Yassie Araiのメッセージ

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朝日記23091 1徒然こと「丸い四角は、まるいか」

2023-09-11 05:51:51 | 研究論説

朝日記230911 徒然こと「丸い四角は、まるいか」

(総合知学会誌 2021年度)

===研究課題元にかえる;

朝日記230910 寄りそう倫理や社会道徳観などと今日の絵

====

【コミュニケーション】

徒然こと「丸い四角は、まるいか」 

                 ( 総合知学会誌 2021年度発表稿)


総合知学会会員 荒井康全 
2023/2/12 
 
敬愛する友人との交信 
ご講演レジュメ「原発―廃炉と集団の責任」iへのコメントのご依頼の件として 
 
 小生、この十年来、総合知学会誌に継続課題として投稿し、今回はつぎの副題のものと
して投稿課題に至りました(総合知学会誌 2020); 
研究課題「システム思考における目的論構造と社会倫理」XI 
~アレキシウス・マイノングと「非存在性対象」を考える意味と効用について~ 
 なぜ、ここに取りついたかという自問をおもうに瞬間、 ‘自分はいまどこに?’ の戸
惑いを感じますが、もともと、思考道筋自体をしっかりしたレジメを設けてスタートする
ことは、私の場合まずありませんでした。その都度の書きものについては、その思考の一
部をまとめることになりますから、その構造や思考のながれは、一応は明示することにな
ります。 
 目下そのまとめの最中で、苦闘している最中です。もともと貴レジュメに感想を書くな
どの精神的な余裕もあらばこそ,と申したいところですが、拝読しているうちに、実によき
タイミングで当方の思考へのまとめのための切り口をいただいていることを感じ取り、う
まくいくかどうか、貴兄から合格点をいただけるかどうか、おぼつきませんが、コメント
になんらかにつながる項目だしをすることにしました。小生の投稿課題の作業の一環とし
てのものでもありますので、章節の記述の比重が当方の都合に傾いて’disposing’している
ことをおゆるしください。 
貴兄から投げかけられた以下の keywords を意識して、思いのままを綴ってみます; 
*NIMBY 問題 
*集団の責任 
*国民の自覚 国民的の良識と道徳観 倫理的価値判断>技術的、経済的価値判断 
*復興 resilient な責任感 
*確立と実行 官産学 強固な連帯責任体制 
 
 
題して、徒然こと 「丸い四角は、まるいか」です。 
目次 
communications 
204 
徒然こと 「丸い四角は、まるいか」 
 
徒然こと1 「丸い四角は、まるいか」、マイノングの対象の哲学について 
徒然こと2 Disposition について 
 「言説の晒し」(Disposition of discourse)ということ 
徒然こと3 「J.ガウアンロック著公開討議と社会的知性」から、 
 朝日記 210505 Amazon 書評投稿 
徒然こと4 レジリエンスについて、 
2020 年の大学入試センター試験国語問題 河野哲也『境界の現象学』による 
(読売新聞朝刊 2020 年 1 月 19 日) 
徒然こと5 責任の取り方について 
ヤスパースの「責罪論」を読み終えて 
~ひとまずの結び~ 
 
=======本文 === 
 
徒然こと 「丸い四角は、まるいか」 
徒然こと1 「丸い四角は、まるいか」、マイノングの対象の哲学について 
心理学からはじまった「対象の理論」 
墺太利の哲学者アレキシウス・マイノング(Alexius Meinong、b.1853, 1920d.)は 記述
心理学の研究から認識論哲学に至り、ごく一般人レベルのメンタル(こころ)の状態とそ
の意識のもつ意味からの志向活動を「対象」として、とりあげ、今日のシステム論よりも
早い時期に「対象の理論」を著わし、実験的な記述心理学や科学的な実践システム論への
応用をよびかけたひとです。 
近代西洋哲学の歴史として、デカルトにはじまる自分(主体)が考える行動とその結果
としての自分(主体)の存在の証拠(evidence for certainty)とすることの合意がありま
す。 
それはそれとして、認めたうえで、自分が考えたなにか(something)は、存在するのかとい
う問いに対しては、存在のたしかなもの(certainty)に意識と思考は向かうという暗黙の了
解がありました。彼は、彼の師ブレンターノ教授(Franz Brentano. Graz 大学)のもと、
英国経験主義の哲学ヒューム(David Hume, b.1771,1776d.)のながれを取り、経験したもの
はたしかに存在することを実験的に研究します。その意味では、心理学を自然科学と位置
付けます。 
 
こころの志向の意味を対象とすること 
205 
その後まもなく、マイノングは、上述のこころ mental な内容とその意味するものとして
「対象」object の概念を導入します。かれは、考える「こころ」の中身を意味し記述する
ものとしそれを(Evidence for Presumption)「対象」として位置付けます。これにより結果
的に、実際に存在するかどうかわからないが、こころ mental があるとおもっているもの
(so-being object)として「対象」の存在をみとめることにしました。 
 
「シャーロックホームズは、イングランドにうまれ、・・・」 
その典型例としては、「シャーロックホームズは、イングランドにうまれ、ロンドンのベ
ーカー街に住んでいた」、「ペガサスはいた」、「第二種の永久機関は存在する」などです。
(前 2 者と後の 3 番目とは意味が違いますが) 
「シャーロックホームズ」を例にとれば、ひとは、リアルな存在はみとめなくてもその物
語にでてくる存在に意味のリアリティーを共感します; 「語られるものは意味をもつ」
つまり非実在の対象の存在を認めることになります。 これは集合論的な数学の対象にな
り、バートランド・ラッセル(Bertrand Arther WilliamRussel, b.1872,1970d)は、彼の
「記述理論」の適用において、論理演算の過程で非実在の対象があらわれ、結論で消失す
る対象の存在としてみとめ、マイノングのそれは、単なる中間媒介の対象として、世界に
紹介します。 
 
