Yassie Araiのメッセージ

ときどきの自分のエッセイを載せます

朝日記240219 その2 Zombies ゾンビについて

2024-02-19 10:37:34 | 研究論説

朝日記240219 その2 Zombies ゾンビについて

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

ー本文ー

  1. The idea of zombies ゾンビの観念

デカルトは、非人間動物はautomataであるという立場をとった;かれらの行為は全体として物理的メカニズムで説明できるというものである。

しかし人間の行為(かれは論じる)はその道すじでは説明できないというものである。

人間のように見えそして行動する機械の観念展開するに、かれはふたつのものが顕わなると考えたのである;それは言語を創造的につかうことができない、そして任意に変化する状況においてそれは適切なる非言語的行為を生むことができない。(Discourse V).

彼には、したがって人間のようにふるまう機会はないことになる。

17世紀の技術の知識において、かれはつぎのような結論をえた、人間行為は物理的なものをこえたなにかが明確に要求される;非物質的なこころ、その脳とその他の体の部分でのプロセスが作用している。

(かれは先見的に同じ結論のための論議をしたのである、そのひとつはこの報文の3節で論じる‘conceivability argument’を予想させるものである。)

もしかれがただしいなら、actual world実際世界と物理的に似ている世界がないことになり、こころを欠如した世界がのこるであろう:人間の体は適正に働かなくであろう。 

もしわれわれが突然われわれのこころを失ったらわれわれの体はしばらくの間走り続けるであろう:われわれの心臓は鼓動を続けるかもしれない、眠っているときのように呼吸するかもしれないそしてたべものを消化するもしれない:われわれは歩き、もしくは歌うかもしれないそれは気の入らない道すじであろう(so he implies in his Reply to Objections IV).

しかしこころによる貢献がないところでは、行為は特性的には人間のすがたをあらわさないであろう。

デカルトはゾンビの観念を生み出すには至らなかった、そしてゾンビの可能性の問いはかれのためにはおこらなかった。

最も近いものはautomataであったその行為は人間としては十分でないものとして容易に認知されうるものであった。

19世紀では科学者は物理学が物理事象をすべて説明することが可能であると考え始めたのである。

 

それはすべての物理的効果はその物理的原因をもつようにみえたのであった;物理的世界は因果性のもとで‘closed under causation’閉じられている。

しかし人間行為が物理的に説明可能であるなら、意識はいかにしてこの物語に適応してくるなだろうか?

ひとつの答え―物理主義(または物質主義)―は意識もまた物理的プロセスのみを含むというものである。

しかしながら、意識現象はこれらの用語において取り上げることは困難である、そしてある思想家は非物理的ななにかが含まれるにちがいないと結論した。

もし物理的なものとして因果が閉じられているなら、それらは、意識は物理的世界になんら影響を与えないという結論へ強制されたのである。

この見解のもとで人間は‘conscious automata’意識的オートマタである、T. H. Huxleyはそのように唱えた;すべての物理的事象で人間行為を含むものは物理的プロセスの用語で説明できる;そして意識の現象は因果的には不活性な副生物であるとした―epiphenomena随伴現象である(see James 1890, Chapter 5).

 

この見解は、意識は欠落しているのを除けば全くにわれわれに似ている純粋に物理的組織がありうることにつながるものとして事実上明確になったのである。

  1. F. Stout (1931)は、もし随伴現象主義(より親近感のある用語としては‘conscious automaton’ theory意識的オートマトン理論)が真であるなら、それはその構成およびその性質は当然として、いかなる個人的経験はなかく、かつ嘗てなかったゆえに、それがそれと同じものであるであろうということ、それはまったくに信に耐えるものという論に展開したのである。

人間の体は依然として行動をとおして、そして橋をつかい、電話と電報をつかい、本を書いたり読んだりするし、議会で弁じるし、物質主義について論陣を張る、その他を行うのである。

これがコモンセンスへの信じがたい prima facie である(138f.)ことになんら疑いをはさむものはない。

Stoutがここで記述しそして信じがたいprima facieを見出したがそれは全体がzombie world:ゾンビ世界である:それらの物理的プロセスはcausation因果性で閉じていて(かれは攻撃をし続けている随伴現象者のようにである)、そしてそれらはactual world,実際世界を全きに複写したものであるが、しかしそこにはなんらconscious experiences意識経験が存在しない。 

