朝日記130606 「たてまえ」と「ほんね」について 加藤典洋 「日本の無思想」と きょうの絵 能面癋見(べしみ)です。 (絵は画面をクリックするとおおきくご覧になれます)
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Asaniki 210611 増補版 酒神礼賛(Autographic)シリーズ 2021-08-27
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*選択図書: 加藤典洋 「日本の無思想」 平凡社新書 ISBN978-4-582-85003-1 C0210
*裏表紙での本書の紹介
日本古来の、日本人独特の思考様式だとされてきた「タテマエとホンネ」という考え方。
政治家の失言と前言撤回の問題を入り口に、この考え方の「起源」と「嘘」が明らかにされる。
戦後、日本の近代、近代全般、日本の古代にかかわる考察をとおして「自己欺瞞」の正体を突き止めいくスリリングな議論。
この列島に生きる人々が隠蔽してきたものは何か、
なぜ日本で思想は死ぬのか。
<*目次紹介>
はじめに -なぜ日本で思想は死ぬのか
第一部 戦後の嘘 -タテマエとホンネとは何か
1 失言と戦後
2 タテマエとホンネの考え方
3 タテマエとホンネと戦後日本
4 ホンネの底にあるもの
5 全面屈服の隠蔽
第二部 近代日本の嘘 -うち内と外の分断
1 大日本帝国憲法と信教の自由
2 「内と外との分断」
3 思想をとりだす視線
4 外から内への貫入
5 「内と外」から「公と私」へ
第三部 近代の嘘 -公的世界と私的なもの
1 ヨーロッパにおける公と私
(1)古代ギリシャ
(2)中世
(3)近代
2 日本における公と私
3 公共性と私的なもの
(1)マルクスの「ユダヤ人問題によせて」
(2)福沢諭吉の「痩我慢の説」
(3)カントの「啓蒙とは何か」
第四部 日本の嘘 -戦後の思想風土の蘇生のために
1 全面屈服者のたち
2.べしみから思想へ
<*筆者の感想>
とくに第三部の「近代の嘘」に焦点をあてて感想を述べたい。
ヘレニズム世界での ポリス(公)とオイコス(家つまり 私)から説き起こしている。
そして、まず 「公」ありきから説き起こす。
*考え方の筋A 「公ありき」(加藤氏の筋)
そして以下のように論述する:『 近代において、「ヨーロッパにおける「私的なもの」が本来「公的な性格を奪われている」という他律的な概念でありながら、他方で、その概念構成のうちにポリスの複数性の地上部分に対してのオイコスの「人間の本姓」の単一性に根ざした地下部分という自律的な原理をもっていた・・・」 』(p.188 第3部2)として、ポリス(公)ありきとし、これにオイコス(私)との 上と下の縦系列としてとらえている。
*一方、 つぎの「私」ありきから説き起こすことも可能であると筆者はおもう。
考え方の筋B 「私ありき」
トーマス・ホッブスの考えである。 「私個人」が自然権をもつ存在(自由人)であること。それが生存のために、みずからが保有する自由の一部をコモンウエルズという第三者と契約してその権力行使(主権)を委託する。
*さて、考え方の筋Aでは 思考の中心が、公(ポリス)の道徳(正義)にあり、 私(オイコス)は次元の低い(下半身的 卑しいもの)として位置づけている。
*考え方の筋Bは 思考の中心が 私個人の自然権(自由)におかれる。
*うえの筋Aと筋Bをつなげるとどうなるか。
考え方の筋A ; 加藤氏の 「私」とは 考え方の筋B の「個人の自然権(自由)」と読み替えることが可能となってくるのではないであろうか。
*加藤氏は この著のおわりに、日本人は「私利私欲」から出発せよという提案する。これに 一瞬たじろくが、よく考えると とりもなおざす自然権が裏書してくれる所有権ならびに生存の追及という功利主義にもどれということを言っていることになる。 自由主義そのものである。
*つまり 社会契約説の原点に 日本人が立つ決意があるかということになる。
*加藤氏の著で 「公」と「私」とのせめぎ合いは、近代社会では世界共通であることを知る。これに 日本の「タテマエ」と「ホンネ」が一対一に対応するかが 論の中心であるが 一応 対応させようとしていると理解した。( 物差しのスケールがすこしちがうようであるが)
*「タテマエ」と「ホンネ」ということばは 日本では古くからあるという。例として 中央の役人が、大陸からの先進的な思想や制度を背負って、その地方に赴任してくる。中央の役人がなにやら新しげで、むずかしいことばで 現地の下司に命令する。 受ける下司の方はそれに対抗する思考概念を持ち合わせていないから よくわからないまま、絶対服従の態度をしめす(「タテマエ」)。ところが 命令をだしているほうも 土着の思考の方に馴染んでいるから 儀式がおわると 立場が入れ替わってもわかる。 これが「ホンネ」というところで、宴会がもりあがることが想像される。
*著者は、ながいあいだ 日本人は儀式と宴会で この「タテマエ」と「ホンネ」を確認してきたし、それを 隠すことはなかったいう。しかし いつのまにか 「ホンネ」を隠す慣習が定着してしまったという。 この現象は ごく最近の40年くらいであるという。
この本の最後で かなしくも、おもしろい説明であった。 能楽の面に 「べしみ」(癋見面)というのがある。(下の絵をご覧いただきたい)
目をぎょろっとして口を真一文字にぎゅうっと結んでいる面を紹介している。 絶対に、しゃべらない決意を示しているかのようである。(画面をクリックするとおおきみえます)
しゃべると 支配者から絶対服従を強いられる。それをさけるためには 口をひらかない。 「しゃべらない権利」として 著者は「ホンネ」を労わるところがある。
*もちろん 言語として発しないものを思考といえるか。 これで 日本が国際社会のなかで生きていけるかは 保証していない。
*このように考えてくると いまの憲法の基底になっている「公」と「私」の対概念とのアナロジーとも怪しくなる。
*加藤氏は あたらしい出発として 「ホンネ」を基本として、それを「私利私欲」という表現で提案するものと理解した。 このことばに いささかのけ反ったが、よく考えると、 上述したことから 結局 「自然権」としての自由をもつ個人からの出発を再確認することを提案していることになる。
結局 日本国憲法を レビューする上での基本問題を提示していることであった。
これが とりあえずの書評である。
能面癋見(べしみ)
以上
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