that sound...

好きなもの・気になったもの・身近な生活

中国ロックの才人

2010-04-28 10:43:22 | Weblog
 FMを聴いていたら「中国のロック界のパイオニア」という紹介であるアーティストの曲が流れてきた。かの国の音楽状況は不勉強なことになにも知らないでいたんだけれど、流れてきたその曲の凄さにただただ呆然。音は幾分チープな感じはするけど、そんなことはどうでもいい。そのバンドの音にはエネルギーが満ちあふれているのだ。ベタといってもいいようなサックスや、突然不似合いなファンキー・ギターが入ってきたりするが、それらの音は協調しながらなんの迷いもなく突き進んでくる。そして初めは不似合いと感じていた音も、聴いているうちにそれらすべてが必然性をもち、ひたすらこっちに迫ってくる。そこにあるのはまったく無駄のない音で、曲を構成するのに必要不可欠な音だ。
 そして、そんなバンドに乗って歌われるその歌声のなんと説得力のあることか。もはや音楽的にどうとかそういうことではなく、そこにはひたすら強靭で不屈な精神がある。歌われるべきことが横溢しているのだ。外に出してしまわなければ済ますことのできない、いてもたってもいられない激情はロックンロールの精神そのもの。歌詞はまったくわからないのにえらくリアルに響いてくるその歌は圧倒的な力をもっている。

 崔健(ツイ・ジェン)って人のことはぜんぜん知らなかった。ネットで調べてみると「中国ロックのゴッド・ファーザー」とあり、かなり有名な人らしい。中国で、「西洋の俗悪物」の「ロック」をやるのはそれだけで相当なガッツを必要とすることだと思うが、この人はそんななかで第一線に立ち、非常に高純度なロックをやっている。

 たった2曲聴いただけでガツンとやられてしまった崔健。
 ん~、こんなロックが中国にあるとは…。

 ビックリしたことに、崔健さん、来日が決まっているらしい。しかも来週にライヴをやるとのこと。「観たいなー!」と思ったら、なんとかんたんに行ける川口でやるってことで、すぐにチケットを押さえた。なんという幸運! 彼の生の歌を聴けるかと思うと、すごくすごく楽しみだ。
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4/22 Gary Moore @ SHIBUYA-AX

2010-04-25 14:35:01 | ライヴ
 昨今はブルーズのカバーばっかりのアルバムを出し、ハード・ロックはご無沙汰状態。いまとなってはすっかりブルーズの人となったゲイリー・ムーア。ハード・ロックからブルーズへの路線変更はそれまでの熱狂的ファンを戸惑わせはしたけれども、しかしそのブルーズ路線も音楽的評価は高く、新たに自分の音楽スタイルを確立させた感のある彼。だが、今回のライヴはなんだか宙ぶらりんな印象ばかりが残るものだった。

 実は彼がやっていたハード・ロックはあまり好きになれず、いまのブルーズ路線の方がずっと好きな自分だが、今回のライヴはドッシリ腰の座った、それでいてハード・ロックの派手さも加味された彼独特のギターを期待していた。モントルーでのライヴを年代毎にたどったDVDでは、その年ごとの演奏の変遷を見ることができるが、そこでのゲイリーのギターはほどよく抑制され、ツボを押さえた演奏に徹している。しかも「ここぞ!」というときはワイルドにキメるという、ハード・ロッカーの顔も効果的に覗かせるゲイリー・ムーア・スタイルのブルーズをぶちかましている。ブルーズ一筋のギタリストとは違う、ハード・ロック・テイストただよう独特の味わいあるギターは、スロー・ブルーズでもグッとタメのある演奏で、引きのギターも実にカッコイイ。
 今回のライヴで期待していたのはこんなゲイリー。円熟味のあるブルージィ、且つハード・エッジの効いたギターを聴きたいという思いと、彼のブルーズに対する解釈の深化にも強い興味をもっていたのだ。