ある固有の者(モノ)が存在しないという文章からくる問題 
Negative Singular Existence Statement 
これには、集合論の数学者フレーゲ(Fiedrich Ludrig Frege, b.1848,1922d.)も数学論理と
して展開します。 
「ペガサスは存在しない」という問題、Negative Singular Existence Statement 固有名辞の
否定的存在性の表明として記述論理数学展開をします。簡単に説明すると以下です; 
1.書かれた文章には真であることができる。 
2.その文章を構成する部分には意味がある。 
3.その部分のなかの固有名辞(名詞)に意味があるなら、それはなにか something を意
味している。 
4.もし、ペガサスがそれなら、「ペガサスは存在しない」というのは誤りである。 
 
しかし、だからといって、「ペガサスが ”存在する“」と確定することはできない。なぜな
ら、「ペガサス」と「存在」とは関係ないという領域も含むからである。 
 
So being と Being 
結局、”存在する“と言っている;So being である「ペガサス」が存在するか;Being かと
はかかわりなく文章「ペガサスは存在しない」が、意味すること、つまり文章としての
206 
「対象」が存在するということになる。 
 
「非存在性対象」Non Existent Object 
マイノングは、非存在的な固有名辞(objecta)を使って、つまり今様にいえば「キャラク
ター化」して、文章(言語的表現)の意味の「対象化」をしたのであった。 
「丸い四角は、存在する」 
 “たまごの四角に、女郎のまこと あれば晦日に月が出る” わが母がその昔、舞った⾧
唄舞「吉原雀」の名文句である。 
ひとのこころ(mental)の志向(intension)活動として、「丸い四角」は、その名辞自体に、
論理矛盾原理や存在/非存在の中間を排する排中律原理にまともに障る対象がでてくる。
しかし、マイノングは、このこころの志向表現をうけた「対象」をあえてみとめた。これ
を「非存在性対象」Non Existent Object の存在としたのであった。 
 
対象の二つの解釈の併存 
マイノングは、実在の否定について、通常ひとが目にする二つの解釈の併存をみとめた;
ひとつは、narrower, internal, or ontological(; 狭義、内的、述語的、存在論的な否定)で、
もうひとつは、対して、 wider. external, logical negation(広義、外的、文章、論理的な
否定)。 これに対して、二つの排中律の版をみとめることになるが、彼は、後者の文章
否定のみ、それを受け入れ、述語的 So being については、排中律の適用をみとめず、
Suspension(宙づり)にしたのであった。 
 
マイノング vs. ラッセル 論争 
二重存在性についてのラッセルによる指摘は以下である;(1) ないものがあるとすること
は、ひとの自然な理解に違和感がある。(2) ないものをあるかのように扱うことによって、
ひとにひとの判断を過たせることになる。 ラッセルは、「語られるものは意味あり、か
つ実在する」とし、マイノングの非存在性対象とおぼしき対象記号はラッセルの記述理論
のなかで見かけ上あらわれるが、最終的に消去されるとして、あえて対象としての存在の
意味に疑問をなげかけたのであった。 
一方、マイノングは、内的な領域の存在領域のもつ積極的な意味 meaning と参照先
reference を主張し、ひとのこころ mental のフィルターを経過して、結果的に外的な領域
の存在性にも帰着的(consequent)の存在化(existent)に影響してくるとした。 
ラッセルは、ひとの意識を経由してくる「対象」については、承認せず、この論争の終結
を宣言した。 
 
その論争後の大陸哲学界 
 マイノングの理論が幼稚なのか、ラッセルの指摘が幼稚なのか、その後、大陸側の哲学
207 
者では、論争が続いたが、残ったのは、マイノングの哲学には、人間や社会を考えるうえ
での果実の大きさが期待され、捨て去るには惜しい哲学として現在に至っている。 
 
Value Objectivism マイノングの理論―価値の共有化に関する、 
1.初期;Value Subjectivsm 価値の主観・主体主義 
 
 マイノングは、価値がモノ固有の属性であるとは考えなかった。 
価値は、Value experience 個人の経験から決まるあくまでもその個人の主観に属し、これ
が Value attitude 個人の態度として現れるして、かれの初期の理論は Value Subjective なも
のであると考えた。価値形成に心理的な主観・主観の役割りに中心をおいた。 
 
 また、彼は、価値を経済的な価値に限定せず、「価値一般、そしてその価値以上に他の
場へ、たとえば、倫理学および芸術的美学へと価値一般理論の適用を試みたのであった」
(原文 7節)20
 
