儀に付き、格別に骨折り申すべし」と命じられ、農兵(民兵)取り立てに再び取り組むことこととなった。
同四月には軍奉行三人が農兵懸かり兼帯に任じられたのをはじめ、農兵組み立て懸かりも設けられた。しかし、神戸大助が間もなく六月に表御用人役に転じると、設置された諸役もその職務を果たすことなく短命に終わったようである。
次の史料からも推察出来る。(「控え帳」元治元年六月二二日条)
浜坂新田へ諸郡の農夫割合を以て、順々月代わりに砲術修業として相詰め候様仰せ 付け置かれ候処、御費えもこれあり、又農夫方にも代わりの者雇い入れ等にて入り 用余程の趣に相聞へ候に付き、此の以後左の村々漁猟農事の間隙、村々の庄屋より 相考え、或いは朝飯後或いは午後新田は繰り出し、小銃の打ち方習行致し候様、仰 付けられ候事。
浜坂 新田 円護寺(えんごじ) 覚寺(かくじ) 江津(ごうつ) 晩稲(おくて) 加路 (かろ) 南隈(みなみがくま) 安長(やすなが)
秋里(あきさと)
まず文面で民兵・農兵の語が用いられず、「農夫」の語が使用されている点が注目される。神戸の構想は、民兵隊の編成にあったが、藩の施策はこの時点では、農夫の砲術修業とという考えに後退したのである。
しかも、因幡国東部各郡より農民を動員して集団訓練に当たっていた浜坂民兵取り立て稽古場も、藩費の多額の出費と農民負担の大なることを名目にして、その機能を大幅に縮小し、周辺の一〇箇村から農閑時の農民を動員して小銃稽古に当たらせるだけとなったのである。
この日の「控帳」には、本条に続いて、因伯両国の海岸一里以内の村々には、農閑期に銃砲術教師が巡行して庄屋・頭百姓に小銃操作を教え、庄屋・頭百姓が強壮農民にこれを指導し、稽古鉄砲は庄屋・頭百姓が保管して置くことが、藩の施策として決定された旨を記している。
広く海岸近辺の農民に小銃操作を技術を教導しようとするものであったが、これを「兵」としては意識せず、民兵隊・農兵隊を編成しようとした神戸大助の施策から大幅に後退したのである。
因州藩内に於ける農兵隊結成の動きはかくして後退し、第二次長州征伐での長州藩農兵隊との交戦による敗戦経験を得たのち、再び農兵隊編成問題が急務となっていくのである。
(以下今回)
藩の公的政策としての民兵取り立て策は後退したが、郷士・大庄屋層によるいわば私的規模の農兵養成が逆に着々と進行した。伯州分の台場守備への農兵動員体制が郷士・大庄屋の請け持ちとされたこと、
さらに、海岸部の村々に小銃操作を指導する教師が巡回するようになったこと、これらの事情が藩領内の伯州海岸部農村における郷士・大庄屋による農民の武装化を進める基となった。
「在方諸事控」文久三年(1863)一〇月四日条には、汗入郡妻木村(むきむら)郷士松波徹翁が、郡代佐野増蔵に提出した願書が記されている。
それは、松波が大坂に注文していた小銃二〇挺が出来たので、その試放と買い取りのために上坂することを願い出たものである。淀江の台場守備が松波徹翁の請け持ちとされたのは八月であったが、
台場の大砲繰練だけに満足することなく、守備に当たる動員農民に小銃を持たせることを考え、早くも一〇月には松波は小銃二〇挺を大坂から買い付けたのである。
『鳥取藩史』の藩士列伝では、第二次長州征伐に従軍した松波の手兵一小隊について、「当時我が藩未だ施錠銃の備あらず、徹翁前に長崎にて購入し、一隊皆これを携へしむといふ」と記している。
小銃を長崎にて購入したとしているが、「在方諸事控」掲載の願書から考えると、大坂購入とする方が妥当であろう。
『鳥取藩史』の説の一部をとるならば、松波徹翁がこの時大坂で購入した小銃二〇挺が、藩内最初の施錠銃(ミニエー銃であろう)であったことになる。
(注:ミニエー銃とは、前装式ライフル歩兵銃で、1849年フランスのミニエー大尉によって開発された。弾丸が十分な回転を持ち、弾丸周辺からのガスもれが防止されたため、飛距離と命中精度がそれまでの「ゲベール銃」と比べ、飛躍的に向上した。また装弾が容易となり連射能力も向上した。)
家譜には、「松波徹翁儀、近年淀江御台場御用仰せつけられ、以来右御台場の応援近辺陸地警衛の心得にて野戦大砲弐挺製造し、右砲手の者二十四人自分雇いにて農兵姿にて取り立て、大小砲並びに剣術の稽古致させ、其の外小銃始め器械の用意等迄致し居り申候」