 ところが、である。この日のゲイリーは激しく弾きまくり、ハードなギター全開。マシンガン・ピッキングも炸裂しまくりだった。ブルーズ・セットと言いながら、ギターだけはめちゃくちゃハード。これもゲイリーのスタイルのひとつではあるんだろうけれど、でもスロー・ブルーズでもハード・ロック丸出しの早弾きソロだし、曲の中で引きの場面がまったくなく、ひたすらゴリ押しの演奏だったのはどうにも違和感ばかりを感じた。円熟ブルーズ・ギターを期待していた身としては、あのギターは弾き過ぎ、やり過ぎである。テクニックは申し分ない。そのビブラートやピッキング、ギターのトーンはそれはそれはとてつもなく素晴らしい。それはそれで見るべきところ十分ではあるが、あの激しい演奏は曲そのものを殺してしまっていたように感じるのだ。ある雑誌のインタビューで、「最近のギタリストはブルーズなのに間を大切にしないで、弾き過ぎるヤツが多い」と言っていた彼だが、そんな彼があそこまで弾き倒すことの意味とは……。

 ただ、ゲイリーの真骨頂の泣きのギターが定番のあの2曲で聴けたのはやはりうれしいかぎり。会場もこの2曲で一際盛り上がりを見せる。彼はここでも弾きまくりのギターだったが、しかしどんなに弾きまくろうとも、完全に自分のものとなっている曲では弾き過ぎの印象はまるでない。いくら弾き倒してもそれでOKなのは、この2曲がゲイリー・ムーアというギタリストの存在そのものを表現しているからだ。あそこまで情感をこめてギターを泣かせるギタリストは彼しかいないのではないか、と思うほどの個性。
 そう考えてみると、一連のブルーズのカバーは完全に彼のものになっているとは言い難い。そのためにあの弾きまくりギターにはどうしても違和感を感じてしまうのだ。 

 彼の言葉にもあるように、ブルーズの肝は引きとタメ。ゲイリーのこの日のギターにそれは皆無だった。彼の激しいギターとブルーズの食い合わせの悪さばかりを感じるライヴ。抑制のあるギターであれば最高の演奏もできるはずで、そういった部分で唯我独尊にも聞こえるギターだったのはとても残念であった。ギターだけを聴いているなら本当に惚れ惚れしてしまうのだけれど、それが曲を生かしているかというとなんとも……。


1.Oh Pretty Woman
2.Bad for you Baby
3.Down the line
4.Since I met you baby
5.Have you heard
6.All your love
7.More than you’ll ever know
8.Too Tired
9.Still got the Blues
10.Walking by Myself

<Encore>
11. The Blues is Alright

<Encore>
12.Parisienne Walkways

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トルバドール・リユニオンでのキャロル

2010-04-20 22:31:15 | Weblog
 キャロル・キングの過去3度の来日公演を観てきたが(全公演ではないけど)、今回の公演での歌声はそのどれよりもいい。1990年の初来日のときは声の張りや延びはいまよりずっとあったけれど、いまから思うと初来日での気負いからか、幾分力みがあったように記憶している(実際、二日続けて観た公演の二日目は声が荒れていた)。また、2007年、2008年と続けて来日したときの彼女は声が本調子とは言えず、年齢による衰えもあるのだろうが、かなり厳しそうに張り上げたり、掠れたりするところもあった。ところが今回は、ジェイムスと交互に歌う形式のライヴということで喉の負担が減ったこともあってか、最近2回の来日コンサートで聴かれた声とは大きく違い、彼女独特のあの歌声は復調、艶やかに響いていた。
 また、ジェイムスがいることによって曲のニュアンスが微妙に変わったことも歌に大きく作用していたように思える。特に『Will You Love Me Tomorrow?』などはジェイムスを見つめながら歌っていたりして、キャロルがあらたな気持ちで歌の意味を見つめ直し、そこに向き合って歌っていた様子が見てとれた。