 この価値態度は State of Affairs と先見感への感情的応答であり、したがって intended 
objects についての Judgement 判断であり representation (idea)表象(理念)であり、これ
は”psychological presupposition”心理学的先入観とよばれているものである。感情の対象は
それらの判断性と理念によって。the mind こころ以前に設定されているとするのである。 
この段階での彼の価値感覚はその感覚を所有する主体のもので、absolute 絶対的な、
impersonal 非人称的な価値は存在しえないとしたのであった。 
それにもかかわらず、彼はすでにある種の non-subjective 非主観的、称して intersubjective 
間主観的および dispositional(晒し、配備的な)条件を価値の定義に含ませていたので
あった。 
2.後期;Value Objectivism 価値の目的対象(客観・客体)主義と Disposition 概念によ
る 
価値判断は、単に assemblage of value-feeling 価値感覚の集合体として特性化されないと考
えたのであった。価値判断は、なにかあるものが価値を持つ、持たないという判断であり、
これは実際の value feeling 価値感覚をはるかに超えるものであり、したがってその真の価
値について決定は第一義的に cognition 判断認知の案件でなければならないのである。 
適正な circumstance のもとで、正常な disposition をともなった適正な oriented された
subject によっておこされる subject 主観によっておこされる judgement の表現としたので
ある。 
価値はつねに personal 属人的価値もしくは interpersonal 間属人的価値であり、個人に対し
20 価値に関する経済に限定しない基本的な姿勢は、大陸特有でもあるとみている。筆者の
記憶であるが、Karl Polani の論説にもそれをみることができる。 
208 
てもしくは個人の集合体に対してである。 
道徳的価値を論ずる場合に、マイノングは、それらを個人の主体・主観にはおかず、集合
的な主体・主観 Value Objectivism に付している。 
彼の理論では、価値は disposition の上に蓄積され、変化をし、評価されそのときどきでの
判断の基盤と説明性を確保するとし、あらためて disposition の意味が焦点化されることに
なった。 
 
 
徒然こと2 Disposition について 
 「言説の晒し」(Disposition of discourse)ということ 
 米国の哲学者 J.ガウアンロックの公開討議と社会的知性についてのこの言説をご紹
介した21: 
 国論を二分するような主張があって、感情的な対立がそのまま、膠着状態にあるときに、
それから、やがては抜け出すための、なお理性的であり、かつ建設的な合意形成に至るた
めの知恵を見出すことが、世界で模索されています。 
私は、社会学者ではないので、仔細には誤りがあるかもしれませんが以下、それを含み置
きとしてお読みください。 
ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill,b.1806,1873d.)が、「社会的知性」というか
れの概念のなかで、人間の思考には誤謬を含むということと人間は弱い存在であるという
ことを前提に、社会として論議を尽くし、合意結論に至る方法を論じています。社会での
その主体は世論であること。しかし、世論は往々にて暴言、暴走をし、思わぬ方向に社会
を向かわしめてしまうこと。ときに、その社会の知性が本来的に意味ある知恵として取り
込まれた結果になっているのか怪しくなっているような状態に陥ちてしまう。 岡目から
からみれば、その過ちが顕わなのに、何の有効的手段も見いだせず、ひたすら力学的な進
行過程に陥落してしまう。彼はその著「自由論」のなかで危惧を憂慮します。 
彼の時代(19世紀末)に政治権力の中心は、すでに議会や政府などにあるのではなく、
新聞などメディアを核とした世論側にあることを彼は認識しておりました。その前提のも
とで、彼はあえて「公開討論」による課題合意形成の自由論を論じたのでした。 
ミルの社会論は、その後、デューイなど米国のプラグマティズムのながれのなかで、ノー
ジックや A. セン そしてここで取り上げる J.ガウアンロックに引き引き継がれます。22
ここでは、大陸の伝統である歴史主義とは異なり、該問題対象に向かっての科学的専門分
21 2017 年 12 月 19 日の朝日記 
朝日記 171218 Amazon 書評投稿「J.ガウアンロック著公開討議と社会的知性」と今日の絵 
https://blog.goo.ne.jp/gooararai/e/71d2d36aee8548d6f003a7b8f1f2250d
22 Instrumental and Value Rationality, Wikipedia, 2922/10/06 a 
209 
野から、動的な課題取り組み(Consequentialism)が主流であるとおもいます。 
彼 J.ガウアンロックの考え方は、異なる主張の選択結論の社会的決着のためには、急がず
に、それを開示して、時間を取ること、これを「晒し」(Disposition)として提言します。 
熱しやすく冷めやすくて、忘れやすい我らの民族性からいうと問題放棄、思考放棄になる
危険性がありますが、原語の Disposition の意には、軍隊教練や配備のような、いついかな
る時も対応しうる現実感覚のもとにおくことに、社会の意識共有の求心を求められるもの
としての概念です。 
たとえば、「不正選挙」が、一方では あり得ないとし、他でではあったと主張する問題
で、いまもアメリカ国論は二分しています。 裁判制度は法的な有効性の観点からの判断
であり、形式的にはこれで 決着がついたことになります。しかし、双方の心情は、根底
で納得していない状態であるとおもいます。未来に向かって相互亀裂は深まります。 
 これを(「不正選挙」はなかった)ではなく、((「不正選挙」はあった)「非存在性オブ
ジェクト」としてとりあげるとしたらどうなるであろうか。つまり科学的検証対象とする。
対 象 化 し て 社 会 全 体 が そ れ に 対 し て 臨 床 知 的 な 取 り 組 む こ と 、 つ ま り 「 晒 し 」
(disposition)の共有化としたらどうかという提案です。これが彼 J.ガウアンロック John 
Gouinlock の提案となると思います。 ミルのいう、デューイのいう建設的な社会知性へ
の道筋の延⾧として見ようとするものです。 
話は変わりますが、希代の経営学者 P.F. ドラッガーが死してひさしく、すでに世人の
脳裏からは遠くなっています。私議で恐縮ですが、この連休を身の回りの資料の整理をこ
ころして、時間をとり、健気に“終活”の整理をしていています。その最中にドラッガーの
著「ネクスト・リーダー」が目に入り、本屋の立ち読みなんだとこの場をきめこみ、手に
取りました。彼はその著の終わりで日本のネクストを論じていました。おもしろいのは、
日本は戦後の経済危機を問題の解決を「末置きして」、幸運にも、みずからへの好結果へ
と維持し、発展してきたが、そういう遣り方もあるのだと好意的評価をします。かれのこ
の筆は二十世紀末の例の世界金融危機のころで、日本がこれをうまく乗り切れるかどうか
を、危惧をしています。 
さて、これまでの歴史的経過のなかで、これを日本での「晒し」であったと簡単に、楽観
的に決め込んででしまう、問題の本質を過去のものとして見過ごすか、忘れてしまうか、
そういう意識の逃げを自分はもとよりわれら日本のなかに、ふと見る想いをしたのでした。
それであえてここにメモしました。 
そういえば、憲法審議は、これまで共有の場での思考放棄で、与党・野党とも然ることな
がら、メディアが気取る社会世論でも完全空白状態であったことを認めざるを得ないので
はないかとおもいます。上の「非存在オブジェクト」つまり、存在しないものを存在する
と仮定してテーブルにのせてみる。そういう「晒し」(disposition)としての共有を、わが
国民喫緊の課題として、その巨大な「晒し」体浮上に現実感覚をもって、受け入れること
を願うものであります。 「賢い日本よ、ふたたび」としておきます。 
210 
 
