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函館深信 はこだてしんしん-Communication from Hakodate

北海道の自然、そして子どもの育ちと虐待について

函館盲唖院を知る方がまた一人亡くなりました -- 大三さん、安らかに。

2014-12-01 | かがやく 大好きな仲間



函館山の麓、西部地区。
幕末から明治にかけて、函館の中心として、栄えた地域。


今でも観光客が引きも切らない、旧函館区公会堂。このすぐ向かって右上に、盲生、ろう生が通った学び舎、『函館盲唖院』があったことは、あまり知られていない。




元町公園の横に、ぽつんと、「函館盲唖院跡地 この上120m」の標柱が立てられている。平成15年10月1日 函館盲聾教育後援会 と裏に記されている。

三角柱のもう一つの面には、由来が書かれている。

私立函館盲唖院の院舎は西欧を想わせる建物で、大正14年、教育家佐藤在寛先生が浄財を集めて建てたものである。

 ここで、ヘレン・ケラー女史と院生が交流したこともあり、多くの卒業生を社会におくりだした。本院の全身は、明治28年設立の函館訓盲会(後の函館訓盲院)である。


下の写真、上部の建物のある部分に、校舎が建てられていた。写真正面の車庫の右側よりジグザグに生徒用のスロープがあった。今は草が生い茂るスロープだが、いまでも手すりが見てとれる。



こちらにも、函館盲聾教育後援会が創立百年を記念して立てた、函館盲唖院跡の標柱が。それによると、昭和29年に聾学校は深堀町へ、その4年後、昭和33年盲学校は田家町へそれぞれ移転している。

公会堂すぐ横の道端には、かつての校門の門柱とおぼしき塊がころがされていた。




現存し、今でも使われているかつての校舎。
こうした時代を知る方々もたいへん少なくなられた。




そんなお一人で、函館の聴覚障がい者運動の中心にいつもいた、大三さんが亡くなった。

数年前には脳卒中にも倒れられたが、見事に回復し、近年は聴覚障がい者、視覚障がい者も安心して過ごせる、見守り付きアパート建築を進めるNPOの理事としても活躍しておられた。






私も、手話通訳のスタート時には、よく育ててもらった。

通訳が終わると、「ちょっと来い」と陰に連れて行かれ、「お前の手話がわからない。困るんだよ。」と言われた。
昔は若かったから、私もカチンときた。
「一生懸命やってるのに、なんなんだ!」と思った。
しかし、今ならわかる。
手話通訳者のシュワがわからないとは、例えて言えば、電波の悪いところで、テレビを見ているようなもの。ラジオを聞いているようなもの。肝心なところがわからない。ろうあ者の生命線である手話通訳がそんなのでは、ろうあ者は本当に困っただろうし、苦しかったのだと思う。


大三さんの口ぐせの「困る。困る。」とは、ろうあ者のこと、手話通訳者のこと、いろいろなことを憂いて出た言葉だったのだと、今更ながらに気づかされる。
72歳。まだまだこれからの年齢だった。昨年、iPadを買って、ラインもやっていた。




 

まだまだ、「困る、困る。」と、言って欲しかったな、と思う。


天国からも、「困る、困る。」と、言ってくれ、大三さん。


安らかに、大三さん。




"聞こえる人"のことを想って、作りましたーステキなこと

2014-04-27 | かがやく 大好きな仲間

聞こえない人、見えない人、障がいのないフツーの人など、いろいろな人たちが集まって住んでいる、視覚、聴覚障がい者用共同住宅『○○○』ですが、最近おもしろい、不思議な、ステキなことが起きています。

「食堂の椅子が、立ち座りする時にうるさいんだよ。」と聞いた、入居する聞こえないTさん、同じく聞こえない仲間のMさんとも相談し、試行錯誤。

ついに、こんなものを作りました。



よく見ると、

あれれ?

