趣味とアイデアの部屋

自由人が、自身の趣味とアイデアを、自由に語る部屋です。
ブログの更新も自由に不定期です。

鉄砲百人組とは!

2012-06-26 17:30:24 | 東京に住んで思うこと
鉄砲百人組だけを詳しく。

徳川家康は、江戸城が万一落ちた場合、内藤新宿から甲州街道を通り、八王子を経て甲斐の甲府城に逃れるという構想を立てていた。鉄砲百人組とは、その非常時に動員される鉄砲隊のことである。
この鉄砲百人組の組屋敷は、それぞれ伊賀組は大久保に、甲賀組は青山、根来組は市谷、二十五騎組は内藤新宿にありました。このように鉄砲百人組の組屋敷は、すべて甲州街道沿いにありました

【鉄砲百人組の由来】
徳川家康が秀吉の命により「江戸」に入府したのは、天正18年8月1日(1590年)のことであった。この家康とともに先陣を務めたのが伊賀の地侍、服部半蔵正成を頭領とする鉄炮同心百人および玉薬同心(弾薬製造)であった。

三河時代からの腹心であった内藤修理亮清成に鉄炮百人組を預け、現在の新宿1~2丁目周辺に駐屯させ、その防備と警戒にあたらせたのが鉄砲百人組の始まりとなった。その10年後(1600年)家康は、「関ヶ原の戦」に勝利し天下を制することのなったが、以前から「鉄炮」の威力に注目していた家康は、幕府創設にあたり鉄砲百人組を徳川幕閣の中にとり入れ、駐屯から定住化させるため、組屋敷を後の内藤宿(四谷大木戸から1,2丁目)と大久保百人町に設けた。

 鉄砲百人組として、日常の任務は江戸城大手三之門の警備を4組の百人組(大久保組・青山組・根来組・甲賀組)が交替で詰め、その詰めた番所が「百人番所」として皇居東御苑に現在も残されている。
また、徳川家の菩提寺である上野寛永寺、芝増上寺、日光東照宮への参詣、京都御所参上の折には隊列を整え将軍の警護をし、遠路をともにした。百人組創設当初は老中直轄支配であったが寛永の改革後、旗本へ統合され若年寄が指揮することなり寛永12年久世三四郎広當が組頭となり、現在の都立大久保病院周辺に1万3000坪の広大な抱屋敷があった。

【鉄砲百人組の構成】
25騎組(青山組)、伊賀組、根来組、甲賀組の四組からなり、各組に百人ずつの鉄砲足軽が配された。組頭は、その鉄砲隊の頭領である。
通常、鉄砲隊は先手組の様に一隊に付き20-50人が備に配属されるのが一般的である。しかし、百人組は文字通り百人で構成され、その人員も編成当初は組名の通り、伊賀・甲賀・根来といった鉄砲の扱いに優れた地域の者を召抱えている。因みに伊賀組と25騎組が編成されたのは1601年だが伊賀同心が召抱えられ服部正成組下に置かれたのはそれ以前、1590年の関東入国時である。また甲賀組は1597年に、根来組は1585年に編成され成瀬正成を組頭とした。
この事から百人組は備に配される通常の鉄砲組とは異なり、高い火力を有した独立部隊として編成されたと考えられる。

【甲賀組とは】
甲賀組は、1597年に伏見城で合力米10石の与力1名と3人扶持の同心10名で構成され、1600年の関ヶ原の戦を経て近江国甲賀郡で与力と同心を選抜したのが始まりです。
1632年には初めて江戸に下り、内桜田門の警固に当たりましたが、1637年には近江国水口御殿の勤番を務める様になり、1644年には再び江戸に下って、他の百人組と交代で大手内三の御門の警備に当たる様になり、この頃に大体100人程度で構成される様になったのであろうと言われています。
青山にはもう一つ、青山甲賀町があります。
これは千駄ヶ谷の谷町の東北にあった武家地で、御先手組、百人組の武家屋敷がありました。甲賀町は御炉路町の北にあった百人組の俗称です。

【伊賀組とは】
伊賀組は、先述の伊賀者と異なり、純粋な戦闘部隊です。
1601年に伊賀の地侍から選抜された者達が伊賀組を構成したのが始まりで、1633年2月12日に与力20騎、同心100名を以て、百人組を構成しました。
大久保百人町は、伊賀組、又の名を大久保百人組の組屋敷があった

【根来組とは】
根来組は、鉄砲隊の中で最も古い編成で、1585年8月22日、浜松城に於いて組織され、甲斐に派兵されています。
後、1626年に根来報恩寺の衆徒として地元にいた地侍が召し出され、伊賀組と共に1633年2月12日、与力20騎が新たに加わり、同心100名で百人組を結成しました。
因みに、根来組の与力や同心は総て紀州根来山報恩寺の衆徒で、家康の三河御陣の際に軍功があり、凱旋の時に途中警固に当たりました。
また、根来組同心は、丸頭では人目に付くというので、総て総髪だったのも特徴です。
今の新宿区牛込弁天町の辺りに根来組の組屋敷がありました。