 
 
 
~~~~~ 
徒 然 こ と 3 「 J. ガ ウ ア ン ロ ッ ク 著 公 開 討 議 と 社 会 的 知 性 」 か ら 、 朝 日 記
210505 Amazon 書評投稿 
 ガウアンロックというアメリカの社会哲学者の書評です。 Amazon Bookreview に投
稿掲載されたものです。 
~~~~~ 
掲載された書評 
きょうは社会的知性ということに触れます。 ガウアンロック著 公開討議と社会的知性 
の ブ ッ ク レ ビ ュ ー と し て 23
 
24
 
このひとの名前は、たまたまネットで morality と rationality についてしらべていたとき
に 知 っ た 。( 記 事 名 は ’ Instrumental ratinality and Value rationality ’ で あ っ た ) 
 J.ガウアンロックは、手段的(もしくは道具的)合理性(Instrumental ratinality )の理
論の指導的哲学者であるという。かれの理論は社会道徳性の考えにつよいつながりを持っ
ている。 かれは、人びとは各自の徳の意識に沿って行動する合理性を発現すべきである
という。特に、かれは、人びとが問題案件への最終的にして非争論的な決着のレベル以前
に議論をとどめ置く状態で、己の行動を律するの道義的な弁術を開始することを提唱する。 
考えてみれば、これまで、科学や技術からの問いかけからの受け入れについては、しばし
ば「概念の’晒し’(concept disposition)」が行われてきた。これと同様に、社会的案件につ
いてもある期間、その合理的な結論を醸成させるために’晒されるべきであると説く。しか
し、これを成立させるためには、最終的にして決裂のレベルまでに至らぬ抑制が条件であ
る と す る 。 こ の 考 え の な が れ は 、 現 在 ア ン グ ロ ・ ア メ リ カ ン 系 の 主 流 で あ る
Instrumental Rationality(手段的もしくは道具的合理性哲学 ) と呼ばれている哲学のもの
23 J.ガウアンロック著(小泉 仰監訳) 公開討議と社会的知性 ミルとデューイ(御茶
ノ水書房) 
John Gouinlock; Excellence in Public Discourse ~John Stuart Smith,Jaon Dewey,and Scial 
Intelligence. 1986 
24 朝日記 171218 Amazon 書評投稿「J.ガウアンロック著公開討議と社会的知性」と今日の
絵 
https://blog.goo.ne.jp/gooararai/e/e257c6a3ebf77219f0b694caf0be14a0 
211 
である。 J.ロールズ、R. ノジック、J.ガウアンロック、A.セン等25によって代表されて
いる。 
この本の構成概要は以下である; 
第一章 序論 
第二章 ミルー社会的所産としての知識と道徳的評価 
第三章 古典的自由主義の欠陥 
第四章 ミルの教育哲学 
第五章 社会的知性 
第六章 ミルとデューイの挑戦 
(本著の意味するもの); 
 社会道徳(morality)が、時代的な中心命題となって久しい。とくに、19世紀の英国で、
成熟した民主主義にあって、権力の中心が政府や権威機関にあるのではなく、それが実は
与 論 で あ り 、 メ デ ィ ア で 代 表 さ れ る と い う こ と を 彼 ら は 気 づ い て い る 。 
 Joh Sturt Mill(ミル)は、その「自由論」で、社会的な合意形成とその道徳について、
その社会のコミュニケーションによって柔軟に形成されることを洞察して、そこから形成
さ れ る 知 性 の あ る べ き こ と と 、 そ の 基 礎 的 仕 組 み と を 提 唱 し て い る 。 
 この流れは、米国のプラグマティズムのデューイの哲学に継がれ発展していくが、そ
れをこの著ではわかりやすく解説している。この著の中心は、なんといっても第五章の社
会的知性であろう。 
 「社会的知性」は、成熟した民主主義社会と、価値多様化への社会的合意についての知
性(功利、権利と義務、徳と悪徳)を意味している。 
著者は述べる;社会的合意について、 事態の解決に先が見えないときは、無理せずに
disposition(寝かすとか晒す)という概念を提唱する。 ある状況に遭遇したとき、人びと
はコミュニケーションによって意見の相違について学習し、理解し、変化し、成⾧すると
いうことを説く。 
 公開討論などはその一つの例であるが、ここでの野蛮さ、低劣さについても承知の上で、
ここでのレベルを如何に引きあげうるか、リーゾナブルな方向へ収束しうることは可能で
あるのかを論じる。著者は、ミルやデューイのこれまでの思想的な流れを評価し、成熟し
た 民 主 主 義 の 社 会 で 、 そ の よ う な 知 性 ( 社 会 的 知 性 ) が 育 ち う る か を 述 べ る 。 
(レヴューアとしての所感として) 
 個人的な経験であるが、英国人の知人たちが、彼らがひとが集まったときに議論の方
向について、しばしば優れたリーダーシップの発揮していた状況にふと思い起こす。 こ
れは 英語 の世 界だ からだと 単純 に着せ られない 高い 素養を 感じ たもので あっ た。 
そういう社会的素養の教育(学校教育も)についてもこの著を通じて、あらためて思いを
25 Instrumental and value rationality;Wikipedia A (2022 検索 
212 
致す。直接的に表現として使ったかどうかは別に、’If I were you ...' つまり、もしも私が
あ な た の 状 況 に あ っ た ら 、 と い う 道 徳 観 morality で あ ろ う 。 
 人間は、基本的に誤るものであり、弱い存在であるというミルの哲学であり、自分が考