これは、テニスボールではありませんか!
聞こえない方は、元来、自分が聞こえないので、知らず知らずに大きな音をたててしまったりすることがあるのですが、逆に、"聞こえる人"に、こんな配慮をしてくれるとは、驚きです。
いろいろな人たちが住んでいて、見えない人も手話を覚えて、挨拶してくれたり、ろう者が足の悪い住人のために、食堂のご飯を下膳してくれたりという、お互いを配慮し合う関係のある場所ならではの出来事だなあと、感激しました。


Tさんに工夫した点を伺うと…
「テニスボールがすぐにすり減らないように、蝋をぬったんだよ。」とのこと。

さすがは、蝋者、いえ、ろう者、です。みなさん、こだわりと技術を持った元職人さんですからねえ。

※ろう者のみなさんは、上のような冗談をよく言います。それを『デフジョーク』と言います。デフとは、ろう者のこと。みなさん、ジョーク好きです。逆に、健常者の方が「えっ!」と思うような冗談を、さらっと言ってのけます。


別れと出会い 今年を象徴する一枚--函館の味のあるろうあ者たちと私たち夫婦

2013-12-31 | かがやく 大好きな仲間


今年を象徴する一枚は、こちらの写真。
函館のろうあ協会を牽引してきたろうあ者たちが写っている。皆、60代後半にさしかかり、それぞれ皆いい顔をしている。
一時疎遠になっていたが、『○○○』建設計画が持ち上がって以来、私は網走から戻って以降、またお付き合いが始まった。

『○○○』に限らず、何かの活動が始まる時、連れ合いは活動の中心にどんどんとはまっていく係り、私は、少し離れたところでボランティア的に関わったり、俯瞰で見ていてチャチャを入れる、遊軍みたいな係りに、自然とおさまっていく。
今回はその役割分担がわりとスムーズに打ち消しあわずに機能したように思う。
懐かしいろうあ者たちにまたつながり、これからにつながる、よい一年だったと思う。
つくづく、ろうあ者たちがいるから輝ける自分たちがいるんだなあと実感した一年だった。


かずヒーローの講師で稼ぎたい--自立の風カンバス 講演会

2013-12-11 | かがやく 大好きな仲間

自立の風カンバスの講演会のお知らせです。

誰でも大人になると、なりわいは大切。知的障がいのあるかずヒーローさんにとってもそれは同じです。
その大切なお仕事をどうするかということが今回のテーマです。


今週の土曜日、会場はクリスマスファンタジーをやっている金森倉庫などのあるベイエリアのすぐ近くの街づくりセンター、開始は19時なので、18時からのクリスマスファンタジーの点灯式を見てからでも、ゆうゆう間に合います。
自立の風カンバスのイベントのすごいところは、自前で手話通訳や視覚障害者向け音声ガイドなどの配慮もしてしまうところです。
視覚障がいの方、聴覚障がいの方も安心してお集まりください。
かずヒーローさんとカンバス代表の横川さんも、先日のユニバーサル映画祭で呼びかけをしておりました。


明日はジャックモウズの日

2013-12-06 | かがやく 大好きな仲間
明日は、美唄市出身のシンガーソングライター、ジャックモウズの講演とライブがある日です。

どうです、イケメンでしょう。
彼が、ライブと同時に、障がい者週間の記念講演をします。
彼の、自らの障がいを笑涯として、前向きに生きようという姿勢は多くの人たちにもきっと深い感銘を与えるはず。
私も、ミュージックサインなどで同じステージに立たせてもらいます。
大好きで、尊敬できるジャックさんと同じステージに立てることに幸せを感じつつ、ジャックさんの思いを、ミュージックサインという、目で見る音楽を通して全力で伝えて来たいと思います。



函館の路面電車の前身-馬車鉄道とろうあ者Mさん

2013-08-02 | かがやく 大好きな仲間

函館の路面電車の前身である馬車鉄道。当時にぎわっていた函館西部地区から湯川温泉まで運行されていた。

昔々、全国で三番目に設置されたろう学校盲学校の前身、函館盲唖院は、その当時にぎわっていた西部地区にあり、今の函館区公会堂のすぐ上、函館山のふもとにあった。ろうの生徒は、函館駅方面から馬車鉄道を珍しげに見ながらも、時に無賃乗車してぶらさがって乗ってきたりしていたそうだ。

ある、現在70代のMさんが、そんなろう生徒のころ、馬車鉄道の線路の上をとぼとぼと歩いていると、いきなり後ろから首根っこを捕まえられた。

見上げると、馬車鉄道の運転士さんで、Mさん「後ろから鐘を鳴らされているのに、わたしが聞こえないで歩いていたために叱られてしまった。」と笑いながら思い出話を聞かせてくれた。身振り巧みに当時の様子を表現するMさんの中に、小さい頃のMさんを見たような気がした。