と記され、台場守備の任命をきっかけとして、松波徹翁の自分雇いによる農兵取り立てが進んだとしている。
文久三年(1863)一〇月二一日、郷士の松波徹翁・武信佐五右衛門・同潤太郎の三人は、土着士という身分に取り立てられている。土着士の制は、安政六年(1859)に家中の次三男等の厄介者を以て久米郡真野原の山野を開拓させる方策の採用によって始まった。
その後、文久三年(1863)四月、攘夷決行体制の一環として、「兵卒土着を以て善とする」方針の下に、因幡では智頭・若桜(わかさ)・蒲生・陸上(くがみ)・賀露等の地、伯耆では泊・長瀬・由良・八橋・淀江・境等に、家中が在入して土着することが奨励された。
さらに七月には、因幡の智頭・若桜・鹿奴(しかの)・湯村の四箇所に番所を設置し、各番所に土着番士一五人ずつを配備する土着番士の制も始まった。これらの動向の中で、因州藩武士階級の中に「土着士」という身分が創設されたのである。
松波・両武信への土着士取り立て申し渡し状には、
「此度御人御入用に付き、土着士に召し出さる。これにより引請けの御台場御用相勤むべし」と記されている。
彼等三人が郷士から土着士へと取り立てられた直接の動機が台場御用であったことが、これにより明らかである。
由良の台場は郷士武信佐五右衛門、赤崎は同潤太郎、淀江は松波翁がそれぞれ引き請けることとなっていたが、前述した松波徹翁の場合で明らかであるように、台場御用は単に台場の大砲繰練にとどまることなく、郷士による自分雇いの農兵養成へと拡大発展しつつあった。
このように重要な台場御用の任を担当する松波・両武信を、武士・農民両階級の中間的身分としての郷士身分にとどめて置くことは適当でないと判断し、藩は彼等三人を土着士身分へと昇格させたのである。
この措置によって、三人は完全に武士階級の一環に組み込まれたのである。文久三年(1863)の時点で郷士となっていた者は、汗入(あせり)郡今津村の松波徹翁(郷士取り立て安政二年(1855))・八橋郡瀬戸村の武信佐五右衛門・
同村武信潤太郎(文久元年(1861))・奥日野郡黒坂村緒形四郎兵衛(文久元年(1861))・同村緒形三郎右衛門(1863)、奥日野郡生山村段塚四郎(文久三年(1863))岩井郡湯村宮本十左衛門(安政六年(1859)・気多郡山宮村田中覚兵衛等であった。
郷士から土着士へ昇格した者が松波・両武信の三人であったことは、その昇格任命が台場御用と密接に関連していたことをよく示している。
伯州分の台場の内、塩津・境について、藩は「当時構大庄屋共へ作廻はせ置き、追々人撰の上、作廻手申し付ける」方針を文久三年(1863)八月に示しているから、この両地にも土着士取り立ての方針があったと思われる。
しかし、現実には土着士任命を見ずに終わった。台場守備と自分雇い農兵の編成により土着士へ取り立てられ、士身分へと上昇していった松波徹翁等の例を眼の当たりにすることによって、橋津・境の台場守備を担当させられた当該郡の大庄屋は、自らも武士身分上昇への途につこうとして、次第に近辺農村の農民へ武器操作技術を修得させるべく懸命に指導し始めていった。
後に戊辰戦争において、戸崎久右ヱ門・尾崎啓次郎を小頭役とする久米・河村両郡の農兵隊が各地に奮戦活躍することとなるが、久米・河村両郡の発端は、右の事情の内に醸成されていったのである。
台場守備を請け持つことを契機に、農民への熱心な兵器技術指導へと郷士・大庄屋層を駆り立てたのは、夷狄(いてき)から鳥取藩を守るという素朴なナショナリズム感情だけではなく、そうすることによって武士身分へ上昇し得るという期待感があったからであると思われる。
伯州海岸部での郷士・大庄屋指導による農民の兵器技術修得は、このように着実に進展していったが、藩はこれを兵卒としては認めていなかった。民兵取り立て稽古場の構想が後退することにより、藩の公的規模による農兵編成策は頓挫をきたしたのであり、郷士・大庄屋指導によって兵器技術を修得していた農民を藩が兵卒として組織化していくのは、第二次長州征伐以後のことであった。