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北海道の自然、そして子どもの育ちと虐待について

”囚人”道路を訪ねて-5 北見市緋牛内『鎖塚』

2009-06-09 | ”囚人”道路を訪ねて




道道104号網走・端野線の峠を下り、緋牛内に入ってくると、右手に上る道道から北見方面へ向かう抜け道がある。
囚人道路が最初の道ならば、国道はその後に分岐して作られたはずだから、囚人道路の方が国道に沿う形で流れているはずだろうから、その抜け道の方が元の囚人道路なのではないだろうか、などと考えながら走っていたら、通り過ぎてすぐその抜け道の坂の途中にお地蔵さんが数体並んでいるのが見えた。

「あっ!あれだ!」とあわてて分岐まで引き返し、抜け道の坂を上った。
すると、50メートルも行かないところに、その碑は建っていた。

『鎖塚供養碑』
碑の裏面を見ると、昭和五十一年十月、端野町緋牛内鎖塚慰霊奉賛会一同建立となっていた。

鎖塚供養碑
端野町開基八十年記念
明治二十四年北海道長官永山武四郎氏は網
走と旭川を結ぶ国道開設の急を感じ網走
空知両監獄の囚人凡そ千人を動員し 五
月上北両端より着工十二月完成の突貫工
事をした 此の道路が北見の開発に貢献
した事は言うまでもないが工事の際死亡
し路傍に埋められた墓標なき囚人は三百
に余るとも云う 此の三基も亦(また)彼等を縛
った鎖だけがその上に残されてあり是を
鎖塚と呼ぶようになった 此処に供養碑
を建て尊くも哀れな御霊を永く弔う






北見市指定文化財「鎖塚の区域」案内板
明治24年(1891)、網走・上川間に中央道路が開削
された。 この工事には約1500人もの釧路集治監
の囚人が使役されたが、4月から12月という短期間に
約163kmもの距離を開削するという突貫的な難工事
のため200人以上の囚人が倒れて亡くなった。
 この鎖塚の土饅頭はそのとき亡くなった囚人の墓標の
ひとつとされている。ただし地形の変化等があり、その
形状については現在よりもかなり低かったと考えられる。
 端野町の開拓は明治30年(1897)の屯田兵の入地に
より、本格的に始まったが、その入地に至る道路はこの
工事によって作られた。

  平成4年2月27日指定 北見市教育委員会


案内板にある『土饅頭』とは、上の写真と下の写真にあるような盛り土をした墓のこと。土饅頭の上に鎖や足かせだけがのせられていたりしたそうだ。
また、この土地に開拓に入った人たちが土地を耕すと、足かせをつけた人骨が次々と出てくるので、その数におどろいたという。


土饅頭が地形の変化で高くなったということは、車道の整備等でたぶんまわりが掘られて低くなったために、土饅頭の高さが相対的に高くなったということなのだろう。








今なお大切に『鎖塚』の歴史を伝えていこうという地域の心に触れ、深く感動した。



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