えたからということを以ってそれに固執するのではなく、意見が異なる状況でも、それを
相手の立場に自分を置いて考え、ますは肯定的に議論する。その過程で、相手を蔑んだり、
罵倒するような感情暴発に至らないそういう社会的文化のありかたとして理解した。 筆
者の畏友のひとりが以前に、個人の社会生活が孤立した「無縁社会」と表現した現今の都
市生活社会で、これをどう考えていくか、ネットでの交流がこのような「社会的知性」を
育て得るか、等々そういう思いをこの著により、考えることに強く啓発を受けたといえる。 
この本は、原著は 1986 年の出版であるが、和訳への監訳者の小泉 仰氏は、1988 年ケン
ブリッジ大学にて、原著をみつけ、強い共感を覚え、同門の有志たちと翻訳に取り組んだ
たことを記している。翻訳出版が 1994 年である。 ネット社会が急速に展開を開始した
ころの出版ではあった。 
社会的情報交流(コミュニケーション)は、それまでの新聞紙面、やTVなどを中心にし
たメディアから、SNN等のネットへの急激な展開の時機に入った年代の出版ではあるが
問題の本質の方向をただしくとらえているといえよう。 「公開討論」という語のもつ
時間的な意味論的な変化もあり、あゝ あれかと見がちであるが、かれが提唱する「社会
的知性」は、公開討論の卓越性のための基礎になるという意味で、時代的な本質的視点を
もち、なお新鮮である。 
~~~ 
 
徒然こと4 レジリエンスについて、 
2020 年の大学入試センター試験国語問題から 
河野哲也『境界の現象学』による(読売新聞朝刊 2020 年 1 月 19 日) 
問題は、近年さまざまな分野で応用されるようになったレジリエンスという概念をとりあ
げ、その現代的意義を考えさせるものであった。 
まず、冒頭に環境システムの専門家であるウォーカーの比喩を紹介しているので、話をす
すめるために以下に置く; 
「あなたは 港に停泊しているヨットのなかでコップ一杯の水を運んでいるとしよう。そ
して、同じことを荒れた海を航海しているときに行ったとしよう。港に停泊しているとき
にコップの水を運ぶのは簡単である。この場合はできるだけ早く、しかし早すぎないよう
に運べばよいのであって、その最適解は求めやすい。しかし、波風が激しい大洋を航海し
ているときには、早く運べるかどうかなど二の次で、不意に大きく揺れる床の上で転ばな
いでいることの方が重要になる。あなたは、膝を緩め、突然やってくる船の揺れを吸収し、
バランスをとらねばならない。海の上では防災要因を吸収する能力を向上させることをあ
なたに求める。すなわち、波に対するあなたのレジリエンスを向上させることを求めるの
213 
である。 
そして、レジリエンス resilience の定義を、擾乱を吸収し、基本的な機能と構造を保持し続
けるシステムの能力として括る。 
まず、システムとしてその能力としてふたつがあげられる。ひとつは目的に対して最適解
への能力、もうひとつがそもそもシステムとしての基本的能力を保持制御するかであり、
レジリエンスは、後者の課題として論者の焦点を設定し、その概念をさらに詳しく論じて
いく。 
まず、この概念の出生は、物性科学にあって物質が元の状態戻る「弾性」のことを意味す
ると語る。 
(時間的に変化する外力つまり、擾乱からの熱力学平衡状態へ収れん性問題ともいえる。
考える現象の平衡点の探索は工学的な制御問題として意味があり、現代では、不可逆状態
熱力学において、動的エントロピー流の最大生成原理として取り扱われている。(荒井)) 
この発想が 60 年代に生態学や自然保護運動の文献に用いられるようになった。そこでは、
生態系が変動と変化に対して自己を維持する過程という意味に使われた。しかし、ここで
言う「自己の維持」とは単なる物理的な弾力のことではなく、環境の変化に対して動的に
応じていく適応能力のことであるとする。 
著者は、回復力(復元力)という意味で、これと類似な概念としての、サステナビリティ
にふれる。 ここで回復とはあるベースラインや基準に戻ることを意味するが、レジリエ
ンスでは、かならずしも固定的な原型が想定されていない。絶えず変化する環境に合わせ
て流動的に自らの姿を変更しつつ、それでも目的を達成する概念である。均衡状態に到達
するための性質ではなく、発展成⾧する動的過程を促進するための性質であると言い切る。 
(不可逆性熱力学としてのアナロジーから類推すると、外力が、いま考える系のある熱力
学的平衡の保持の擾乱量の限度(閾値)を越えてしまう状態が想定される。ここでは、前
述の動的エントロピー流の生成最大原理はもはや適用されず、あらたな擾乱過程にはいる
ことを意味している。ここでは外力を取り除いてももとの状態へは、系が自律にもどる
(つまり弾性)ことはできない状態となる。この状態を非線形熱力学状態もしくは、複雑
系熱力学状態として現代物理工学の主題の領域と呼んでいる。制御という観方からみれば、
時間的な変動に対してのシステム停留もしくは目標点への制御ということになり、その意
味でレジリエンス問題である。(荒井) ) 
著者の説明は、さらに、一貫して社会科学的な領域に深掘り展開していく。 
サステナビリティそのものがたとえば環境保護において、もとの自然状態という固定点に
回帰するのではない。冒頭の航海中での荒ぶる外力に対してコップ運びのような、アナロ
ジーとしては、適度の規模にとどまっている山火事が擾乱へのレジリエンス例として意味
があることを示唆している。 
このような「適度の擾乱」という概念におよぶと必然的にレジリエンスと対になる概念と
して、ひとつは「脆弱性(vulnerability)」を、ふたつめは「冗⾧性(redundancy)」をあげて
214 
いる。 前者はちょっとしたことを感じ取るセンサー感度で、後者は、その逆で、ピリピ
リせず、意識的に間合いを取って感じ取るセンサー感度といっておくが、ここでは深入り
しない。 
「レジリエンスは、複雑なシステムが、変化する環境のなかで自己を維持するために、環
