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朝日記241028 その4 「翻訳  意識のハードプロブレム」

2024-10-28 11:23:55 | 研究論説

 

朝日記241028 その4 「翻訳  意識のハードプロブレム」

朝日記241028 その2 目次 「翻訳  意識のハードプロブレム」

 

 

8 歴史的に先行したもの Historical precedents

 

Wikiquote has quotations related to Hard problem of consciousness.

 

hard problem of consciousnessは学術的先行者としてはChalmersより十分に以前になる。

Chalmersは彼自身が記述しているが、「最近と十分はなれた過去の沢山の思想家」は「意識を説明することの特別の困難さを熟知してきたのである」[32]

かれは、 年のオリジナル論文でその論議に寄与したひとは「通称名であり、哲学的系統というにはわずか再構成のものであった」.[32]

他のひとたちのなかで、 問題の の形式化と似ている論議をしてきた思想家は以下である、Isaac Newton,[33] John Locke,[34] Gottfried Wilhelm Leibniz,[35][33] John Stuart Mill,[36] そして Thomas Henry Huxley.[37][33] 

同様に東洋の思想家、 DharmakirtiGuifeng Zongmi のような人たちは意識が無意識的ものごとから起きるその仕方の問題を論じたのである。.[33][38][39][40]

 

 

9 関係する概念 Related concepts

9-1 こころ―体問題 The mind–body problem

 

Main article: Mind–body problem

 

こころ―体問題mind–body problemはこころと体が如何に関係しているかの問題である。

mind-body problemは意識の hard problem問題よりもより一般性がある、それは一般的にthe mind と the bodyとがどのように関係しているのかを発見する問題であるからであり、したがってそのトッピックとは切り離せない(broachesな)理論的枠組みをそのなかに内包しているのである。

 hard problemは反対に、physicialistやmaterialistのこころmindの理論が特異的uniquelyに遭遇する問題としてしばしば理解されている。

 

9-2  蝙蝠になりきってしまうとはどういうことであるか "What Is It Like to Be a Bat?"

 

Main article: What Is It Like to Be a Bat?

 

 

哲学者Thomas Nagel は 1974年の論文でつぎのよう論じた、「蝙蝠であるということはどのようなことなのであろうか?」、それは経験というものは基本的に主観的subjective (目下経験しているその当事者でありーたとえば経験を感じているその者によってのみ感じること)であり、一方で物理的状態というのは基本的に客観的objectiveである(沢山の個人にアクセスしている)  。

[31]

そこで彼は論じる、基本的に主観的な(或る)状態an essentially subjective stateというものは基本的に非⁻主観的状態an essentially non-subjective stateでまさしくあるjust is となるのである(すなわち、(或る)感受している状態a felt stateというのは(或る)機能的状態a functional stateに他ならない)。

換言すれば、帰納論reductivismというものが、ここでは何について辻褄を合わせているのか問題の外の立つのである。[31]

 

 

9-3 説明ギャップ Explanatory gap

 

Main article: Explanatory gap

See also: Reductionism

 

1983年に、哲学者 Joseph Levineは物理世界理解と意識それとの間の説明ギャップexplanatory gap があることを提案した。[41]

Levineの論争点は意識状態conscious statesというものは神経や脳neuronal or brain states状態へ還元されるという点にある。 

かれは痛みpain(意識状態の例として)の例および  c-fibers繊維(ある種の神経細胞)の発火firingへの帰納を用いた。 

その困難さはつぎのとおりである;意識が物理的であるというときでさえ、どの物理状態が意識状態に対応するかが明らかでない。記述のふたつのレベルとの間の橋掛けとしては必要性necessaryというよりも、偶然性 contingentの方である。

二つの記述的な科学的水準(たとえば物理と化学のように)での関係が二つの理論(たとえば化学が物理からの必然性にしたがう)との間での科学的水準の必然的結合の保証のもとになされるものであり、それゆえに意義のあることなのである。[42]

 

 Levineは思考実験thought experimentsでこれを説明する; 

