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言語エネルギー論

言語について考えていることを発信していきたいと思っています。共感と励ましのカキコをお待ちしています。

面白い表現

2006年11月14日 19時03分19秒 | フランス語

 Mettre de l'eau dans son vin
ワインを水で割る・・と言うことは?
(話)態度を柔軟にする、要求を少し和らげる、とある。

何かを薄めるのだと言う想像はつくが何故それが態度だったり要求だったりするのだろう。
薄められたワインは自分が飲むものか、相手に出すものか、どちらなのか。どちらにしてもピンとこない。相手に出してもらって自分が飲むものの場合なら、少しはピンとくる。
ワインに自分が水を入れるのだから・・態度や要求と言う人との関わりを想像させる意味を引き出すのは、苦しい。
冷静さを保つとか、カッカしないとかと言う自分のみに関する意味なら想像可能なのだけれど。
ちなみにスペイン語の口語表現にも、echar agua al vinoでフランス語の場合とまったく同じ意味がある。

どのように誕生した表現なのか、まつわるエピソードを知りたいと思う。
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ちょっと寄り道:
今日訳したばかりのシャンソン。
Un monsieur attendait"を訪れてみる。
見えない鳥の存在(18)」の11番目にシャンソンがあります。


食文化またはカルチャー力等について

2006年11月12日 14時32分45秒 | フランス語

どの言語でも、数の数え方、月や曜日の名前、道の聞き方など、早々と学習しなければならないことは共通している。
だが特に気づいたことだが、フランス語、イタリア語、中国語に関しては、食べ物や料理用の単語が、ことのほか多く登場する。英語、米語、ドイツ語で料理の名前がわっと出てきて困惑した記憶は全くない。食文化は初級必須語彙に如実に反映する。

懐に余裕のある人は、必ず学習進度にそって、その国の料理を出すレストランに通っている筈だ。

食に限らず、語学力は8割以上はカルチャー力である。フランス語学習者でボードレールって誰?という人はまずいない筈だ。

現地へ行って学習する人と、そうでない人の違いはどうかというと、政治・経済・歴史を体感するかどうか、のような気がする。
それらに全く興味のない人でも、現地に行けば知らずに多くを体感するはずだ。とりも直さずその結果、目に見えない学力は向上し、人間としての知力もそれと共に高まる筈なのだ。あくまでも一般論で、個人差は大きいので一概には言えないけれど。

読解力や会話力だけが伸びるなどということはありえない。言語が内包するのは何かというと、生活でありカルチャーであるからだ。現地での生活力、カルチャー力、そして語学力は常に三位一体で分離不可能なのだ。

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このBLOGはただ今こちらに引越し中です。

今日はちょっと寄り道というコーナーを設けます。
今日のちょっと寄り道は昨日他のBLOGに書き込んだBruxellesのフランス語からの訳をお目にかけます。「
Il nous faut regarder
こちら
「見えない鳥の存在(28)」の(11)をクリックしてくださると、「Il nous faut regarder」が歌われます。


考えてみれば

2006年11月10日 17時26分54秒 | フランス語

いままで意識に上らなかったけれど、考えてみればallerの後、行く国が女性の場合は、前置詞がen,男性の場合はa(aと定冠詞の縮約が起こる)なのは何故なんだろうか。

au Canada,  au Japon,  en France,  en Belgique

venir deの後、国名が女性の場合は無冠詞なのに、男性の場合はうしろのdeに定冠詞が付く(縮約が起こる)。
文法というのは、理由もなく「そういうことになっているもの」と説明があるものだけど、ここはやはり説明がほしいところだ。
国を女性、男性に分けて、定冠詞の必要、不必要、という違いを与えるのは、一体何のためなんだろう。

無責任な噂を聞いたことがある。フランス語において、フランス人が文明国と思っている国は女性扱い、非文明国と思っている国は男性扱い、なのだそうだ。これで国の性別を覚えると割合簡単に覚えられる。

それにしても、前置詞が異なったり、定冠詞が付いたり付かなかったり・・どこかに見えないその必然性でもあるのだろうか。 

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寄り道:Papa Wemba (Congo)


虚用的代名動詞

2006年11月09日 17時54分32秒 | フランス語
代名動詞の用法は何語においても日本人には手ごわい。
フランス語の代名動詞には、再帰的、相互的、受動的、本質的、虚用的の5種類がある。虚用的というのが、読んではわかっても仏作文にはなかなか自由に使えない。熟語として覚えるのが一番てっとり早い。本来の動詞にはないニュアンスを出すための用法なので、頭でいくら考えても自由に使えるものではない。

(1)Elle s'est apercue de son erreur. これは簡単。次はどうか。

(2)Je m'attendais a cette reponse.
その返事を待っていたのではなくて、覚悟していた、というニュアンスになる。次は?

(3)Ah! je m'en doutais.
se douter de で予期する、気づく、そうではないかと思う。douterのそうは思わない、とは逆になる。(3)の訳は「ああ、そんなことだと思っていたよ」!!

douterというのは好ましくない方向に気持ちが振れる、と理解してはどうだろうか。
そんなことだと思っていた内容は、おそらく心地良い結果ではない筈だ。

まぎらわしい!