境との相互作用を連続的に変化させながら、環境と柔軟に適応していく過程のことである」
として、結ぶ。 
このあと、著者は、「ニーズ」への対応で、社会的弱者を例に、方式のお仕着せでなく、
生命自身の自律性と能動性を尊重するという付言をする。 
 
本稿の(荒井)の感想としていかにのべたい; 
(ここまでの展開として、レジリエンスとしての確たる方式はないことを暗に披露するが、
それがレジリエンスということを主張するのであろうか) 
(受験生の若い人たちはこの文章からなにを受け止めたか、正直、気の毒な感がある。 
視点としてのレジリエンスは、人生の態度として参考にはなるが、具体的な方法論的な展
開については、なんら示唆的でなく、空虚であるといえよう。空虚と答えるのが正解であ
ろうが、各問を見る気をおこさせない。) 
ただし、上記で( )での筆者のコメントを如何にまとめておきたい。 
意味ある方向として読者の意識を期待するものである。 
1.(時間的に変化する外力つまり、擾乱からの熱力学平衡状態へ収れん性問題ともいえる。
考える現象の平衡点の探索は工学的な制御問題として意味があり、現代では、不可逆状態
熱力学において、動的エントロピー流の最大生成原理として取り扱われている。(荒井)) 
2.(不可逆性熱力学としてのアナロジーから類推すると、外力が、いま考える系のある熱
力学的平衡の保持の擾乱量の限度(閾値)を越えてしまう状態が想定される。ここでは、
前述の動的エントロピー流の生成最大原理はもはや適用されず、あらたな擾乱過程にはい
ることを意味している。ここでは外力を取り除いてももとの状態へは、系が自律的にもど
る(つまり弾性)ことはできない状態となる。この状態を非線形熱力学状態もしくは、複
雑系熱力学状態として現代物理工学の主題の領域となっている。制御という観方からみれ
ば、時間的な変動に対してのシステムの安定点の制御ということになり、その意味でレジ
リエンス問題である。(荒井) ) 
3. 熱力学的平衡から遠く離れた現象は、自然環境界では、むしろ当たり前の現象であろ
う。 
文明が科学技術をもってこれを 熱力学的動的平衡限界に収めているとみることもできる。 
しかし、「航海上の突然の揺れ」のように水の入ったコップをこぼさないようにする複雑
系(非線形系)へのレジリエンスは、予測技術としても、制御技術としても人類は未達で、
挑戦中である。その意味では、現代文明はつねに未知のカオスとの闘いであることの 
意識の共有化が要請される(コロナウィルスの克服はまさに、恰好の課題である。) 
215 
4. 方法論上の糸口は、注目現象とその相関性を把握する統計解析が先行するであろ
う。 
巨大データの解析がひとつの力を与えてくれることを期待する。 つまりAI技術の積極
的活用といっておきたい。 
5. そして上述の非平衡系(複雑系)の科学技術理論の進歩を期待するものである。26
 
 
 
 徒然こと5 責任の取り方について 
ドイツの哲学者であるカール・ヤスパースの「責罪論」を読み終えて、筆者はつぎのよう
な一文を出版社のブログに投稿したので引用したい; 
 彼は、1946 年にこれを上梓しています。ドイツは暴力集団によって合法的に乗っ取ら
れた。今次大戦の戦争は、ドイツの責任であり、恭順に服することを前提に、何を、何に
たいして、如何にその責を負うかということを、この論で述べています。ニュルンベルグ
裁判は、戦勝国の価値観で裁くということに対しては、抗弁できないほどにドイツ側の非
がおおきいとして、これを受けるということにしています。責罪の概念を区分して、刑事
的、政治的、道徳的、そして形而上的の四つにわけています。ニュルベルグ裁判は刑事裁
判と位置づけられ、国際軍事裁判所の規定が国内法に優先するとします。戦勝国側だけの
裁判で、ドイツ側は陪審にも立ち会えないということの成り行きになったようです。(1)
平和に対する犯罪。(2)戦争犯罪、(3)人道に対する犯罪、(4)責任の範囲として共同
計画または謀議の立案、遂行に関与した首謀者と組織と教唆者と参加者の特定。刑事は個
人対象としますが、ナチスの責任者全員という組織の範囲としました。ドイツ人全体を刑
事対象とすることは、避けました。 ただし、政治的責罪だけをその政府の公民であった
ドイツ国民が負う。そして道徳的、および形而的責罪を、ヤスパースが哲学者として視点
からの項目として上げます。裁判のほうはあくまでも、物理的な事実追及に重みをおかれ
ました。 道徳や倫理の問題の基本の論に入ると結審の見通しが立たないことによるもの
でした。この二つについて、彼はいいます、外部、つまり他国からは、糾弾されることで
はない、いやしくも理性、自由を前提とした国の民であるなら、自らの内省的な問題とし
ます。それが、人類世界に対する義務という論理に持ち込みます。周りからは劣等民族と
して白眼視され、食の困窮のなかで、それを負うことへの論述は、痛々しくも感じるもの
であり、同時期の日本国民の負った痛々しさを思い起こします。この二つの責罪を如何に
「清める」かを、ヤスパースは述べますが、かれの頭のなかではかならずしも整理されて
26 朝日記 200229 徒然こと レジリエンスについて(2020 年の大学入試センター試験国語
問題から) 
https://blog.goo.ne.jp/gooararai/e/cd684f3250718d4af768a0210a37f00a 
216 
いるとは思えませんでした。 投げやりにならず粛々ということを書きます。主人と奴隷
の関係を持ち出し、奴隷としてあゆむ、しかしただの奴隷ではなく、高貴なる精神をもっ
た奴隷として励むという、ヘーゲルの論を上げています。思い出しましたが、ドイツ基本
法の前文で、この法の根拠が、「平和勢力のちから」にもとづくと、明言していたことで
した。 基本法では、この法に忠誠を尽くさないことは違法としています。 つまり、敗
戦ということは、戦勝国(主人)に対する、敗戦国(奴隷)の位置であることを、意味し
ています。これがいつまでつづくかは、明言しない。背負い様がないがない。自由をもっ
