この頃、近くの図書館や地区センターで読書する時間が増えた。勤めていた時代と違って、自宅にいる間光熱費が嵩むのも理由のひとつである。それぞれの場所の所蔵図書を読みつつも、自宅の本棚から昔の本を取り出したりして時々読みふけっている。
休日の今日、と言っても私は全日空(全ての日が空いている)だから毎日が休日であるが、自宅から車で2~3分のコミュニティハウスで、持参した高見順の詩集「死の淵より」(講談社刊)を開く。今日の空は鉛色をしていて、午後から雨か雪になるというが、こんな重苦しいタイトルの詩集を読むには相応しいお天気かもしれない。
巻末に万年筆で1973.3.1とマイネームが書かれていた。昭和48年3月1日に買った本である。前年の6月、私は前妻をガンで亡くしたばかりで、その年の7月に郷里浜松へ転勤させてもらった翌年である。悲嘆にくれた当時の鬱々としたある日、たまたま入った本屋で見つけたこの本のタイトルに惹かれて衝動的に買ったのであった。
この詩集には、63編の詩が書かれていて、その中に「死の淵より」拾遺というタイトルの中に10編の詩がある。高見順が食道ガンの手術をして入院中に書かれた形の詩をこの本に集めている。入院中手元のノートに鉛筆でメモをとったものを、退院してから詩作したものだと巻頭に書いてあった。迫り来る死と対峙した渾身の詩集である。
読み返してみて印象的な詩が二つあった。
みつめる
犬が飼い主をみつめる
ひたむきな眼を思う
思うだけで
僕の眼に涙が浮ぶ
深夜の病室で
僕も眼をすえて
何かをみつめる
心の部屋
一生の間
一度も開かれなかった
とざされたままの部屋が
おれの心のなかにある
今こそそれを開くときが来た
いや やはりそのままにしておこう
その部屋におれはおれを隠してきたのだ
「みつめる」はハチとダブる。ハチの方が先に逝くと思うが、ハチの眼がいつもひたむきなだけに感じるものがある。
「心の部屋」はいくつかある。「仕事の話」と「女の話」である。二つとも墓場へ持っていくつもりで、一度も開かれなかったとざされたままの部屋である。
一昨日、銀座の三菱合同写真展を鑑賞したあとに、長男と新橋のSL広場で待ち合わせして、新橋駅ビル地下の「魚がし日本一」で飲んだ。先月下旬、息子から電話で二人で飲もうと誘われていたのであるが、カミサンから孫たちへの沖縄土産を渡す目的もあって、放蕩親父と出来のいい息子の会話が弾んだ。24年前、うつ状態になって会社を1ケ月休んだときの死のうと思ったときの真実も、いつかは話しておきたいと思いつつ、「心の部屋」にとざされたままになっている。
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