朝日記160125 講演「世界を動かす人たち(リアリスト)の常識」(伊藤 貫氏)の感想と今日の絵
みなさん、こんばんは。 全国的な雪、特に鹿児島が110年ぶりの大雪の報。日露戦争の時以来ということでしょうか。関東平野は晴れましたが、風が強かったですね。
徒然こと
敬愛する関口益照さんからアメリカで活躍する政治哲学の学識者である伊藤 貢氏の講義が紹介され、夢中で聴講いたしました。
https://www.youtube.com/watch?v=FQewdHSOW-0&feature=share
以下は感想です。
「国際政治学の主流派と米対日基本政策と今後の世界」と題するもので、いわば「世界を動かす人たち(リアリスト)の常識」を取り上げています。これは「立ちあがれ日本」の定例講演会の録画なので、講演日がわからないが、もしかしたら安部政権の前かもしれない。講義の中心は、アメリカは1890年以降 英国に代わって世界覇権をとる戦略を展開してきたこと。 そのために対抗馬を徹底的に仮想敵国として叩いておくことであったこと。 そして一極覇権になったが、2015から2020あたりで世界は多極化するか、そのなかで日本はどうなるのかということを論じたものです。日本は核兵器保有か、ハンチントンのいうように中国の属国化か。アメリカの国際政治の主流にあるというリアリスト派たちの目を通した伊藤氏の見方も紹介されます。リアリストの学者を何人か紹介しているが、わたくしが、関心を持ったのは ケネス・ウォルツとハーバートのファーガソン教授です。前者は論文が最も引用されている人で、多極化を予言しているという。このひとの洞察が徹底している分だけ一般に知られていない。奥深いがわかり難いカントを引き合いにだしてその存在を紹介している。後者ファーガソン教授は、アメリカ自らが「アメリカ帝国」であることを明言するべきことを主張します。 私はこれが一番説得力のあるとおもいました。アメリカ人のモラル性のなかで彼らがもっとも大事にしているのはhonestであると理解しています。 honestでありさえすれば consistencyは確保でき rationality、つまり理性が支配することになります。 これを第二次大戦を世界最終戦争であった共通認識に立ちかえり、戦後世界を成立させる世界構造としてのrationalityとして「アメリカ帝国」の定義するものであるとおもいます。グロチウスもみとめるように、国際法の基盤に強国のヘゲモニーが必要であるとすれば、すでに勝負があったのであるからそのヘゲモニーに従い、またその維持のための秩序が必要です。その意味でドイツや日本は、アメリカの対抗国としてではなく、永続的にこれを支えることが基本戦略としなければなりません。、また、その大義名分としての理論が必要です。たとえば、ドルの過剰発行はたしかに、無責任に見えますが、それを帝国の維持の応分の分担とみることができます。 その構造維持の中でのバランスオブパワーも有効であるか、その意味で日本の核装備は現実感がでてくるかもしれません。 一番大切なのは、根底としての現法秩序としての信頼関係を通すことであろうとおもいます。
横道にそれますが、Stanford Encyclopedia of Philosophyで、たまたま Morality道徳性を読みました。このなかでアングロ・アメリカン系では特に morality = rationalityとしているところがおもしろいです。自分と他との関係で 守るのは相互の生存確保への合理性の発揮であるとしているところです。 その点カントの超越論的な道徳律に対する現実の選択律(格律)の規範的な姿とはおもむきが異なります。 観念よりも現実重視といえます。プラグマティズムとして、現実の世界のモラリティー(道徳性)をとらえ、人間としての honestからくる相互relianceが基本とし、共存のためのソフトパワーに支えられたハードパワーの裏付けendorseが現実に意図していくという意味ですが、やはり根底のところで信ずるに足る(trustful)があって、一本心棒がとっていることが、このMoralityであるということになります。昨年の中国のAIIBへの意志決定で、ひとり日本がアメリカの傍にたったあの姿であるとおもいます。 お隣のお国のように打算のみ優先で、大国の間をうまく立ち回ろうとして、根底の信義を反故にする戦略は、軽蔑され 結果として国そのものの信用されず将来が反故に立ち至るとおもいます。(このことは、渡辺惣樹氏の「朝鮮開国と日清戦争」 草思社が参考になります)
日本の核装備という物騒な話題がでてきました。この話題は、戦後70年の日本では、まさに思考忌避の対象にありました。しかしながら、大切なのは、「厄神」として、単に好き嫌いで思考外に振り分けるのでは立ち行かないことになと思います。「価値認識」と「事実認識」という次元から怜悧に峻別し、客観テーマ対象としてとりあげ、丁寧に研究洞察が大切であるとおもいます。対象をさまざまなモデル仮説をとおして、それを比較し、事実認識として理解することです。そしてさらにそれを通じて、意味あるところを価値認識として言語概念化(つまり理論化)し、欲を言えば、制度的な提言へと国民レベルで探求(研究)していくしていく姿勢が意味をもちます。ひろく公論に決すべしであります。この姿勢をInstitutiveと言っています。 蛇足ですが好き嫌いの次元で放置するとある日、厳しい現実を目の前にすることになり、全体が情動的にうごくもっとも危険な事態を招くことになります。
大変有意義な講義を聞かせていただきました。関口さん、ありがとう。
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