ているのは(主人)のみであるからということとします。ドイツの現在は、この道徳と形
而上のきわめて精神性の高い次元での内省的態度つまり恭順の態度の継承をもって、みず
からの位置を主張していることになります。(主人)の批判はしないことになります。つ
まり、ドイツがあの戦争で戦勝したらどういう世界が展開したかは、道徳的な悪として付
されることになります。旧約聖書でみるバビロン捕囚を思い起こします。わが日本もバビ
ロン捕囚です。大戦後の体制を基礎として、生きていく以外になく、そのなかで貢献して、
生きていくこと。つまり歴史的必然という(主人)が呆ける、(奴隷)が支える結果、実
質的に地位が逆転するといヘーゲルの弁証法をおもいおこすものでありました。27
 
~ひとまずの結び~ 
 我が国の原子力発電のあり方を問う!の提言研究グループを神出瑞穂さんがリーダーとな
って、総合知学会で作業したのは 2015 年でした。神出さんはこれ以降、この提案の持つ
総合知的意味と意義について、特に技術システム論視点から国の原子力行政を見守ってこ
られていることに深い敬意を抱くものであり、またその献身を称揚するものであります。 
氏とは、近代技術が社会の底流に埋没している道徳感性の正当性とその基礎について、意
見の交換をしてきました。それは特にドイツのメルケル首相の理性的判断やアメリカのオ
バマ大統領の道徳意識革命のなげかけについての世界的事態 State of Affairs についての洞
察と実践性などであったとおもいます。歴史的風雪を経た現代の道徳観の視点など共通根
源と理解は方向性のひかりとして不可欠であり、それらは堅忍不抜性がつねに事態のなか
で試されます。 合理主義、誤謬自覚主義、そして弱者支持などが現実の事態展開のなか
27 ~このようなことをアマゾンのカスタマーレビューを投稿し掲載された。 
(Amazon カスタマーレビューに投稿しています 
Amazon.co.jp:カスタマーレビュー: 戦争の責罪 (1950 年) 
https://www.amazon.co.jp/productreviews/B000JBGJDC/ref=acr_dpproductdetail_text?ie=UTF8&showViewpoints=1 
Amazon.com で、戦争の責罪 (1950 年) の役立つカスタマーレビューとレビュー評価をご
覧ください。ユーザーの皆様からの正直で公平な製品レビューをお読みください。) 
217 
で、その有効性が試される。 その有効性の保持と行動展開の方法論が求められています。
私のアイディアは貧しいですが、ひとつ注目し続けているのは Disposition(事態の晒し)
についてです。それについての私の発想と理解はいまだ幼稚 naïve ですが、少なくとも人
類が事の事態がよりクリアにみえて、事態を共有していくか、いかに飽きずに対象として
意識維持ができるかが、最大の知恵の出しどころとみます。先年、ポーランドに家族旅行
したときにひとりアウシュヴィッツを訪ねました。ヒロシマを世界のひとがたずねるのと
同じ意味になろうかとおもいました。ドイツの学童は、卒業の過程でかならずアウシュヴ
ィッツを訪ね学ぶことが必修とききました。いろいろな見方があってもいい、その事実つ
まり、Disposition をもつことの意味を実感したおもいでした。 
本稿への引用は、私のブログ「朝日記」で公開されたものから自薦で選んだものです。 
1の「非存在性対象」というのは、ひとのもつ素朴なことばのなかに本質的な「対象」と
しての世界、フランスの哲学者 Michel Faucault はこれを、episteme と呼んでいますが、
ひとが語るものには意味があるということで対象化する(キャラクター化)ということで、
縫いぐるみの「ゆるキャラ」など一様に持ち上げるには問題もありそうですが、思考の外
にあるものから思考すべきものへの遺跡発掘であると Faucault は論じていたことを知りま
す。われわれの周りには埋没してしまっている語るべきことに対する実在証拠‘evidence of 
certainty’は、身が埋まるほどにあるのではないだろうか。たとえば「愛」、「尊厳」、「願望」
などは、その対象としての掘り下げは古来からの課題でいまも生きている。文学、芸術な
どは、なるがゆえにその存在価値が世に受け容けられているともいえます。ここではこれ
以上深いりしませんが、「Disposition」を考えるとき、「非存在性対象」は相撲の土俵俵の
ような思考発掘へのひとつのカギを握っているとみます。 
上述のように以下五つの「徒然こと」をのべてきた: 
徒然こと1 「丸い四角は、まるいか」、マイノングの対象の哲学について 
徒然こと2 Disposition について「言説の晒し」(Disposition of discourse)ということ 
徒 然 こ と 3 「 J. ガ ウ ア ン ロ ッ ク 著 公 開 討 議 と 社 会 的 知 性 」 か ら 、 朝 日 記
210505 Amazon 書評投稿 
徒然こと4 レジリエンスについて、 
徒然こと5 責任の取り方について、ヤスパースの責罪論を読み終えて 
このうち、最後のふたつは、特に、Meinong の価値のオブジェクティブ化と関連して集合
責任への思考項目でもあった。朝日記からは、項目として出番をまつ日記記事があるとい
っておきたい。 
ひとつコメントがあります。神出氏のご講演レジュメ「原発―廃炉と集団の責任」で、 
表現として、課題のなかにすでに答えが内蔵しているのではないかと気になりました。 
 「廃炉」は講演者の意思表示であり、設問の中に答えが入ってしまっていて、すぐれて
政治的発言の色彩がつよい。 
いっぽう、たとえば「課題としての原発―廃炉と集団の責任」と対象化するなら学術知的
218 
発言の色彩になるようにおもいました。 もちろん、どちらを選ぶのもご本人の意思の問
題ではあります。失礼しました。 

 

