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くらしの中の仏教語

2020年02月03日 18時25分44秒 | 慈しみと悲しみと

昭和53年に買った「くらしの中の仏教語」(山下民城著、冬樹社発行)を陽だまりのリビングで読みふける。

著者は昭和35年秋から36年初頭にかけて単身渡印し、インド、ネパール、セイロン(現在のスリランカ)の仏跡を巡拝した。その巡礼行で耳目に飛び込んできた現地の言葉の中に、仏教に纏わる日本語の語源ではないかと興味をそそられ、仏教語がどれぐらい日本語に浸透しているか16年に渡って調べノートに書きとめた。そして齢七十にして整理しまとめて本になったようだ。

著者はこの本を成した理由を3つ挙げているが、その中の一つに「言葉を通じて一般の方々の仏教に関心を喚起したい」というのがある。しかし、今の日本は仏教に対する関心が薄れ、お寺との関係も希薄になり、この頃は墓も要らないという風潮がまかり通っている。それはそれで仕方ないとして日常の中に仏教語が数多く語られていることにはすごく興味がある。

例えば「寺」は巴語テーラからきたものであり、「般若」は恐ろしい鬼女のように思われているが、プラークリット語のパンニユーの音写で智慧の意味。このように原語を音写したものから経典に基づいたもの、俗語・ことわざ・方言からきたもの、仏教語がそのまま普通語化したものなどたくさん書かれていておもしろい。

ちなみにちょっと列挙すると

三昧・・・梵語サマーディの音写。心をある一つのことに定めて動かない心。

娑婆・・・梵語サハー。人間界のこと。刑務所にいる人が外の世界を娑婆と呼ぶのは誤り。

ごたくを並べる・・・ごたくは御託宣の略で、神仏が人に乗りうつったり、夢枕に立ったりして、その意を告げること。転じて、いかにももっともらしいことや、人を見下した訓戒めいたことをクドクドいうことを言うようになった。

因縁・・・因は原因、縁は原因を助長する条件。仏教では因と縁との和合によって果(結果)が生じ、その結果は後々まで報(影響)を残すと教えている。

 

 

 



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