【二十五騎組とは】
二十五騎組は1601年に始まり、1632年6月21日に与力25騎と同心100名で組を作ったのでこの名が付きました。
こちらは、甲賀、伊賀、根来が何れも各地の傭兵集団を抱えたのに対し、地生えの兵士達を訓練したものです。
青山百人町は、松平近江守上屋敷東南の通りにあり、従来は左右とも小身の屋敷町でした。
この辺り一帯は、1590年に青山忠成が与力25騎、同心100名を預けられた際の拝領地で、その組の者に屋敷地を分け与えたものです。

半蔵門から甲州街道をへて甲府まで

2012-06-24 17:23:19 | 東京に住んで思うこと
半蔵門から甲州街道をへて甲府まで

【あらすじ】
江戸城の半蔵門は日頃は不浄門として、死人や罪人を出す門となっていましたが、この門外に伊賀忍者の頭目 服部半蔵の屋敷があり、そこから甲州街道が一直線に延びていて、早馬で一時間で行ける距離に譜代の内藤氏が、その先高尾山の手前八王子には千人同心を置いて、万一江戸城が危ない時には徳川旧領の甲府方面に逃げるために用意されていたとか。

【半蔵門】
半蔵門(はんぞうもん)は、江戸城(現在の皇居)にある門の1つである。
城の西端に位置し、まっすぐ甲州街道(現・国道20号)に通じている。大手門とは正反対の位置にある。
服部家の部下(与力30騎、伊賀同心200名)がこの門外に組屋敷を構え、四谷へと通じる甲州街道(現在の国道20号、通称麹町大通り・新宿通り)沿い一帯が旗本屋敷で固められていたことに由来するという。
江戸城から街道への出口にあたる門を「半蔵門」というのは、その門のそばに将軍護衛の任に当たる伊賀忍者、服部半蔵の屋敷がおかれていたからだ。

将軍が、非常時に脱出するための門だったともいわれ、脱出の際には服部家は真っ先にその護衛に当たることされていた。この江戸城から新宿、武蔵野を経て甲府に至る甲州街道は、物資を運ぶ役割だけでなく、天下万一の時の将軍の江戸からの脱出路だったといわれている。

【甲州街道】
この半蔵門の正面に今の国道20号線、つまり「甲州街道」が位置し城に直結している。
家康は、江戸に幕府を開き、江戸を中心とする都市づくり取り組んだ。 
江戸と各城下町を結んだ街道もその一つであり、日本橋を起点に五街道を整備し、全国の城下町を結んだ。 
日本橋から京都の三条大橋にいたる、最も主要な街道であった「東海道」、そして中山道、日光街道、奥州街道がある。 五街道では、主に大名の参勤交代が行はれ、併せて一里塚や宿場町がつくられている。

参勤交代であるが・・、 
沿道には東海道が145家、日光・奥州街道の41家、中山道で30家の各藩があったといわれる。 
では、「甲州街道」では何家の大名が使ったか、実は3家だけであった。
この道中を通行した参勤交代の大名は、伊那の3万5千石の高遠藩、1万5千石の飯田藩、3万石の諏訪の高島藩の3大名で、何れも小藩ばかりである。
又、甲州街道以外の街道は日本橋から出ているのに、甲州街道は何故江戸城に直結していたのか?
甲州街道を進んでいくと、新宿(信州高遠藩主であった内藤氏の中屋敷があり、新しい宿場を設けて内藤新宿とした)の北側に百人町がある。さらに進むと八王子に千人町があり、その後、甲府城につながる。 
武田家亡き後「甲府城」は徳川家康が築き、その後、幕府の天領(幕府直轄管理)となり、幕府が治めている。 
百人町とは、鉄砲百人隊が住んでいた場所であり、千人町は、千人同心が住んでいた場所である。

【内藤新宿】
内藤新宿(ないとうしんじゅく)は、江戸時代に設けられた宿場の一つ。甲州街道に存在した宿場のうち、江戸日本橋から数えて最初の宿場であり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でもあった。現在の住所では、東京都新宿区新宿一丁目から二丁目・三丁目の一帯にあたる。