~~~~

神出瑞穂 原発―廃炉と集団の責任 2021-10-6 
①3・11 の福島第一原子力発電所(フクシマ原発)の事故から 10 年、全国 60 基の原発は
一部再稼働はあるものの順番に寿命 40 年を迎える「廃炉時代」に入った。フクシマ原発
の廃棄物総量は日本原子力学会他の試算では約 770 万トン、同規模の原発 600 基分であ
る。廃炉に必要な期間は推定 100 年、低レベル放射性廃棄物でも 300 年、高レベル廃棄物
は 1 万年から 10 万年、日本列島のどこかで保管しなければならない。電力業界は原発の
建設時、地元に“原子力 4 枚手形”振り出した。a)安全審査により原子炉の事故は起きない
(既に不渡り)、b)使用済核燃料は運び出す、c)放射性廃棄物は敷地の外で永久処分、d)
原子炉は解体撤去して更地にするーである。しかしこの約束は事実上頓挫している。理由
は全国民の深刻な受け入れ拒否、NIMBY(Not In My Back Yard)問題である。 
②この問題は結局、半世紀にわたって原発の電気を享受してきた国民が受益者負担の原則
で“平等”に負わざるをえないのではないかと考える。具体的には、髙レベル放射性廃棄物
は乾式空冷容器に入れて全国の電力会社の敷地半地下に平等に分散貯蔵、また量が多い低
レベルの放射性廃棄物は現原発敷地内に一種の“原発古墳”として保存する。これを住民参
加の形での放射線計測を続けつつ保管、技術進歩も勘案し 100 年毎に見直す。「限界の科
学:Science of Limits」」から見てⅠ万年以上の安全を科学的に保障することは不可能、科
学者も責任が取れないからである。 
③問題は「集団の責任」を国民が納得し、受け入れるかである。 
ドイツのメルケル首相はフクシマ事故の三ヶ月後にドイツ連邦議会で“原発の安全運転に首
相として責任が持てない。”と断言し脱原発へ舵を切った。理由は“原発リスクの全体像を
つかむことは不可能、従って倫理的価値判断が技術的、経済的な観点より優先する”であ
る。議員達も同様に責任がとれないので賛成し、“集団の責任”を果たした。筆者が調べた
範囲では我が国では為政者の自己と集団の責任への公式の言及は見当たらない。一方、
2016 年 5 月 27 日、オバマ大統領は広島で “核分裂を可能にした科学革命と同時に道徳革
命(Moral Revo- lution)が求められている。“と演説した。筆者はこの MR を a)国民の良
識と道徳観>政治・経済・科学技術という不等式の自覚、b)国民のレジリエントな責任感
の復興、c)官産学民全体の強固な連帯責任体制の確立と実行と定義した。ハンナ・アー
レントは”「集団の責任」は重荷であるが、「集団の無責任」に払われる対価はさらに高
い!“と述べた。日本国民はこの「道徳革命」で NIMBY の無責任を克服し「集団の責任」
を果たすと確信している。同時に「道徳革命」は当学会が総知を結集し深耕し、廃炉問題
に貢献してもらいたいと考える。 
 
 


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