 キャロルがとても楽しそうにジェイムスと歌い、演奏していた姿が強く印象に残るのは、キャロルがジェイムスに対して底知れなく深い畏敬と敬愛の念をもっているからだろう。そんな無二の盟友と同じステージに立つことの喜びを包み隠さず、それが演奏や歌に現れ出る、そんな豊かな感情のほとばしり。あれだけのキャリアを重ねながら、今もなお音楽に対して純粋な感性をもっていること。そしてそんな音楽を共に作り上げてきた仲間たちに対する限りないリスペクト。彼女の人間性とアーティスティックな感性がヒシヒシと感じられるステージは、観客も存分に楽しませようという徹底したプロ意識も重なり、それはそれはたくさんのものを伝えてくれる、人間味あふれるあたたかいコンサートとなった。

 彼女がメイン・ヴォーカルをとる曲で特に素晴らしかったのが『(You Make Me Feel Like) A Natural Woman』。ピアノをサポート・メンバーロビー・コンドールに任せ、マイク片手にステージ上で熱唱する姿は「シンガー」キャロル・キングのモノ凄さを感じさせた。曲のイメージとしてそこにはアレサ・フランクリンが重なるが、このときのキャロルはその漲る力を一心に曲にぶつけていて、その迫力から感じたのはゴスペルの力強さだ。ゴスペル出身のアレサをどれだけ意識していたのかわからないけれど、あの熱唱っぷりと、観客を煽り、そして巻き込んで歌う姿には心底驚いた。そしてそのときの歌がとても感動的なものだったのだ。あんな『『(You Make Me Feel Like) A Natural Woman』はいままで観たことがなかったし、キャロルがあんな風に歌えるとは思ったこともなかった。いやいや、キャロル・キングって人はやっぱりスゴイ人なのだ。

 そんなミュージシャンシップを強烈に感じさせる一方、嬉々としてステージを跳ね回り、右へ左へと激しく動き回っていた可憐なおばあちゃん。そんな子供のような純真さも彼女の大きな魅力のひとつだし、そんなところも愛すべき人なのだなぁ。
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4/16 Carole King / James Taylor @ 日本武道館

2010-04-18 20:01:49 | ライヴ
 キャロル・キングとジェイムス・テイラー。二人は、それぞれがたどってきたキャリアの最初期からお互いの存在に大きな影響を与え合う関係となり、その周囲のミュージシャンも含めて、真にエバーグリーンな音楽を作り上げてきた。そんな二人が共演するということだけでも期待は否応なしに高まるコンサート。ましてや今回のバック・バンドにはザ・セクションが帯同するという。クレイグ・ダーギー不在なのでフル・メンバーでのザ・セクションではないが、しかしそれでも信じられない顔ぶれである。

 来日する前のオーストラリア公演でのセット・リストを見ると、その演奏曲はなんとも豪華そのもの。トルバドール・リユニオンというだけあって、セット・リストも70年代中ごろまでの発表曲に限定されているようだ(『Copperline』は例外として)。同窓会みたいなステージが予想されるが、しかしあの二人が同時にステージに立ち、演奏し、歌い、しかもザ・セクションがバックを固めるということに特別な思い入れがある人にとってはたまらないコンサートだ。

 武道館で二人を観た。一言で言うなら、まさに「観てしまった」という表現が最も当てはまるコンサート。いやいや「居合わせてしまった」といった方がいいか…。
 なにしろ、このメンバーでの来日も「まさか?!」ではあったのだけれど、目の当たりにしたトルバドール・リユニオンは予想に違わぬどころか、予想をはるかに上回る内容のコンサートであった。

 ジェイムスの歌声は40年前とまったく変わっていないし、キャロルの声の出方もとてもいい。ジェイムスのフィンガー・ピッキングは初めて見るが、そのどことなくぎこちない指使いから発せられる音はとても優しく、そして柔らかい。まるでギターを弾いているというより、彼の指から音が湧き出ているかのよう。そして、そんなたおやかなギターにジェイムスのあの声が乗ってくる、なんとも言えない心地良さ。ギターと声とが絡み合ってできるジェイムスの世界は唯一無二で、グイグイ引き込まれる。
 さらにそこに被さってくるキャロルのあの声を聴くと、二人が共に作り上げてきた歴史をそばでそっと見守っているかのような気もしてくる。また、キャロルが歌っているときに入ってくるジェイムスの声も同じように染みる。二人の声が交錯する刹那の感動。音楽の素晴らしさを瞬間瞬間でこれほど映し出したコンサートは観たことがない。