「内藤新宿」の「内藤」は、信州高遠藩の内藤家の中屋敷があったことによる。(この中屋敷跡が現在の新宿御苑であり、御苑のある地名も「内藤町」となっている。) 「内藤新宿」の「新宿」は、江戸時代第一の宿場であった高井戸に対し、中間点にできた「新しい宿場」という説と、太宗寺周辺にあった人馬の休憩所「内藤宿」に対する本格的な新しい宿という意味で「内藤新宿」と名がついたという説が残っている。 
 内藤新宿は、江戸四宿の一つとして発展していき「四谷 新宿 馬の糞」という表現は、この街道がとてもにぎわい物資の運搬などが盛んであった有様を示している。

慶長六(一六〇一)年、内藤清成は関東総奉行に任命され、配下として新たに与力二十五騎、同心百人を預けられ、大久保鉄砲百人組が成立。七年後清成が病没、長子清次が跡を継ぎ、二万六千石、二代目頭に就任、のち老職(のちの老中)に進み、元和三(一六一七)年、四十一歳没。百人組三代目頭は酒井忠勝に代った。

【大久保鉄砲百人組】
 鉄砲組百人隊の組屋敷のあった町筋は、現在の百人町の町筋で、勿論、地名もそこからきているのですね。
 この道筋の両側に五十人ずつ鉄砲同心の屋敷があり、百人の同心が、うなぎの寝床のような、奥行が深く、間口の狭い敷地の奥に、家を構えていたのだそうです。
 そして、組屋敷の東西の出入口には柵を設け、木戸番を置き、そのまま一つの砦のように造られていたと、神社の栞には記されております

甲州街道の最初の宿場が内藤新宿であり、新宿百人町は鉄砲組百人隊が将軍護衛の為に配備されていた所。

【八王子千人同心】
徳川家康が江戸城を築城するにあたり、甲州街道(新宿通り)の突き当たる半蔵門を搦め手門として、もしも城が落ちた場合は半蔵門より甲州街道を一気に走り、八王子から甲府へ落ち延びて再起を図る事を想定していたようです。その時に甲州との国境にあり、重要な逃走路となる八王子周辺の多摩地域に、在郷の武士団を配置して平時より警備にあたらせていました。
 そのほとんどは武田氏滅亡後に徳川氏に従って八王子に移り住んだ武田遺臣団で、八王子千人同心と称しました。実際の総数は平同心が800人で、多摩周辺の郷士となった上層農家が多かったのですが、100人いた組頭は八王子市千人町付近に拝領屋敷のある30表一人扶持の士分でした。さらにその上に200石から500石取りの千人頭が10人いて、組頭と同じく千人町付近に屋敷がありました。

【甲府城】
甲府城は江戸時代の初めは、将軍家一門が城主となる特別な城でしたが、宝永元年(1704)時の城主・徳川綱豊が第5代将軍・徳川綱吉の養嗣子となり、江戸城西の丸へ移ると、この後に祖先が甲斐出身で側用人の柳沢吉保が城主となり、大名の城として最も整備され、城下町とともに大きく発展しました。しかし、吉保の子・吉里が大和郡山城主として転封された後は、甲斐国は幕府の直轄地となり、甲府城は甲府勤番の支配下におかれました。

【抜け穴】
この服部半蔵の屋敷には将軍の御殿からお堀の下をくぐる秘密の抜け穴が通じていたという伝説もあるが、抜け穴が無くともお堀端で将軍の御殿に一番近い屋敷だから、万一の時には服部半蔵の部隊が、どの大名よりも早く将軍の身辺に駆けつける態勢にあったのだ。

実は江戸城には脱出路があり、半蔵門から甲州街道へ伸びていたと?
将軍にもしものことがあったときに、その通路を使って逃げ出すため。
現在の新宿御苑まで、そのトンネルは続いていたとの説?

江戸城の抜け穴?

2012-06-23 16:59:17 | 東京に住んで思うこと
江戸城の抜け穴は、本当にあったのでしょうか?

江戸時代には四谷御門から新宿追分にかけての地域には、縦横無尽に坑道が掘られていたという話があります。その入り口の1つが、JR山手線の新大久保駅から歩いて1分ほどの所に建つ小さな神社、皆中<かいちゅう>稲荷神社(東京都新宿区百人町1-11-16)です。

この付近は徳川幕府の将軍警護を目的とした鉄砲組百人隊の屋敷があったところで、現在も「百人町」の地名が残っています。
皆中稲荷神社の創祀は天文2年(1533)と古く、鉄砲組与力がこの稲荷神社にお参りをしたところ、射撃が百発百中となり、「皆中(みなあたる)の稲荷」と呼ばれるようになったといわれています。

空襲で本殿が焼け落ちた時に発見された穴は縦長の楕円形で、人間が立っても頭の上に十分なスペースが空き、幅は両手を広げられぐらい、天井は粘土で丁寧に打ち固められていたとの事。この穴は、万が一江戸城が攻められるような事態に陥った時に、鉄砲百人組が秘密の抜け穴として使うためのものだったと考えられています。

鉄砲百人組とは幕府が設けた鉄砲隊で、甲賀組・伊賀組・根来組・二十五騎組の4組があり、各組は同心100人ずつで編成されていました。城門の警護や将軍外出の際の護衛が任務でしたが、敵が甲州街道を攻め上って来た時には、その進撃を食い止める役割も担っていました。
鉄砲組百人隊屋敷は、将軍が江戸城を追われた際に地下坑道で、甲州へ抜ける退避路が設けられており、将軍警護のための要塞の役割を果たしたといわれます。皆中稲荷神社の拝殿にも抜け穴があり、江戸城の半蔵門から通じていたとも?