馬車鉄道の写真を見るたびに、情景描写巧みに手話と身振りで思い出話をしてくださったMさんのことを思い出します。


「手話漫才は永遠だよ!」-カトさんケンさん手話漫才への思い

2012-03-02 | かがやく 大好きな仲間


私の手話漫才の相棒であった、カトさんが本州へ旅立つ。
今まで三度、ローカルに活動してきた。

手話漫才を始めたのにはこんな思いがあった。

手話を習い始めた頃、私はろうあ者がお昼休みのたまり場としていた場所に、足しげく通っていた。
「手話が上達したかったら、ろうあ者の手話を見るに限る。」そんな話を聞いたためだ。
しかし、実際通ってろうあ者が楽しげに話すのを見ていても、話はまったくわかるものではなかった。わからないならすぐ尋ねたらよいだろうと思うだろうが、実際楽しげにやりとりする彼らの横でいちいち「あ、今なんと言ったのですか?」なんて聞けるものではなかった。そのうち話の内容がわからないだけではなく、自分がそこにいることすら「もしかすると、おじゃまなんじゃないか。」などと思えてきた。話が通しない心細さを身をもって知った。

 そんな時、ろうあ者の一人がこちらをちらりと見やり、何事か手話で話すとろうあ者の中から大爆笑が起こった。
”なにか自分のことを話題にして笑っているに違いない。”と思いこみ、はらわたが煮えくりかえった。

ろうあ者の話が終わり一人また一人と席を立ったあとで、そばにいた親切なろうあ者に「今までなんの話をしていたのですか?さっき私のことを言ってませんでしたか?」と聞くと、「あぁ、仲間が買った新しい車の話をしていたんだ。別におまえの話はしていないよ。」とのことだった。
その時、ろうあ者の中にいて、”共に笑えない”寂しさを知った。

しかし、ろうあ者は、その”お昼休みのたまり場”から一歩世の中に出ると、絶対的に多い健聴者の中にいて、いつも”共に笑えない”立場にいるのだなあということに、後々気づいた。


方や、ろうあ者たちはとっても軽妙な手話を駆使して、本当に楽しそうに手話でジョークを飛ばし合う。
ろうあ者の真の笑いは、その芸術的とも言える模倣やジェスチャーを含んだ手話の表現にあるのではないかとろうあ者と付き合えば付き合うほど感じた。
そしてろうあ者の手話を盗んで手話の技術を磨きながら、手話落語をやってみた。ろうあ者たちはみな喜んでくれた。それで、気をよくして連れ合いと”手話漫才”をやってみた。これも大受けだった。

そんなことをやっていたが、健聴者二人がろうあ者の言語である手話を使ってする手話漫才に少し借り物くささや矛盾を感じていた。
そんなころ、カトさんと出会った。ろうあ者の友人宅でカトさんとおしゃべりする機会があった。カトさんはとても若くすてきなろう女性だった。
カトさんと少しおしゃべりしただけで、カトさんのトークの魅力に魅せられた。以前からろうあ者と”手話漫才”をやってみたいと思っていたが、その場合ろうあ者の手話の読み取り通訳の問題が出てくる。通訳者の技術の問題と共に、ろうあ者が手話で話し、それを手話通訳者が読み取って音声言語に変える、そのわずかな時間差が笑いを打ち消してしまう心配があった。
カトさんは自分でおしゃべりできる方だったし、そういう方にはめずらしく手話もきちんと覚えていた。
カトさんに「今度一緒に手話漫才やってみない?」と聞いてみると、カトさんは、「あ!わたしもね、そういう人をわらわせるの、やってみたいなあって、思っていたのよ。こんど、やってみる?」と言って、すぐに引き受けてくれた。

地元の手話まつり、全道ろうあ者婦人部集会、ろう学校同窓会創立記念集会などで、手話漫才を披露してきたが、いつも大いに盛り上がった。夢は、「地域の老人ホームを慰問すること」だった。


最後の四度目の公演は、先週「カリフォルニア・ベイビー」で開かれたカトさん親子の送別会の席だった。四度目にして初めて台本も作らず打合せもせずに臨んだ。送別会に現れたカトさんに、私の漫才用のブレザー姿を見せ、「この(服)、意味わかるでしょ。」と手話で言うと、カトさんは即座に「マジかよ!」と漫才のノリで返してくれた。