 しかもバックにはいままでレコードでさんざん聴いてきたバンドのあの音だ。二人が発表した多くのアルバムのバックを支えたダニー・コーチマー、リー・スクラー、ラス・カンケルの3人はステージ右側に固まり、ひたすら黙々と的確な演奏を見せる。スクラーは、多くの音を出しているのにそれをまったく感じさせず、歌の背後を駆けまわる流麗なフレージングを披露。グッと溜めてから一気に流れる、その澱みのない美しいベース・ラインは歌にガッチリとはまり込み、実に気持ちいい。カンケルは派手さはまったくないのに知らず知らずのうちに目と耳が吸い寄せられてしまうドラミング。曲ごとに叩き分けるその多彩なドラムは歌に寄り添うかのよう。何曲かで、レコードでの叩き方をそのまま再現していたのがまたニクイ。また、クーチは短いソロ以外まったく目立つことなく、曲の中で要所要所を抑えるのみのプレイ。ほとんど弾かないという引きの美学に徹していたが、しかし、ギターをまさぐっているだけに見えるその“弾かない”ギター・プレイも、「ここぞ!」というときの音はやはりなんともいえずカッコイイ。『Steamroller Blues』でのジェイムスとのギター・バトルでは余裕しゃくしゃくのソロを少し長めに弾きまくっていたが、これは曲のカラーもあって、彼ならではのワイルドな演奏。コンサート全体を通してラフな展開のギターではあったけれど、それも実に彼らしく、ラフでありながら歌のイメージをけして壊すことがない、歌伴として真に適当な塩梅のギターだった。カンケルもそうだったが、ステージ上でニコリともせず、頑固な職人風情でいたのもまたオツなもの。

 そんな3人のほか、サポート・メンバーも含んで総勢9人の大所帯バンド。そこで驚いたのはオーガニック極まりないその音の生々しさだ。たまたま幸運にもアリーナ最前列という絶好の位置で観ることができたのだが、そこで聴こえてきた音というのがアナログなバンド・サウンドそのもの。なにしろすべての楽器の音がPAで増幅されたものでなく、シールド直結のアンプから出された音(ドラムに関してはまんま生の音)で、それが直接耳に飛び込んでくるのだ。それはミュージシャンの息遣いを感じる実に味わい深い音で、特にカンケルのドラムはそのハイ・ハットの微妙な味付けや、ブラシで叩かれるスネアの表情までもがしっかり聴きとれたほど。
 そして、そのバンドの音のなんと豊かなことか! そこにある情感の機微、その感触にはほとほと平伏してしまうほどのヒューマニズムを感じた。

 会場の後ろの方では音がどのように聴こえていたのかわからないけれど、あとで聞いた話しではPAからの音もとてもクリアーだったらしい。音の悪い武道館で、その簡素で、どちらかというとアコースティック寄りな音が、そのニュアンスまで客席全体に届いていたとしたら、それもまたすごいことだ。
 贅沢なことだけれど、最前列ではヴォーカルすべて(コーラスを含む)がPAを通した音でしか聴こえてこないため、歌声だけ後ろから聴こえてくるという違和感はあった。同じくキャロルのピアノもその生音がバンドの音で掻き消されてしまう瞬間も。そういった意味では、全体のアンサンブルを聴くといった観点からするとスタンド席の方がいいバランスで聴くことができたのかもしれない。

 いやいや、それはともかく、曲の素晴らしさ、演奏の深さ、歌の美しさがドドッと心に優しく迫ってくる豊潤な音楽。その音の中には才能豊かな二人の人生が詰まっていて、それを聴く観客にも観客なりのいろいろな感情が去来する。ジェイムスとキャロルは歌を通してさまざまな人生を伝えてくれたのだ。

