おでかけmemory

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出雲 荒神谷遺跡

2011-11-18 | 遺跡/現地説明会

加茂岩倉遺跡を後にして 出雲 荒神谷遺跡に 行ってきました

 一片の須恵器の欠片を見つけたことをきっかけに発掘調査が開始され、1984年(昭和59年)、これまで日本全土で発掘された
すべての銅剣の数(約300本)を大きく超える
 358本の銅剣が 神庭荒神谷の一か所から発見されました。

また翌年には 7m離れた位置で
 銅鐸6個、銅矛16本も発見されました。(銅矛については 九州産と形状や特徴が一致)

これまでに  銅鐸の出土場所は畿内、東海、北陸、四国東部

        銅矛の出土場所は九州、四国西部

限定されており 一か所で 銅鐸と籐鉾が同時に出土したことはなく ここ神庭荒神谷で両方が一緒に発見されたことは

この地において近畿、九州の両地域との交流があった「大きな国」が存在していたと証明できる 大きな発見になりました

古事記や日本書紀の記述に沿う出雲王の存在が そしてそこから発展して「国譲り」が見え始めてきました。

   銅剣、銅矛は 悪霊を寄せ付けないようするための祭祀道具として位置づけられています。 

   銅鐸も 住居跡から発見されたことはほどんどなく 神を招く鐘として祭祀時に使われたものと考えられます。

また これら青銅器の制作年が2世紀半ば頃と考えられるので 歴史史上3世紀に登場する邪馬台国ができる前の時代
埋納されたようです。             ・・・・・ これも 神話【国譲り】に繋がるかもぉ 

358本の銅剣(全長約50cm)は、標高22mの小高い丘の南斜面の中程に段をつけた場所で 発見されました

 

上の写真の右下にある階段を上った 位置から。  
          4列34本、111本、120本、93本刃を立てて並べて 埋納されていました。

 
 列目34本、 列目111本、 列目120本、列目93本。パンフから   

 

 列目は 剣先を東と西に向けたものを交互に 

 列目は 4本だけが剣先を西を向き、

  残りは東と西に向けて交互に

 列目と列目は すべて東に向けられてあった。 

 

 また 屋根があったことを示す4本の柱穴跡も 

 見つかっています。


 荒神谷遺跡の出雲型銅剣にも 加茂岩倉遺跡の銅鐸と同様に「×印」が刻印されてありました

なぜでしょう?弥生時代も【X】を【バツ】と捉えていたのでしょうか?そうではなくて【〆(締め)】として何かを封印したのかも

しれません。ならば 何を封印したのでしょうか?【無念な魂?】・・・・・これも【国譲り】に繋がっていくように思えます。

【銅鏡の登場】(=卑弥呼の登場)の頃に銅鐸は消え 祭祀道具も銅鐸から銅鏡に変わりました

そうそう簡単に祭祀道具を変えることは考えられないので 長が変わり(国譲り?)その長の無念(?)を鎮めるために

別格の神殿(出雲大社)を築き これまでの祭祀道具の銅鐸を封じ込めたのでは?と 勝手に想像します。

そう考えると 国譲り後、脈々と続く万世一系の宝物【三種の神器】のひとつに 鏡が入っているのも うなづけるのですが・・・

未だ 邪馬台国、天孫降臨、などなど紐解けない倭の原点は 今後解き明かされるでしょうか・・・

  この道の先にある 木が生い茂った中の丘に

    上記の荒神谷遺跡 出土場所があります。  

  