人間性humanityというものが同種alien speciesに遭遇したとしよう、そしてそこでは同種が c-fibersをなにも持たなかったとしよう。

ひとはそれを知っていてさえ、同種のものが苦痛painを感じないというには明らかではないこと;これを共通設問open questionとして残るかも明らかではではい。 

このことは同種のものがc-fibersを持っていない事実をして彼らが苦痛を感じないということにつながることになるからである。

Levineが考えるのはそのような思考実験では意識と物理的世界の間での説明ギャップを明示するのである:意識が物理的事物に還元できる場合でさえ、意識は物理的事物の項では説明できない、なぜなら物理的事物と意識は偶然的結合のものであるからである。[42]

Levineは、説明ギャップが意識consciousnessの非物理的を意味するとは考えていない;かれは説明ギャップは物理主義のための認識論的問題epistemological problemのひとつに過ぎないという考えを明らかにした。[42]  

これに対して、Chalmersは意識のhard problem問題は意識の非物理的ということを証明すると考えた。[27]

 

 

 

9-4 哲学的ゾンビ Philosophical zombies

 

Main article: Philosophical zombie

 

哲学的ゾンビというのが hard problem問題での論議に広くつかわれる思考実験thought experimentがある。[43][44]

これらは仮想的生きもので物理的には人間とおなじであるが意識的経験が欠落しているものである。[45] 

Chalmers, Joseph Levine, そして Francis Kripkeはゾンビを自然界the bounds of natureのなかでは不可能な存在としているが論理界the bounds of logicでは可能としてあつかうものである。[46] 

これは経験事実facts about experienceが物理的事実the "physical" factsによっては論理的に引き継がれないとしている 。

Chalmers'の言葉では、「神(仮説的に)がこの世を想像したあとに、彼はさらにはたらきをする」[47] というものである。

Daniel Dennett、mind哲学者は「ゾンビが来たあ」 "the zombie hunch" といってしまう

現場レベルでの使い方を批判する、それは「熱いポテトを膝に落とされて大騒ぎする」ような困惑"embarrassment"[48]を思い起こすようなものであると。[29] 

 

9-5 知識としての論議 Knowledge argument

 

Main article: Knowledge argument

 

 

 Maryの部屋 Mary's Roomとして知られる知識の論議がある、これはもうひとつの思考実験である;

仮想的な脳神経学者でなまえを Maryという人がいて、そのひとはこれまでの人生で白と黒だけの色の部屋に生きてきて、そしてかつて色彩を経験していないとするものである。

彼女もまたそのときはじめてそこにあるすべてのものが頭脳と色彩感受について知ることためにあると知ることになる。[49]  

 Chalmersは信じるのである[47][page needed]; Maryが色彩赤を初めて見るときに新しい知識を獲得するーそれは赤く見える似ている何か"what red looks like"についての知識であるーそれは彼女のこれまでの頭脳もしくは視覚システムに先行する物理的知識とは異なるものであり、かつその知識へは還元できないものである。 

知識論議[49]のよりつよい形式ではMaryはそれは何に似ているか"what red looks like,"という主観的知識subjective knowledgeに欠如しているだけではなく、彼女はこの世界についての客観的事実objective fact の知識も欠如しているであろうということ:さらにいえば、何に似ている"what red looks like,"とは非物理的事実a non-physical factであり、それは直接的経験direct experience (クオリアqualia)を通じてのみ学習しうるものである。 

他にはThomas Nagelのようなものがある、これは物理主義的位置"physicalist" positionをとるものであり、そのより強い、そして/もしくはより弱い形式での論議とは了解しあわない。[49]

たとえば、Nagel はちょうど生まれてきたばかりの人に、いまみえるとすればそれは何に似ているかを問う言語languageの作為devising使用をすすめているいわゆる投機的提案"speculative proposal"に向かわせるものであると主張した。[31]

 

 

9-6 哲学からの応答 Philosophical responses

 

 David Chalmers' の意識consciousnessの hard problem 問題の形式化はこころmindの哲学philosophy of mindの中においても、科学的研究と同様にしかるべき議論をうながしてきた。

 

訳者補注; 上図の和訳説明として付す:

二元論Dualism                                                  一元論Monism

 