2006年11月08日 18時49分38秒 | フランス語

何語であろうと一番やさしい動詞が一番難しい。英語ならmakeフランス語ならfaireか。知っているはずの単語を辞書で引くようになれば、漢字を調べる目的でフランス語(仏和)辞書を引くくらいの力はついたと思ってよいのではないか。

今日は間違いやすいfaireの用法に少し触れてみたい。

(1)ne faire que +inf(・・してばかりいる)
(2)ne faire que de +inf(・・したばかりである)

例(1) Cet eleve ne fait que bavarder en classe.
(この生徒はクラスでしゃっべてばかりいる)
例(2) Je ne fais que d'arriver.
(私は今着いたところです)

間違いやすい用法とはいえ(1)と(2)の訳を入れ替えると文として不自然なので、取り違えはありえないように思えるが、それはそれらしい文に仕立ててあるからだ。現に辞書を見ると《古》として意味が入れ替わっている。つまり古語としては訳は逆でありえたのだ。
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avoir l'airの後の形容詞をどちらにするか、ふと迷った経験は最初は誰にもある筈だ。
私はじっくり考えてl'airに一致させると判断した覚えがあるが、実はこれには約束事がある。
つまり、sembler(の様に見える)という意味で使うときは主語に一致させ、様子をしているの意味のときはairに一致させる、つまり男性形にする。
違いを覚えるよりも使い慣れる他はないだろう。

滞在型語学学校で日本語教師をしているときに「そうだ」「ようだ」「みたいだ」の区別を質問されて考え込んだことがあった。
「雨になるそうだ」は伝聞「雨になるようだ」は総合判断と言いかけてハタと止まった。
「雨になるそうだ」は伝聞でも「雨になりそうだ」は充分総合判断が入ってくる。教師マニュアルにはそれらしい説明はあったが、語法に関してシチュエーションを含まない言葉だけの充分な説明などあり得ない。状況的、心理的な意味のほうが、語法よりも優先する、させるべきだ。

(追記)同じ「そうだ」でも「雨が降るそうだ」と「雨が降りそうだ」の違いは接続による。
また「ようだ」「みたいだ」には連用接続はない。


ボンレスハム

2006年11月03日 17時46分05秒 | フランス語

昔仕事の関係で協力していただいていた豊原さんという方がいた(まだ50代で今年の3月に亡くなられた)。その方が「Bruxellesさん、息子がね、私の脚を見て、ボンレスハムっていいますねん」と。・・・
笑っていいのかどうか、でも何かユーモラスな表現だ。それで記憶に残っている。ま、旧日本人は大なり小なりボンレスハムだ。

フランス語ではles jambonneaux desosses。desosses字面をよく見ると、骨を抜いた、という意味であることがわかる。とするとボンレスハムのボンレスとは、ひょっとしてboneless(骨なし)からきているのか。おそらくそうだろう。ボンレスのユーモラスな響きがbonelessでは説明的になりすぎて、面白みが無くなってしまった。

私の祖母はひとつ質問したら100くらいのヴァリエーションで色々解説を始める多少うんざりするほど博識の人だったが、一回だけ大恥をかく説明をしたことがあった。祖母は英語はできるがフランス語はできなかった。こう言ったのだ。
「Bruxellesちゃん、シュークリームはどうしてシュークリームと言うかわかる?クリームはクリーム、シューは靴。シュークリームは靴の形をしてるでしょう」と。昔々そう言った祖母の言葉を何故覚えているかと言うと、どう見ても靴の形に見えなかったからだ。いくら博識の祖母の言葉とは言え、納得できなかった。
フランス語を学んで、シューがchou(キャベツ)であることがわかった時、長年の疑問が解けて、どれだけスッキリしたことか!  

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寄り道:  Marine Le Pen


固有名詞

2006年10月24日 11時48分15秒 | フランス語

語学は決して語彙を増やしたり文法を学んだりすることだけではない。

避けられないのが固有名詞だ。ある程度固有名詞を正しく発音して正しくスペルアウトできる必要がある。
たとえば、フランス語なら、Toulouse-Lautrec, Louis Pasteur, Jules Verneなどを読み書きできなければ、永遠に入門止まりのままだ。
人名だけではない。Monyparnasse, Pere-Lachaise, Champs-Elyseesなどの地名も入門程度でマスターする必要がある。
語学学習に平行してその国の地理や歴史、政治、経済を学ばなければならない。言葉の仕組みと同時に社会の仕組み、社会構造に親しむ必要がある。出来るだけ早い段階での現地学習が推奨されるのはそのためだ。

ただToulouse-Lautrecと正しく書けて発音できても固有名詞はそれだけでは語彙としては機能しない。人名の場合ならば人物理解や作品理解が要求されるのだ。

技能としての語学力はそうはいかないが、カルチャーとしての語学力は、したがって固有名詞を深く多く研究することから、少しずつマスターできる、とも言える。
会話を弾ませるのはむしろそちらの力なのだ。固有名詞力は、語学カルチャー力に平行するといっても、あながち間違いではないと思う。

 


前置詞と定冠詞の結合

2006年10月23日 19時08分27秒 | フランス語

前置詞と定冠詞の結合はフランス語で最初に出会った。
文中の重要語ではないので、まあ自然とくっついてしまったのだろう。変化を覚えるのもすごく容易かった。
ただ後発で学習を始めたイタリア語とスペイン語では、まだ身体に
消化されていないためか、時々ゴチャゴチャになる。

9時に、はスペイン語で a las nueve、イタリア語では結合して
alle nove。

フランス語のときは、時間表現で結合するかどうか、悩まなかったな
と、ふと思う。フランス語では定冠詞の必要がなかったからだ。
時間表現で、定冠詞が残る場合と、残らない場合、結合がある場合
とないばあい、この違いはどこから来るのだろうか?