アディダスさんと矢来町

2008-12-04 12:15:50 | 東京に住んで思うこと
にほんブログ村 美術ブログ 版画へ
毘沙門天で有名な神楽坂、その隣町が矢来町です。
矢来町は江戸時代、若狭小浜藩主 酒井讃岐守忠勝の下屋敷があった所。
矢来町の町名の由来は、周囲の土手を竹矢来で囲んでいたためとされる。
江戸時代の矢来町は、ほとんどが酒井邸であった。
では今は、ほとんどが住宅地となっていて、著名なのは、新潮社さんとアディダス ジャパンさんの本社があることぐらいです。
明治以降、花町で有名になった神楽坂と宅地化により住宅地になった矢来町。
明治以降、矢来町は名が通らなくなっています。
今では、都内で住所を聞かれ、やらいちょう(矢来町)ですといっても、通じないことが多くなってしまいました。
ブログ王へ

浮世絵が趣味のお花屋さんへのリンクです。
花の一人静 作品集 一人静 浮世絵

赤城神社が消えた!

2008-11-29 01:21:42 | 東京に住んで思うこと
にほんブログ村は バナーをクリック!
にほんブログ村 美術ブログ 版画へ

赤城神社(東京都新宿区赤城元町1-10)が跡形もなく、なくなってしまいました。
びっくりです。
地下鉄東京メトロ 東西線「神楽坂駅」下車 飯田橋寄りの「出口1」から徒歩1分の所にありました。
見慣れた風景がなくなってしまうのは、さびしいです。
神社のHPには、「平成22年秋の完成をめざして、本殿 幣殿 拝殿 神輿庫 境内末社を再建するプロジェクトがスタートしています。」との事ですが。
???本当なんでしょうか、疑問です。???

由緒
伝承によれば、正安2年(1300年)後伏見天皇の創祀に際して、群馬県赤城山山麓の大胡の豪族、大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが創建と伝わる。 その後、牛込早稲田の田島村に鎮座していたお社を寛正元年に太田道灌が神威を尊んで、牛込台に遷座し、さらに弘治元年、大胡宮内少輔が現在の場所に遷したといわれている。 天和3年、徳川幕府により江戸大社の列に加えられ、牛込の総鎮守となった。

ブログ王はバナーをクリック!


テクノラティお気に入りに追加する

2016年東京オリンピックより江戸城再建?

2008-04-16 17:43:55 | 東京に住んで思うこと
北桔橋(きたはねばし)門から入ると直ぐに、天守台が目に入ってきます。
大きいです。登っていくと台の頂上にベンチがあります。
ここに座って、本丸跡を眺めていると、とても気持ちがゆったりします。
外国人の観光客も多く、ふと思うことは、ここに天守閣があって、本丸、二の丸、三の丸なども再建されれば、東京の一番の観光スポットになるだろうなと思うことです。
実際問題として、皇居があるわけだから、とても難しい話なんだろうけど。

江戸(東京)に幕府が置かれ、以後、十五代に渡り260年以上も栄華を極めた江戸の文化はとても重要な歴史であり、それを詳しく見て廻りたいと思う観光客はきっと多くいるに違いない。首都東京に観光客を集めるための重要なファクターではないだろうか?

そういえば、2016年に東京オリンピック?
いくらお金がかかるんだろう?
 招致活動経費:102億円
 オリンピック関連の投資事業総額は、9兆2千億円?

1回のイベントで消えてしまうより、永代の遺産にお金をかける方がいいと思うが。
皆さんは、どう考えますか?

皇居東御苑 開苑時間について
開苑日は、月曜、金曜を除く毎日(行事による支障がある日、年末年始)
ただし、月曜、金曜でも祝日の日は、開苑する。
3月から10月は、午前九時から午後四時まで
11月から二月は、午前九時から午後三時半まで
備考:入苑は、無料です。

天守閣
寛永度の天守は五層六階の独立式層塔型で銅板張りの壁に銅瓦葺という姿であったが、1657年の明暦の大火で焼失している。(地上からの高さは58mありました。)

ヘレーネ・フィッシャー