『一休とんち話』
村人が一休さんに、「五百羅漢にはそれぞれ名前があるのか」と
尋ねた。一休答えて言う「まず真ん中はシャカムニ(釈迦牟尼)、
左は、カヨウソンジャ(迦葉尊者)」
村人「そんじゃあ、右は?」 一休「アーナンダ(阿難陀)」
村人「なぁんだ、じゃ左は?」一休「ソーナンダ」
「次は?」「ツギヤトラ」。「こっちは?」「オラコッチ」
と一休さん、次々に村人の指差す羅漢像の名前を答えていく。
村人が感心して帰っていくと、これを聞いていた弟子が
「さすが一休和尚。全部の名前をご存知ですか」と。
一休「まさか、問うてもせん無きこと。覚えても用無きことよ」
と、笑いたまえる。
覚えても無駄なこと。教えてもどうせ覚えられない愚問に
ムキになって応ずることはない。示唆に富む話である。
政治家のはぐらかしは困るが、こんな場面、日常ありそう
である。
というわけで、虚無僧の真相など、知る必要もないし、
詳しく話せば話すほど、わからなくなる話である。
一般の人が描く虚無僧は「世を避け、交わりを絶ち、ひた
すら尺八三昧の世捨て人」のイメージであろう。
謎めいていた方が良いのだが、私は一休を虚無僧の祖と仰ぎ、
一休のように社会に深く関わっていく虚無僧である。
一休は言う。「昔は、修行せんと思う人は山に籠もった。
今は、修行したければ、山を下りるべし」と。
人中にあってこその仏道修行、それが虚無僧道なのだ。
村人が一休さんに、「五百羅漢にはそれぞれ名前があるのか」と
尋ねた。一休答えて言う「まず真ん中はシャカムニ(釈迦牟尼)、
左は、カヨウソンジャ(迦葉尊者)」
村人「そんじゃあ、右は?」 一休「アーナンダ(阿難陀)」
村人「なぁんだ、じゃ左は?」一休「ソーナンダ」
「次は?」「ツギヤトラ」。「こっちは?」「オラコッチ」
と一休さん、次々に村人の指差す羅漢像の名前を答えていく。
村人が感心して帰っていくと、これを聞いていた弟子が
「さすが一休和尚。全部の名前をご存知ですか」と。
一休「まさか、問うてもせん無きこと。覚えても用無きことよ」
と、笑いたまえる。
覚えても無駄なこと。教えてもどうせ覚えられない愚問に
ムキになって応ずることはない。示唆に富む話である。
政治家のはぐらかしは困るが、こんな場面、日常ありそう
である。
というわけで、虚無僧の真相など、知る必要もないし、
詳しく話せば話すほど、わからなくなる話である。
一般の人が描く虚無僧は「世を避け、交わりを絶ち、ひた
すら尺八三昧の世捨て人」のイメージであろう。
謎めいていた方が良いのだが、私は一休を虚無僧の祖と仰ぎ、
一休のように社会に深く関わっていく虚無僧である。
一休は言う。「昔は、修行せんと思う人は山に籠もった。
今は、修行したければ、山を下りるべし」と。
人中にあってこその仏道修行、それが虚無僧道なのだ。