 

 

デカルトの二元論 Cartesian Duality

物質MATTER(実線)—こころMIND(点線)

 

 

 

 

物理的とメンタル的実質性(実線)は基本的もしくは導出的(点線)でしめしている

物理主義 Physicalism

物質MATTER(実線)>こころMind(点線)

 

 

観念主義Idealism

物質Matter(実線)<こころMIND(点線)

 

ニューラル一元論 Neural Monism

第三実質 The 3 SUBSTANCE

>物質&こころ Matter & Mind

 

 

 

上の図式は意識と物理的世界との間での関係性に関する様々な視点の間の関係性を示している。

hard problemは第一義的にこころmindについてのphysicalist 側の視点(こころmindが物理的対象もしくはプロセスphysical object or processであるという視点)のための課題として考えられる、なぜなら物理的な説明は機能や構造functional, or structuralに向かいやすいからである。  

それ故に、ある物理主義者はhard problemへの対応は分析analysisで解決探求しようとしてきた。

他の研究者はこの問題を現実realとして受け入れかつそれが解かれるべき世界で意識地位consciousness' placeの理論展開を探求している、これは代替になる存在論ontology  (パンサイキズミpanpsychism または 二元論dualism )のもとで物理主義を変更するかまたは放棄することを目論んでいる。

第三の応答は hard problemを受け入れるべきとするが人類にそれを解く知的能力が付与されていないとするものである。

PhilPapers は学術的哲学論文の収集と彼らの見解についての職業的哲学者を調査した。

これがhard problem問題への専門家態度を測るためにつかわれている。 

2020年の調査結果では、つぎの結果となっている、哲学者の多数派(62.42%)はhard problem問題を現実のものであると了解をしている、一方、実質的少数派(29.76%)は不了承である。[25] 

物理主義者の態度もまた専門家のなかで異なっている。

2009 PhilPapers調査では、調査対象となった哲学者の56.5%は物理主義の関与を示し、おなじ対象となった哲学者の27.1%は物理主義に拒絶した。

2020 PhilPapers調査では、調査をうけいれた哲学者の51.93%が物理主義を受け入れるか耳傾けるということを示し、2.08%は物理主義を拒否することを示した。[25]

さまざまな解がこの意識のhard problem問題に提案されてきたのである。

以下の章節ではhard problem問題への様々な応答を分類しておく。

この分類のかたちは最初にChalmersが2003年の文献レビューでトッピクとして紹介したものである。[51]  

この分類での識別慣例は分析哲学の術語に繋がっているがつぎの哲学者が支持している、Adrian Boutel,[52] Raamy Majeed,[53] Janet Levin,[54] Pete Mandik & Josh Weisberg,[55] Roberto Pereira,[56] そして Helen Yetter-Chappell[57]である。

 

 

9-7 Type Aの物質主義者

Type-A Materialism

 

Further information: Reductive materialism and A priori physicalism

 

Type-A 物質主義者(帰納的物質主義reductive materialism または 先見的物理主義a priori physicalismとも呼ばれている)はphysicalism と の完全な否定としてコミットでそのが見解を特徴づける。

この見解によって、hard problemは存在しないかもしくは easy problemの別の問題であるということになる、なぜならこころmindについての事実factすべてはさまざまな機能functionsもしくは行為behavioursについての実効performanceについての事実factであるからである。 

そこでは、ひとたび適正なる機能と行為が見積もられれば、そこには説明が必要なものはなにもなくなるからである。[51]

type-A materialismを支持する思想家はつぎの人たちである、Paul と Patricia ChurchlandDaniel DennettKeith Frankish, そして Thomas Metzinger.

あるType-A物質主義者は現象的意識のリアリティを信じるがしかるべき機能や行為をさらに加えるものはないと信じている。

この見解はときに strong reductionism.[42][51]として参照される。

Type-A物質主義者の他の人たちには現象的意識phenomenal consciousness全体の存在を拒否するようである。

この見解をエリミナティヴ物質主義eliminative materialismもしくは 幻想主義illusionism.[58][59][60]として参照している。.[58][59][60]

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