同様の観念は1970s年代での物理主義の論議でのながれともなっている。

psychophysical identity theory心理物理的同定理論でのひきあう相手としては‘imitation man’,模造人間がある、かれの「脳状態はまさしく物理‐科学的特性におけるわれわれと並行している」がかれは痛み感じないし、また色彩をみない(Campbell 1970)。   

ゾンビは一般的に物理主義でのひきあう相手であり、そして論議はそれがpossible可能であるというintuition洞察性を支持するよう練られたものになっている(Kirk 1974a, 1974b:

かれは物理主義がひとをして‘Entailment Thesis’「縁故命題」に関わらせることになる、これによってその世界についての純粋なphysical truths物理的真はlogical論理的もしくはconceptual概念的必要性によってmental truthsこころの真とつながせるのである)

他のシステムでは通常の人間のように振る舞いまたは機能的に人間に似せて目の前に表すのであるが、しかしわれわれが所有している‘qualia’クオリアは欠落しているBlock 1980a, 1980b, 1981; Shoemaker 1975, 1981)。

(項目 qualiaをみよ。大雑把に言えばqualiaは特性であり、それによって、われわれの経験をそれが何に似ているかに基づいて分類分けする;たとえばそれは炒ったコーヒー豆の香りと似ているといったものである。

物理主義者でさえこの表現を一貫して使う、二元論者とは異なり、彼らはqualiaを物理的なものと受け止めている)

 

物理主義者に抗したゾンビ観念のもっとも系統的使用はDavid Chalmers (1996)によってなされている、彼のこの論争への貢献はおよそ以下である。

ゾンビは物理主義での対抗馬であるというなら、それはかれらゾンビが通常人間とおなじように振る舞い、そして機能的であるというには不十分である;多くの物理主義者はわれわれ自身の単なるふるまいや機能的なduplicates複写にはqualiaが欠落していることを受け入れているからである。

ゾンビは物理的意味すべてにおいて通常の人間のようでなくてはならない、そしてかれらは物理主義者が想定する我々所有する物理的特性を持たなくてはならない。(認識論上の異なるゾンビ種をつかうためにはLyons2009を見よ;興味ある他の種としては物理主義者を危機に貶めないようにすべきであり、それにはOlson 2018をみよ)

このことはゾンビが物理的なものの因果性で閉じているという課題意識を彼らに要求しているのである、これは物理主義へのひとつの挑戦でもある、なぜなら彼らはその因果性に意識の欠如を想定しているからである。

そのかわり、彼らはその行動が物理的に説明されえない被創造物として認知されるべきであるとするなら、物理主義者はその観念をもってそれを妨げる理由をなんら持たないのである;われわれの動機は、これをepiphenomenalists随伴現象主義者が保持するのであるが、物理的術語においても実際上、説明的できるたくさんの証拠がある。(see e.g. Papineau 2002).

通常の仮定として、われわれはだれもが実際上、ゾンビではないこと、そしてゾンビはわれわれの世界には存在できないとする。

中心的設問ではしかしながら、ゾンビがこの世界において存在できるかではない、しかしゾンビすべての世界がしかるべき広域的意味で可能であるかである(それはときどき、仕事をするのにより適正なる観念となるのである)。

 

  1. Zombies and physicalism ゾンビと物理主義

Saul Kripke’sのmetaphor類推が、ゾンビ観念が物理主義を如何にして脅かすかを証明する助けになった(Kripke 1972/80, 153f.)。

God神がこの世界を創造しそして物理的宇宙全体を存在にもちこんだことを想像してみよう。

この純粋に物理的宇宙を創造したあとに、彼はconsciousness意識のためにさらになにかの仕事をしなければならなかったであろうか。

この答えがYesであることは純粋に物理的事実だけが提供するよりも多くをものが意識に提供されたことを意味している。

もしなにもないというなら、それは、意識は最小限非物理的特性に依存していることを意味し、それは純粋に物理的世界では存在しえないものであり;それがゾンビ世界ということになろう。

物理主義者は一方、この質問の答えとしてNoに与する。

かれらはつぎのように言うことになろう;純粋に物理的事実を確定することによって、God神はその有機体についてのこころの事実を確定する必要があるすべてを行う。それはその有機体によって生まれるもの、それからのthoughts, feelings, emotions, and experiences.

