以下は、kasumiこと、三千恵さんのブログのために、2003年に書いた文章です。kasumiの『虐待を生きて』の文章とは少し違っている部分がありますが、それは”性”を担当するいかれる”二千恵”人格が、私の文章に一部手を入れたためです。笑
それもふくめて、見比べると二千恵さんのひととなりがわかってよいと思います。
(”検閲”にひっかかったのは、2003-2の部分です。)
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私たちの結婚生活
「汝、この者を妻とし、病める時も健やかなる時も、これを敬い、愛するか?」そんな問いに、自信をもって「はい」と答えて始まった、私たちの結婚生活だったが、料理はあまりつくらない、掃除はまったくしない、金銭管理はできない、しょっちゅう病気にはなるの、3拍子、4拍子で私は、結婚してすぐに自分の選択のあやまちに気がついた。
私とかすみは、共通するボランティア活動を通して知り合った。第一印象はお互いに最悪で、私はきつい顔をしてまわりをしきっている彼女を、「うぇ~~、いやな女!あんなやつとつきあう男なんて絶対いないよな~」と見ていた。当時彼女は、ボランティアの場によく小さな小学三年生くらいの歳の離れた妹を連れてきていて、私は直に彼女が妹を引き取って育てている「感心な」女性であることに惹かれ始め、出会って何ヶ月目に結婚の約束をしちゃったのであった。彼女が「妹連れの、感心な、かわいそうなひとである」ということも、結婚を決めた要因の大きな一つであったと思う。私は、わりとそんな境遇には弱い性格で、自分のキャパもないくせに、「よ~し、おじょうさん、その荷物、あっしが一緒にかつぎましょう!」なんてすぐ思ってしまうおばかな人間だった。
私の方の負い目もあった。私は当時ボランティアか仕事かわからないような待遇の非常勤嘱託の仕事をしていた。その仕事も実は「その仕事、あっしが、。。。。」と前の年にホイホイと引き受けていたのだが、結婚して生活できるだけの稼ぎをもらっていなかった。しかし、「妹連れで、感心な女性」が、そのろくな稼ぎもない男と結婚してもよいというのだから、私にとってかすみは、「妹連れで、感心で、貧乏もいとわない、類を見ない立派な女性」となった。
そうして、妹、かすみ、私の三人の暮らしが始まった。
しかし、実際はそんなに甘くはなかった。私は、うまくいかないこと、貧乏なこと、失敗することを、すべて「かすみのせい、妹のせい」と、思うようになった。特に、かすみの妹にはつらくあたった。子どもが好きだった私は、最初のころこそ、コロコロと遊びころげるよいお兄ちゃんであったが、共に暮らすとなるとやることなすこと全て気に食わなかった。
今でも、大きな後悔の念と共に覚えている事件がある。
その夕、かすみは不在だった。私が夕食の準備をしようと家へ帰ってみると、妹が私が夕食の材料にしようと思っていた、焼きちくわとキャベツを、おやつ代わりに食べてしまっていた。私は猛烈に怒った。そして、近くのスーパーへ買いに行くよう妹を責めた。しかし、妹はがんとして反抗し、頭に血が上った私は、妹に何度もこぶしをあげた。
今、冷静に振り返ってみると、妹は冷蔵庫の焼きちくわやキャベツさえも食べてしまうほど、おやつもなく、ひもじかったのだと思う。しかし、うわべだけやさしく思いやりがあるように見せるが、本当はそんなものはもっていなかった私には、まったくそのような妹のひもじさにさえ、考えおよばなかったのだ。
そんなふうにこぶしをあげて、妹にけがをさせてしまったことも数回ある。
しかし、それでも私は「自分がそんなふうにみにくい自分になってしまうのは、妹がいるせいだ」と、そこでも妹を恨んでいた。「逆恨み」ということばがあるが、まさに自分勝手な理論で妹を逆恨みしていたのだ。
私は、妹にした体罰や虐待を、取り繕おうとは思わない。あのことは、まさに虐待であったし、妹に非があるものではなく、大人である私が犯した大罪であることを、妹と神の前にざんげしたい。
かすみともよく殴り合いのけんかをした。私も短気なら、かすみも妹も、勝気でまったく引くということがないのだから、いつもぶつかっていた。
その当時のことを思い出すと、時がさかのぼれないということ、巻き戻せないということに愕然とさせられる。
けんかをして初めて手を上げたときにかすみが言った、「あんたも、くそおやじと同じだ!」という悲鳴を私はその後ずっと忘れることができずにいたが、その悲鳴のもつ闇の深さに私はまだ気づいてはいなかった。
かすみも、私も、家の外ではとてもよく働き、活動する人種だったが、お互い家の中は苦手だった。今であれば、夫婦共稼ぎであれば家事も分担が当たり前になってきているのだろうが、20年前の私の頭脳はそのようにはなっていず、「なぜ、結婚したのに、家計やら家事やらに頭をわずらわせなけりゃならないんだ!」と常に思っていた。
かすみは、けんかする以外の時は、私にはとてもやさしくしてくれた。しかし、何かと外でトラブルをよく起していた。言い方がとてもきつく、特に相手の弱点や失敗をつくときには、容赦なく心臓をえぐるような言い方をよくしていた。かすみに言わせると、「私だって、同じように傷ついてきた!」というが、まわりから遠まわしに「かすみさんがいかにまわりの人を傷つけているか」を聞かせられる立場になる私は、徐々に「また、トラブルを起しているのではないか」という疑心暗鬼の目でかすみを見るようになっていったと思う。
義理の兄と一緒の生活で、妹は中学、高校と、いろいろなことをしでかしてくれた。
今思うと、私は「しつけ重視」というお題目を掲げて、妹の行動を監視し、鉄槌をくだしていた。後年、子どもと接する仕事をするようになってから、「しつけ」という「押しつけ」に、疑問をもつようになったのは、その時の自分を振り返るからだと思う。
高校二年の修学旅行の時、宿でタバコを所持していたということで学校から実父に連絡が入り、かすみ、妹の父が遠くの街からすっ飛んでくるということが起きた。その時、父から「おまえたちにあずけたから、こうなった。」と言われ、出迎えの駅で学校関係者、父母が居並ぶ中でとっくみあいのけんかをしそうになった。
どういう理由だったか忘れたが、たまたまかすみは駅に来ておらず、その出来事を伝えると、「あんなおやじでごめんね、ごめんね。」としきりにあやまっていたが、最後にポソッと、「だけど、あのおやじのこと、全部知ったらあんたは許せなくなると思う。。。」と、つぶやいた。
その時、私の頭の隅に、ある小さな想像が芽生えた。