   途中からは 未舗装です

   荒神谷遺跡の入り口にある 荒神谷博物館

  銅剣のレプリカが出土場所とともに再現してあります。

  手袋をはめて触れるレプリカの銅剣、銅矛、銅鐸は

  実物の形状、重量まで同じにしてあります。

  銅矛は3kg弱あり ずっしりと重かったです 

  ここでも 職員さんが丁寧に質問に答えてくださいます。

  
銅剣を 実際に目にしてみると根元が短くて とても剣としては木製の柄に取り付けることができない作りなので

やはり祭祀道具と考えるのが妥当のようです。

こちらの博物館もレプリカ展示です、実物は このあと訪れた古代出雲歴史博物館にあります。今から わくわくします


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6 コメント

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Unknown (杜瀞蕗さん棲家)
2011-11-18 13:52:56
「倭」「倭国」って、日本列島のことだと信じてきたけど、間違いですよ。
朝鮮半島上部の遼西地域の一部から遼東半島南部から今の北朝鮮・大韓民国西部から金海・釜山そして日本列島九州壱岐・対馬・福岡・佐賀・熊本・大分のエリアを「倭・倭国」だったというそうです。そうでないと、白村江の戦いや三国史記や中国の倭を扱った古文書が理解できないし、日本の歴史学者が書いている古代耶馬台国へ至る路程が理解できない。そもそも、帯方郡や楽浪郡の位置がほとんどの日本韓国北朝鮮の歴史学者のいう位置と大幅に異なっている(遼西・所謂満州地域にあったというのが本当)ため、耶馬台国論争が不毛の論争になっているのです。
杜瀞蕗さん棲家さんへ (sapphire)
2011-11-18 14:38:24
そうなんですか…「倭」は「日本のはじまり」「やまと」だと思っていました
半島から九州の北半分までが一括りだったのですね
邪馬台国までの路程、どのようにとっても
矛盾が生まれます。距離も 水路or陸路も。

半島については 地名が解る程度
朱蒙に出てきた地名が おぼろげにわかる程度です 

きょうも 教えていただきありがとうございました
初耳ばかりです。 (ゴチ)
2011-11-18 15:54:55
興味有るレポートを有り難う。初耳ばかりです。九州勢が強かったと言う事でしょうか。本物の武器ではなく祭祀の道具が何故このように数多く存在したのかが不思議です。バツ(X)の大きさはどのくらいであったのでしょう。日本の歴史学者の解釈は「飽くまでも倭は日本国」としたかったからでしょうか。歴史学者ってそんな誰にでも判る様なミスをするのでしょうか。これも疑問です。
銅剣が話せたら (過労死予備群)
2011-11-18 16:40:02
sapphireさん、こんばんは。
銅剣が話す言葉を、もっていたなら、聴いてみたいように思います(にっこり)。

祭祀は「祈り」と「呪い」の正負の両面をもちます。何かを封印する、何かを祈り(呪い)こめる、何かを祈る、どれもみな祭祀です。

これだけの数があるとするならば、一本ごとに一族や一国の祈りがあったのかもしれません。
そう考えると、国の形がまた変わってきますね。
同じ文化圏に属する思考をもつ集団が、この剣の数だけあったとすると、国の成り立ちは、いま教科書にかかれているものとは、違うものになるでしょう。

歴史は面白いです。
さまざまな解釈のしようがありますから。
ゴチさんへ (sapphire)
2011-11-18 17:57:05
どうなんでしょうね…
「古代史」は 出土頼りのところがあって
素人と研究者の垣根が低いと聞きました
決定的な「何か」が出土しないうちは
「仮説」の域から出れないので…
ミスと言いきれないのでしょうね
とりようによって解釈が何通りも生まれますから
それぞれが仮説をたてて 想像を膨らませて
次の大きな「何か」の出土を待っています

X印は実物を 古代出雲博物館で見てきましたので
後ほど 写真を載せます(といってもガラス越しでボケちゃった
そうそう 大きさですね、1cmくらいです 
過労死予備群さんへ (sapphire)
2011-11-18 18:14:38
ええ ささやきでいいですから聞きたいですね

祭祀が中心の暮らしでは 
あらゆるものに「魂」を宿らせたり 
「魂」を封じ込めるたり…

これらの出土品には どんな「念」が込められているのでしょうね

思い込んじゃうと行き詰まり 
「受け入れる大らかさ」と
「柔軟な余裕」を持てば 歴史も楽しいです
人とのつながりと同じですね

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