四度目の公演も大受けだった。

大好きなカトさんのために、全国から集まってくれた仲間に、大きな笑いをプレゼントすることができた。


私は、美しい女性のカトさんの、少し目立つ前歯のことをよくからかって笑いをとった。
でも、カトさんはそのことを気にしないでいてくれ許してくれた。
本当は、頭でっかちで髪が薄くて目が斜視で短足な私の方が笑いのネタに満ちていたのだけれど、カトさんは一度もそんなことはネタにはしなかった。
なんだか、自分ってずるかったかなあと少し後悔。そして改めてカトさんの懐の深さを思った。

送別会の帰り、「ケンさん、ありがとね。たのしかったわあ。」とハグしてくれたカトさん。
送別会で参加者一人一人に言葉をくれて、私には「ケンさん、手話漫才は永遠だよ!」って言ってくれたカトさん。
私は感動して、「そうだ!手話漫才は永遠だ!」って叫んだ。
今になって、もっと手話漫才やっておけばよかったなぁって思う。

だけど、カトさん、「手話漫才は、永遠」だから、またいつかやろうね。
多くのろうあ者に笑いを届けようね。

今まで本当にありがとう!心地よい笑いをありがとう。
新しい土地でまた新しい仲間と笑顔で過ごせますように。
カトさん親子の幸せを祈っているよ。


市民会館前の前川さんの意匠

2011-05-25 | かがやく 大好きな仲間

2011,02,03に『前川さんの小指』と題して、あるろうあ女性の生涯をお知らせしたが、その前川さんの夫さんもすてきな人だ。

最近天気のいい日には歩いているこの写真の場所、函館市民会館にも前川おっとさんの功績を見ることができる。函館市民会館を運営する函館市文化スポーツ財団のトレードマークをデザインしたのが、前川さんの夫さんなのだ。
夫さんは、他にも今はなくなってしまった旧札幌駅の地下にあった『丸ス ステーションデパート』のマークなども考案されたとうかがっている。

オットさんは、ろう学校を卒業後、映画ニュースの字幕原稿を書く仕事や写植の仕事の傍らにそうしたデザインの仕事もしておられたそうだ。

今は、娘さんと埼玉に住んでおられるが、函館在住中は、ろう学校時代の思い出話などを楽しい手話でいろいろ語ってくれた。

函館市文化スポーツ財団のマークは、大人と子どもが手をつないで楽しくスポーツをする姿を表していて、今も市民会館前にさん然と輝いている。

【最近、ケイタイから投稿することが多いのだが、下書きしつつ書いていたら、文章の途中で投稿してしまった。。。再度付け加えました。ゴメンナサイ。】


前川さんの小指

2011-02-03 | かがやく 大好きな仲間

札幌に本部のある学校法人西野学園が函館に福祉の専門学校を開校するということで、開校から5年ほど、ろう者と共に「障害形態別介護技術」の手話の授業を担当していたことがある。

その時、ご一緒させていただいたのが、ろう者の前川さんだ。

前川さんは、地域では有名な聴覚障害者協会の活動家だったが、その姿は、”活動家”然とした方ではなく、ごく普通の”おばさん”だった。

授業ではもっぱら私が聴覚生理とかろう者の心理などについての講義を担当し、前川さんが手話の実技を担当していた。

手話実技では、できるだけろう者である前川さんと学生が「伝えてみる」、「伝わった!」という実感がわくようできるだけ身振りも交えてコミュニケーションしてもらえるようにしていた。前川さんのやさしい人柄と目を細めた笑顔がその効果を高めてくれた。

けれども、高校卒業したての若い人相手だっただけに、私語や雑談、うたた寝する者、熟睡する者といろいろな人がいて、難儀した。

しかし、そんな機会さえも、私たちは、”聞こえない”ということを理解してもらうために利用した。

雑談、私語は、止めなかった。

数回の授業の後、私が「ザワザワしていたり、みんなが私語しているのも、前川さんには聞こえないんだよ。」と語ると、学生たちは耳よりも目を使って授業に参加するようになってくれた。

 

2クラス、80名ほどを年に担当していたが、1年に1人は人生の課題を背負って入ってくる学生がいて、なにかしらの問題を起こしてみせた。

ある時、前川さんが手話の実技をしていると、なんどか私語があり、その都度その周辺にクスクスと笑い声が漏れているのに気付いた。いつもは、無視している私語だったが、その時はいたたまれなくなり、授業時間をだいぶ残した状態で、前川さんに「今日は、やめにしよう。」と告げた。前川さんも、私の普通ではない様子に気付き、不安気に「大丈夫?」と聞いたが、私の申し出を聞き入れ、二人で教室をあとにした。私は前川さんに伝えるかどうか迷っていたが、その日はとうとう言い出せずに、別れた。

