朝日記211105 巻頭言 「Disposition(晒し)」ということについて
(2020年年度総合知学会誌論文予稿)
巻頭言 「Disposition(晒し)」ということについて
会員 荒井 康全
いずれの時代でも同様であるが、ひとが住む社会や国が、平和安寧であることは本来まれである。家内安全。商売繫盛・災難免除・国家安寧等の祈念のもと、ひとは経世済民、安全保障、健康厚生、文化教育等政治に対して 英断果敢なる統治をもとめるが、現今、新型コロナのパンデミックの猛威は、全地球規模での人類生存の根幹をゆるがせ、なお予断をゆるさない状態である。 このように国難が長期に及ぶと、ひとは国の統治能力にたいしても悲観的な方向にうけとめていくように見みる。たしかにそうかもしれない。
しかし、一方に、国民の全体の空気としては、存外にクールであるようにも見えないわけではない。 いわゆる「コロナ過敏」と「平和ボケ」の思考放棄でただに呆けてしまっているともいえないところがある。だから安心というわけでもないが、あえていえば、国民は、意外にしたたかに判断をし、行動しているともいえる。たとえれば この国、その社会の根底に「バクダンあられ」のような窯がある。そこで課題共有のための価値判断の結果だしの手回しプロセスをしているとみることもできる。
そういうことを考えた特異な心理学者・哲学者がいた。墺太利のAlexius Meinong(b.1853. 1920d.)である。 こういう考えである。
1.ひとは、こころの志向を、「言語」をつかって「対象」として表現する。
2.「対象」はその意味を持つことができる。
3.ひとは「価値」を「経験」できるが、意外に控えめ(shy)であり内側に留まっている。たとえば個人的な色彩などの好みや自分がもつ困難について語ることは好まない。
4.同様の筋で、各「価値」はそれぞれの個人の価値でなければならないという実際上のケースはないとした。
5.それは個人の価値経験の仲介を通してはいるが「われわれ」という「非人称的」な次元での「価値判断」として届くとした。
6.しかも「感知」perceptionは、「感動」 sensationを基礎にした個人的な「判断」judgementを含むものであるとした。 その「判断」の根拠は、(自由意志は決定することを避けない)、かつ、(自由は強制されない)とした。
7.このような「一般的対象」を「経験対象」object of valueとして仕上げるは何かを彼は考えたのである。
8.その根拠がObject( s 対象)であり、この属性をDispositional としたのである。
これを基礎としたもとに価値経験value experience、実際的価値actual value を説明した。価値の対象化つまり、ひとがもつ価値の客体・客観化Objectivizedの基体としての、またひとがもつ価値経験を生産productする基体としての「対象」基本属性としての「disposition」を置いたのであった。わかりやすいイメージでいえば「価値決定の工場」のようなもので、「価値決定」という反応製品のためのプロセス工程であり、さきの‘バクダンあられ’の出来あがりに必要な反応条件と反応時間量をもつ反応基体としての特性を意味しているといえよう。つまり社会的な規範や施策の配備がおこなわれるまでには一定の時間経過が必要であるという意味にもつながる。外見からとらえるなら 国民感情など収束への治まりのための「晒し」であり、 あるいは果敢な施策実行として運営のための「配備」と訳することもできる。 哲学用語事典としては、「傾向」、「性向」としての訳がある。このプロセスが可視化できるかという問題は、また別の次元の課題であるがただしい。今回別稿で、Alexius Meinongをとりあげ、とくに「非存在性対象」や「Disposition(晒し)」ということについて現代社会科学的な対象領域としての解説と考察をしたことを付言する。(2021-10-15)
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