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江戸城の抜け穴?

2012-06-23 16:59:17 | 東京に住んで思うこと
江戸城の抜け穴は、本当にあったのでしょうか?

江戸時代には四谷御門から新宿追分にかけての地域には、縦横無尽に坑道が掘られていたという話があります。その入り口の1つが、JR山手線の新大久保駅から歩いて1分ほどの所に建つ小さな神社、皆中<かいちゅう>稲荷神社(東京都新宿区百人町1-11-16)です。

この付近は徳川幕府の将軍警護を目的とした鉄砲組百人隊の屋敷があったところで、現在も「百人町」の地名が残っています。
皆中稲荷神社の創祀は天文2年(1533)と古く、鉄砲組与力がこの稲荷神社にお参りをしたところ、射撃が百発百中となり、「皆中(みなあたる)の稲荷」と呼ばれるようになったといわれています。

空襲で本殿が焼け落ちた時に発見された穴は縦長の楕円形で、人間が立っても頭の上に十分なスペースが空き、幅は両手を広げられぐらい、天井は粘土で丁寧に打ち固められていたとの事。この穴は、万が一江戸城が攻められるような事態に陥った時に、鉄砲百人組が秘密の抜け穴として使うためのものだったと考えられています。

鉄砲百人組とは幕府が設けた鉄砲隊で、甲賀組・伊賀組・根来組・二十五騎組の4組があり、各組は同心100人ずつで編成されていました。城門の警護や将軍外出の際の護衛が任務でしたが、敵が甲州街道を攻め上って来た時には、その進撃を食い止める役割も担っていました。
鉄砲組百人隊屋敷は、将軍が江戸城を追われた際に地下坑道で、甲州へ抜ける退避路が設けられており、将軍警護のための要塞の役割を果たしたといわれます。皆中稲荷神社の拝殿にも抜け穴があり、江戸城の半蔵門から通じていたとも?




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