 トルバドール・リユニオンはけしてノスタルジックな過去の再現などでなく、素晴らしい音楽は不変であることをさりげなく見せてくれたコンサートだった。そしてそのさりげなさのなかにはあたたかい人間性があふれていた。
 まさにいままで観てきたなかでのベストな歌、生涯に残るコンサートであった。

<4/16 日本武道館セット・リスト>
01. Blossom
02. So Far Away
03. Machine Gun Kelly
04. Carolina In My Mind
05. Way Over Yonder
06. Smackwater Jack
07. Country Road
08. Sweet Seasons
09. Mexico
10. Song Of Long Ago
11. Long Ago And Far Away
12. Beautiful
13. Shower The People
14. (You Make Me Feel Like) A Natural Woman

<Intermission>

15. Copperline
16. Crying In The Rain
17. Hi-De-Ho (That Old Sweet Roll)
18. Sweet Baby James
19. Jazzman
20. Will You Love Me Tomorrow
21. Steamroller Blues
22. It's Too Late
23. Fire And Rain
24. I Feel The Earth Move
25. You've Got A Friend

<Encore>

26. Up On The Roof
27. How Sweet It Is (To Be Loved By You)
28. Locomotion
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マルコム・マクラーレンは本当に嫌なヤツだったのか?

2010-04-11 12:30:45 | Weblog
 マルコム・マクラーレンと関わったことのあるミュージシャンは、その誰もが彼を評して「あいつはインチキ野郎だ」とか「あの野郎は詐欺師だ」とか「どうしようもねぇクズ野郎だ」とか、とにかく徹底的に嫌っていることを隠そうとしていません。関係者からそれだけの罵詈雑言を浴びせられるマクラーレンって人、やっぱり相当酷い人だったんでしょうね。ただミュージシャンにどんなことをどんな風にやらかしてたのかまでは表沙汰にはなってなくて、彼のそういった部分での業績は闇の中。人は思い出したくもないことには一様に口を閉ざしてしまうもの、どれほどイヤ~な思いをさせられてたのか想像もつきません…。

 営業というか、物の売り方がとてもうまかったとも言われるマクラーレン。自分に向けられる関係者からの個人バッシングをあえてほったらかし、言わせ放題にすることによって自らを宣伝するという広告効果を生み、怨恨を逆手にとるという、これまた関係者からすると腹の立つ戦略を実行してきました。転んでもただでは起きないどころか、ただ転んだフリをしてただけ。周りの人間を、その人たちが自覚しないまま、ことごとく踏み台にして私腹を肥やしていたと言っても言い過ぎじゃないかも。そりゃあ嫌われても当然か。

 とはいってもマクラーレンがポップ・ミュージックに与えた影響は無視できるものではなく、70年代のイギリスのパンク・シーンは彼の思惑が大きく絡んだものだったし、それ以降の若手バンドのプロデュース・ワークでも話題をさらいました。自身のソロ・ワークでも当時誕生したばかりのヒップ・ホップにいち早く接近、『バッファロー・ギャルズ』などのヒットを生み、さらにファッションの世界でも活躍するという才人っぷりを見せてくれました。
 人間関係はボロボロだったのに、音楽を捉える感覚はえらく鋭敏で、商業的な才にも秀でていたマクラーレン。いろいろな意味で羨望や嫉妬を集めていたことは想像に難くなく、いい意味でも悪い意味でも常に注目されていた存在でした。

 彼が亡くなったことで、いままで彼を散々非難してたミュージシャンがどんなコメントを出すのか、とても気になっていました。死者に鞭打つような言葉も出てくるのか? と思っていたところ、さすがに昔は毒づきまくっていた往年のパンク・ロッカーも大人になった様子。彼をもっとも忌み嫌っていたとおぼしきジョン・ライドンやスティーヴ・ジョーンズでさえも哀悼の言葉を発表しています。裏ではなにを考えているかわからないにしろ、大人の対応をしているパンク・ロッカーには隔世の感が。

 ただ、それらの哀悼の言葉がみんなポーズなどではなく本心であるかもしれず、となるとマルコム・マクラーレンて人は本当はいい奴だった?? 実はビジネスのために自分のパブリック・イメージを悪くして、そこから名声を生み出した?? そう考えると関係者のどこまでに彼の息がかかってて、どこまでが彼の片棒を担いでいたのか? その狡猾な情報操作やメディア・コントロールにずっと騙されていたのか???

