半蔵門から甲州街道をへて甲府まで
【あらすじ】
江戸城の半蔵門は日頃は不浄門として、死人や罪人を出す門となっていましたが、この門外に伊賀忍者の頭目 服部半蔵の屋敷があり、そこから甲州街道が一直線に延びていて、早馬で一時間で行ける距離に譜代の内藤氏が、その先高尾山の手前八王子には千人同心を置いて、万一江戸城が危ない時には徳川旧領の甲府方面に逃げるために用意されていたとか。
【半蔵門】
半蔵門(はんぞうもん)は、江戸城(現在の皇居)にある門の1つである。
城の西端に位置し、まっすぐ甲州街道(現・国道20号)に通じている。大手門とは正反対の位置にある。
服部家の部下(与力30騎、伊賀同心200名)がこの門外に組屋敷を構え、四谷へと通じる甲州街道(現在の国道20号、通称麹町大通り・新宿通り)沿い一帯が旗本屋敷で固められていたことに由来するという。
江戸城から街道への出口にあたる門を「半蔵門」というのは、その門のそばに将軍護衛の任に当たる伊賀忍者、服部半蔵の屋敷がおかれていたからだ。
将軍が、非常時に脱出するための門だったともいわれ、脱出の際には服部家は真っ先にその護衛に当たることされていた。この江戸城から新宿、武蔵野を経て甲府に至る甲州街道は、物資を運ぶ役割だけでなく、天下万一の時の将軍の江戸からの脱出路だったといわれている。
【甲州街道】
この半蔵門の正面に今の国道20号線、つまり「甲州街道」が位置し城に直結している。
家康は、江戸に幕府を開き、江戸を中心とする都市づくり取り組んだ。
江戸と各城下町を結んだ街道もその一つであり、日本橋を起点に五街道を整備し、全国の城下町を結んだ。
日本橋から京都の三条大橋にいたる、最も主要な街道であった「東海道」、そして中山道、日光街道、奥州街道がある。 五街道では、主に大名の参勤交代が行はれ、併せて一里塚や宿場町がつくられている。
参勤交代であるが・・、
沿道には東海道が145家、日光・奥州街道の41家、中山道で30家の各藩があったといわれる。
では、「甲州街道」では何家の大名が使ったか、実は3家だけであった。
この道中を通行した参勤交代の大名は、伊那の3万5千石の高遠藩、1万5千石の飯田藩、3万石の諏訪の高島藩の3大名で、何れも小藩ばかりである。
又、甲州街道以外の街道は日本橋から出ているのに、甲州街道は何故江戸城に直結していたのか?
甲州街道を進んでいくと、新宿(信州高遠藩主であった内藤氏の中屋敷があり、新しい宿場を設けて内藤新宿とした)の北側に百人町がある。さらに進むと八王子に千人町があり、その後、甲府城につながる。
武田家亡き後「甲府城」は徳川家康が築き、その後、幕府の天領(幕府直轄管理)となり、幕府が治めている。
百人町とは、鉄砲百人隊が住んでいた場所であり、千人町は、千人同心が住んでいた場所である。
【内藤新宿】
内藤新宿(ないとうしんじゅく)は、江戸時代に設けられた宿場の一つ。甲州街道に存在した宿場のうち、江戸日本橋から数えて最初の宿場であり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でもあった。現在の住所では、東京都新宿区新宿一丁目から二丁目・三丁目の一帯にあたる。
「内藤新宿」の「内藤」は、信州高遠藩の内藤家の中屋敷があったことによる。(この中屋敷跡が現在の新宿御苑であり、御苑のある地名も「内藤町」となっている。) 「内藤新宿」の「新宿」は、江戸時代第一の宿場であった高井戸に対し、中間点にできた「新しい宿場」という説と、太宗寺周辺にあった人馬の休憩所「内藤宿」に対する本格的な新しい宿という意味で「内藤新宿」と名がついたという説が残っている。
内藤新宿は、江戸四宿の一つとして発展していき「四谷 新宿 馬の糞」という表現は、この街道がとてもにぎわい物資の運搬などが盛んであった有様を示している。
慶長六(一六〇一)年、内藤清成は関東総奉行に任命され、配下として新たに与力二十五騎、同心百人を預けられ、大久保鉄砲百人組が成立。七年後清成が病没、長子清次が跡を継ぎ、二万六千石、二代目頭に就任、のち老職(のちの老中)に進み、元和三(一六一七)年、四十一歳没。百人組三代目頭は酒井忠勝に代った。
【大久保鉄砲百人組】
鉄砲組百人隊の組屋敷のあった町筋は、現在の百人町の町筋で、勿論、地名もそこからきているのですね。
この道筋の両側に五十人ずつ鉄砲同心の屋敷があり、百人の同心が、うなぎの寝床のような、奥行が深く、間口の狭い敷地の奥に、家を構えていたのだそうです。