一週間後の授業の日、教室に行く前に前川さんに打ち明けた。

先週の前川さんの授業中、教室後ろの方で「しょうがい。。。」、「しょうがいしゃ」と言っては、笑い合っていた学生がいたということを。

その声は、かすかであったし、「障がい者」という意味であったのか、ほかの似たことばだったのか、はっきりはわからないし、前川さんに向けられたことばではないとは思うのだけれど、確かめたいのだと、前川さんに伝えた。前川さんは自分の聞こえないところでそのようなことが言われていたことを知り、「まぁ。。。」とショックを受けていたが、「シュジュキ(すずき)さんに、まかせるよ。」と、対応を任せてくれた。

教室に着くなり、私は、黒板に「しょうがいしゃ」と書き、数人に「先週、『しょうがいしゃが。。』と言って笑っていたね。」と問いただした。みな、「いえ、そんなことは言っていません。」と返答したが、明らかに動揺していた。前の週に最も中心的に発言し、笑っていたAに、「前川さんは、みんながどんなことを言っているのかもわからない状態で、ここに立って授業しているのだよ。その心細さや辛さがわからないなら、きみたちは福祉の仕事をする資格はないよ。私はこの単位はあなたにはあげられない。」と告げた。

前川さんは、私の発言を継いで、「すずきは、あんなふうに言ったけれど、私は、みんな、卒業してほしい。がんばって。」と、手話で告げてくれた。

 

翌週、また授業に出かけると、玄関に私が単位をやれないと告げたAが待っていた。

「先生、これ読んでください。」と手紙をくれた。

【先週、先生に「お前には単位はやれない」と言われ、もう学校を辞めるしかないと思い、実家に帰った。いつ切り出そうかと思っていたら、父親が配管設備の仕事について来いと言うので付いて行った。父は糞尿にまみれて配管を修理し、「この仕事ももう長くはないだろう」と言った。「それならなぜ奨学金を使わなかったのか」と聞くと、「お前に借金させたくなかったからな。」と言った。それを聞いて、自分はどんなにいいかげんに生きていたのかに気付いた。前川先生にももうしわけなかった。もう一度やり直させてほしい。】そんな内容だった。

前川さんも私もその手紙を読み、Aの真剣さに打たれ、快く迎え入れた。前川さんは持ち前のやさしさで、「いいよ。がんばって!」と笑顔でAに告げた。

前川さんは、自分の個人史も語ってくれた。

前川さんの年代のろう者の多くがそうであるように、前川さんも、函館から遠く離れた医者も十分にいない田舎で生まれ、数日続くような高熱で失聴していた。学齢から数年遅れで、当時では半日もかかる遠い函館の聾学校に入学、寄宿舎生活を送った。けれども、寄宿舎で同じろうの仲間に出会い、様々な経験を積み、社会に出、聞こえる人たちに手話を教えてきた。

 

前川さんを思い浮かべる時、同時に思い出すひとつの手話がある。

右手の小指を一本だけ立てる。その小指をアゴにあてる。

【構わない】とか【いいよ】と訳される手話だ。日本語の「構わない」ということばには、ちょっと投げやりな意味がふくまれることもあるが、手話の場合は、投げやりな意味や否定的な意味があまり入らないように思う。肯定的な【構わない】だ。

前川さんは、ろう運動の活動家であったが、あまり自分から積極的に意見を戦わせたり、みんなをひっぱったりするタイプではなかった。仲たがいしたり、言い合いをしたりするろう者の仲間の間に入って、オロオロと心配し、それでいて実際の行動は率先してやるという縁の下の力持ちタイプの方だった。

専門学校の授業でも、学生をけっして叱りつけたりすることなく、いつも笑顔でふところ深く包み込んでくださった。私がカッカとしたり困っていたりしていても、いつも「いい、いい。(かまわないよ)」と言ってムリをきいてくださった。

前川さんの「シュジュキサン(すずきさん)」と、呼ぶ声が好きだった。

「いい、いい。」と言っている笑顔が目の前に浮かぶ。

【構わない、いいよ】と、いろいろなものを赦してきた人生だったのだと思う。

 

前川さんは、10年ほど前、娘さん夫婦の住む埼玉に移住し、2月1日 多くの家族に看取られ亡くなった。