 「おれが死ぬまでは、おれのことをいつまでもこき下ろすこと」。

 こんなことを周りの人間に約束させてたりしそうな人でもあるし、いったいいままでの多方面からの悪態はどこからが本当でどこまでが嘘なのか、まったくわからなくなってきました。

 稀代のペテン師と言われるマクラーレン。本当の姿はわからないまま、彼のペテンはこれからもずっとずっと生き続けていくのかもしれません。
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4/2 Joe Henry @ 横浜Thumbs Up

2010-04-04 00:14:31 | ライヴ
 ここのところ、その名前を耳にする機会が多いジョー・ヘンリー。その昔に大活躍していたかつての大物アーティストを現代に甦らせたそのプロデューサーとしての力量のすごさは玄人筋から絶賛され、いま話題となっているアーティストの諸作もヘンリーのプロデュース作が少なくない。
 グラミー賞なんかずいぶん前にとっているのにその当時はあまり注目されず、なぜ今ごろになって脚光を浴びるようになったのかわからないけれど(一部のメディアが猛プッシュしていたからか…)、彼の来日をひょんなことから知り、横浜はサムズ・アップの公演を観に行ってきた。

 バックにベースの盟友デヴィッド・ピルチとキーボードのパトリック・ウォーレンを従え、年代物(1932年と1935年に作られたギブソンとのこと)のアコギを携えたヘンリーは、なんの飾り気もなく、自らの音楽をただただ真摯に演奏し、歌った。練り上げられたスタジオ音源とはまた別の、ネイキッドな曲を歌うヘンリーは朴訥でありながら重厚な気配を漂わせる。簡素な演奏形態であるけれども、曲から受ける印象はスタジオ音源と同じ雰囲気。バックを勤める二人もまったく無駄のない締まった演奏で文句なし。まさにジョー・ヘンリーの世界が表出したステージだった。

 ただ、生で聴いたことで、彼の歌の表現力の物足りなさを実感したのも事実。サウンド・プロダクションは好きなんだけれど、彼の歌にはどうにも感じるものが少ない。
 ぼくが彼のアルバムを一枚通して聴けないのは、彼がソロモン・バークやランブリン・ジャック・エリオットほどのシンガーではないからで、その一本調子な歌い方は「歌」そのものの在り方としてはアリだとは思うが、彼の場合それが効果的なのかというと疑問だ。アルバム『Scar』は彼の歌が他の楽器や音とうまく溶け合い、混沌としたひとつの世界を築き上げている名盤で、これはぼくも一枚を楽しみながら聴くことができる。しかし、最新作『Blood From The Stars』は彼の歌を前面に出したもので、これは歌アルバムとして聴くと面白みを感じない。すべての曲の歌い方に差はなく、アルバム一枚が同じテンポ、同じ抑揚、同じメロディで進行していく。あえて曲のニュアンスをフラット化させた歌い方を選択している、ということもあるのだろうが、彼の場合は他に歌いようがないようにも思えるのだ。歌い方という部分ではエルヴィス・コステロも同じ印象の人だが、彼は言葉の強弱をはっきりつけたり、あえて乱暴に歌ったりすることで歌の印象を適宜調整しているし、曲作りにも工夫をしている様子が感じられる。もちろんヘンリーの狙った世界はコステロとは違うものだろうけれど、そこになにを感じとるかというと滋味以外の面白みをなかなか感じることができないのだ。

 ジョー・ヘンリーを聴くときにいつも物足りなく思っていたところがライヴを観ることでどう変わるのだろうか? という疑問は、実際に生の彼の歌声を聴くことで確認できた。
 彼の音楽への向き合い方には感嘆するが、個人的にはジョー・ヘンリーという人はパフォーマーというよりプロデューサーという立場でその力を示す人だと思う。
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