そして、組屋敷の東西の出入口には柵を設け、木戸番を置き、そのまま一つの砦のように造られていたと、神社の栞には記されております
甲州街道の最初の宿場が内藤新宿であり、新宿百人町は鉄砲組百人隊が将軍護衛の為に配備されていた所。
【八王子千人同心】
徳川家康が江戸城を築城するにあたり、甲州街道(新宿通り)の突き当たる半蔵門を搦め手門として、もしも城が落ちた場合は半蔵門より甲州街道を一気に走り、八王子から甲府へ落ち延びて再起を図る事を想定していたようです。その時に甲州との国境にあり、重要な逃走路となる八王子周辺の多摩地域に、在郷の武士団を配置して平時より警備にあたらせていました。
そのほとんどは武田氏滅亡後に徳川氏に従って八王子に移り住んだ武田遺臣団で、八王子千人同心と称しました。実際の総数は平同心が800人で、多摩周辺の郷士となった上層農家が多かったのですが、100人いた組頭は八王子市千人町付近に拝領屋敷のある30表一人扶持の士分でした。さらにその上に200石から500石取りの千人頭が10人いて、組頭と同じく千人町付近に屋敷がありました。
【甲府城】
甲府城は江戸時代の初めは、将軍家一門が城主となる特別な城でしたが、宝永元年(1704)時の城主・徳川綱豊が第5代将軍・徳川綱吉の養嗣子となり、江戸城西の丸へ移ると、この後に祖先が甲斐出身で側用人の柳沢吉保が城主となり、大名の城として最も整備され、城下町とともに大きく発展しました。しかし、吉保の子・吉里が大和郡山城主として転封された後は、甲斐国は幕府の直轄地となり、甲府城は甲府勤番の支配下におかれました。
【抜け穴】
この服部半蔵の屋敷には将軍の御殿からお堀の下をくぐる秘密の抜け穴が通じていたという伝説もあるが、抜け穴が無くともお堀端で将軍の御殿に一番近い屋敷だから、万一の時には服部半蔵の部隊が、どの大名よりも早く将軍の身辺に駆けつける態勢にあったのだ。
実は江戸城には脱出路があり、半蔵門から甲州街道へ伸びていたと?
将軍にもしものことがあったときに、その通路を使って逃げ出すため。
現在の新宿御苑まで、そのトンネルは続いていたとの説?
【あらすじ】
江戸城の半蔵門は日頃は不浄門として、死人や罪人を出す門となっていましたが、この門外に伊賀忍者の頭目 服部半蔵の屋敷があり、そこから甲州街道が一直線に延びていて、早馬で一時間で行ける距離に譜代の内藤氏が、その先高尾山の手前八王子には千人同心を置いて、万一江戸城が危ない時には徳川旧領の甲府方面に逃げるために用意されていたとか。
【半蔵門】
半蔵門(はんぞうもん)は、江戸城(現在の皇居)にある門の1つである。
城の西端に位置し、まっすぐ甲州街道(現・国道20号)に通じている。大手門とは正反対の位置にある。
服部家の部下(与力30騎、伊賀同心200名)がこの門外に組屋敷を構え、四谷へと通じる甲州街道(現在の国道20号、通称麹町大通り・新宿通り)沿い一帯が旗本屋敷で固められていたことに由来するという。
江戸城から街道への出口にあたる門を「半蔵門」というのは、その門のそばに将軍護衛の任に当たる伊賀忍者、服部半蔵の屋敷がおかれていたからだ。
将軍が、非常時に脱出するための門だったともいわれ、脱出の際には服部家は真っ先にその護衛に当たることされていた。この江戸城から新宿、武蔵野を経て甲府に至る甲州街道は、物資を運ぶ役割だけでなく、天下万一の時の将軍の江戸からの脱出路だったといわれている。
【甲州街道】
この半蔵門の正面に今の国道20号線、つまり「甲州街道」が位置し城に直結している。
家康は、江戸に幕府を開き、江戸を中心とする都市づくり取り組んだ。
江戸と各城下町を結んだ街道もその一つであり、日本橋を起点に五街道を整備し、全国の城下町を結んだ。
日本橋から京都の三条大橋にいたる、最も主要な街道であった「東海道」、そして中山道、日光街道、奥州街道がある。 五街道では、主に大名の参勤交代が行はれ、併せて一里塚や宿場町がつくられている。
参勤交代であるが・・、
沿道には東海道が145家、日光・奥州街道の41家、中山道で30家の各藩があったといわれる。
では、「甲州街道」では何家の大名が使ったか、実は3家だけであった。
この道中を通行した参勤交代の大名は、伊那の3万5千石の高遠藩、1万5千石の飯田藩、3万石の諏訪の高島藩の3大名で、何れも小藩ばかりである。
又、甲州街道以外の街道は日本橋から出ているのに、甲州街道は何故江戸城に直結していたのか?