思考、感覚、感情、そして経験を含むのである。

そして物理的事実を確定することがそれだけでこころの事実を確定するに十分ということであり、したがってそれはゾンビ世界が不可能であるように見えてくる。

しかしながら、物理主義がゾンビの不可能性とつながっていることに合意していないひとたちがある。

そのひとつとして、物理主義者は純粋にすべての物理的展望においてわれわれの世界のまったくの複製であるような世界が可能であるということを認めていること、しかしここでの物理的特性はわれわれの世界での意識を起こすが、その特性がまた意識をブロックする非物理的な項目によってそれを為さしめないということを認めている。

それが物理主義者をしてゾンビ世界の可能性をゆるす結果となっている。

 

そのような‘blockers’阻止者についてはHawthorne 2002b; Chalmers 2010, 163–165をみよ)

このアプローチは、しかしながら、あきらかに意識状態が物理的もしくは機能的状態によって同定もしくは構成されたものであるというにはつじつまがあわなくっている。

そこで物理主義者は矛盾なく意識ブロック者の可能性をゆるすことは自明ではなくなる。

如何様であれ、どのような非可能性がここでは適正であるだろうか。

物理主義者がまさに言うことのできないのはゾンビが自然則によって違反しているということである、なぜなら二元論者でさえ、その意味でゾンビは不可能でることを認めているからである;それらは我々についての物理的事実はそれらと一緒に意識を持ち来たらすことをnomological necessity論理上の必要性によっている。

さて、沢山の哲学者(おおくはゾンビ観念に影響をうけている)がphysical facts物理的事実からのconsciousness意識への結合性は広い意味でさえlogical論理的ではないと信じている。

そしてたしかにphysics物理学のconceptual scheme認知的(概念的)仕組みはthe physical物理的なものからthe experiential or経験的ものもしくはphenomenal現象的なものへとlogical links論理リンクを可能にするようにはみえない。

しかしながら、ゾンビが実際にconceivable認知可能でないにもかかわらず、ある者は論議する(Kirk 2005, 2008, 2013; Tye 2006)またKirk (2013)もまたつぎの態度をたもつ;

あるゾンビはphysical facts物理的事実が先見的なconscious experience意識的経験について真となるように尾を引いていないにもかかわらず、それがlogical necessity論理的必要性によって尾をひいている場合がある。

依然として、沢山の物理主義者は何がzombiesゾンビのimpossibility不可能性かを保証するのは‘metaphysical’形而上学的必要性からのものであると主張する。 

典型的にかれらはphenomenal consciousness現象的意識状態はphysical states,物理的状態であると同定すること、そしてこれらの同定性はKripke(see e.g. McLaughlin 2005, and for criticism, Stoljar 2000)がいうように事後的に必要となるとしている。 

 

 

しかし、possibility可能性と necessity必要性の語彙の定義はslippery定まっていない。 

たとえばlogical論理的とmetaphysical形而上学的なpossibility可能性が異なるかどうかについてのdisagreement不一致の例はある(see supervenience, Section 3.1);  Kripke (1972/80)がlogical論理的とmetaphysical possibility形而上学的可能性について書くとき、彼はこれらの語が相互交換であるように使用するようである(Yablo 1999: 457n.)そして‘logical’「論理的な」の使用では、他のひとは‘conceptual’「認知的」を好む(Chalmers 1999: 477); つぎの場合とも比較せよ( Latham 2000, 72f.)  

 

おおくのひとが考えることは、もしphysical facts物理的事実がmetaphysical necessity形而上学的必要性によりconsciousness意識性につながるなら、そこには物理主義者はつぎの態度を保持する、すなわちゾンビがmetaphysically impossible形而上学的不可能としても、それらはconceivable認知可能であるものとして依然につながりがあるとするのである。(Balog 2012; Loar 1990/97; McLaughlin 2005; Sections 5.1, 5.2 below) 

一方、Chalmersはconceivability認知性の実際でmetaphysical possibility形而上学的可能性へのつながりが、もしかれが正しければ、人気ある物理主義ブランドは輝きを失うということになる。  

‘conceivability argument’認知(概念性)性論争とよばれるものはゾンビの可能性に向かうものであるが、ゾンビ観念によって起こされる主なる設問は論議するためのひとつの焦点を提供することになる。 

 

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
«  朝日記240219 その1 Zomb... | トップ | 朝日記240219 その3 Zombie... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

研究論説」カテゴリの最新記事