甲州街道を進んでいくと、新宿(信州高遠藩主であった内藤氏の中屋敷があり、新しい宿場を設けて内藤新宿とした)の北側に百人町がある。さらに進むと八王子に千人町があり、その後、甲府城につながる。
武田家亡き後「甲府城」は徳川家康が築き、その後、幕府の天領(幕府直轄管理)となり、幕府が治めている。
百人町とは、鉄砲百人隊が住んでいた場所であり、千人町は、千人同心が住んでいた場所である。
【内藤新宿】
内藤新宿(ないとうしんじゅく)は、江戸時代に設けられた宿場の一つ。甲州街道に存在した宿場のうち、江戸日本橋から数えて最初の宿場であり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でもあった。現在の住所では、東京都新宿区新宿一丁目から二丁目・三丁目の一帯にあたる。
「内藤新宿」の「内藤」は、信州高遠藩の内藤家の中屋敷があったことによる。(この中屋敷跡が現在の新宿御苑であり、御苑のある地名も「内藤町」となっている。) 「内藤新宿」の「新宿」は、江戸時代第一の宿場であった高井戸に対し、中間点にできた「新しい宿場」という説と、太宗寺周辺にあった人馬の休憩所「内藤宿」に対する本格的な新しい宿という意味で「内藤新宿」と名がついたという説が残っている。
内藤新宿は、江戸四宿の一つとして発展していき「四谷 新宿 馬の糞」という表現は、この街道がとてもにぎわい物資の運搬などが盛んであった有様を示している。
慶長六(一六〇一)年、内藤清成は関東総奉行に任命され、配下として新たに与力二十五騎、同心百人を預けられ、大久保鉄砲百人組が成立。七年後清成が病没、長子清次が跡を継ぎ、二万六千石、二代目頭に就任、のち老職(のちの老中)に進み、元和三(一六一七)年、四十一歳没。百人組三代目頭は酒井忠勝に代った。
【大久保鉄砲百人組】
鉄砲組百人隊の組屋敷のあった町筋は、現在の百人町の町筋で、勿論、地名もそこからきているのですね。
この道筋の両側に五十人ずつ鉄砲同心の屋敷があり、百人の同心が、うなぎの寝床のような、奥行が深く、間口の狭い敷地の奥に、家を構えていたのだそうです。
そして、組屋敷の東西の出入口には柵を設け、木戸番を置き、そのまま一つの砦のように造られていたと、神社の栞には記されております
甲州街道の最初の宿場が内藤新宿であり、新宿百人町は鉄砲組百人隊が将軍護衛の為に配備されていた所。
【八王子千人同心】
徳川家康が江戸城を築城するにあたり、甲州街道(新宿通り)の突き当たる半蔵門を搦め手門として、もしも城が落ちた場合は半蔵門より甲州街道を一気に走り、八王子から甲府へ落ち延びて再起を図る事を想定していたようです。その時に甲州との国境にあり、重要な逃走路となる八王子周辺の多摩地域に、在郷の武士団を配置して平時より警備にあたらせていました。
そのほとんどは武田氏滅亡後に徳川氏に従って八王子に移り住んだ武田遺臣団で、八王子千人同心と称しました。実際の総数は平同心が800人で、多摩周辺の郷士となった上層農家が多かったのですが、100人いた組頭は八王子市千人町付近に拝領屋敷のある30表一人扶持の士分でした。さらにその上に200石から500石取りの千人頭が10人いて、組頭と同じく千人町付近に屋敷がありました。
【甲府城】
甲府城は江戸時代の初めは、将軍家一門が城主となる特別な城でしたが、宝永元年(1704)時の城主・徳川綱豊が第5代将軍・徳川綱吉の養嗣子となり、江戸城西の丸へ移ると、この後に祖先が甲斐出身で側用人の柳沢吉保が城主となり、大名の城として最も整備され、城下町とともに大きく発展しました。しかし、吉保の子・吉里が大和郡山城主として転封された後は、甲斐国は幕府の直轄地となり、甲府城は甲府勤番の支配下におかれました。
【抜け穴】
この服部半蔵の屋敷には将軍の御殿からお堀の下をくぐる秘密の抜け穴が通じていたという伝説もあるが、抜け穴が無くともお堀端で将軍の御殿に一番近い屋敷だから、万一の時には服部半蔵の部隊が、どの大名よりも早く将軍の身辺に駆けつける態勢にあったのだ。
実は江戸城には脱出路があり、半蔵門から甲州街道へ伸びていたと?
将軍にもしものことがあったときに、その通路を使って逃げ出すため。
現在の新宿御苑まで、そのトンネルは続いていたとの説?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます