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「有漏路・無漏路」の意味

2014-01-05 23:26:08 | 一休の禅
「有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)に帰る一休み
  雨降らば降れ 風吹かば吹け」

師から「一休」の名をもらって、すかさず詠んだと
されるが、これも、後世(江戸時代)の人の創作だ。


「漏」は穢れ、煩悩。有漏路は穢れや煩悩のある世界、
すなわち現世。無漏路は穢れも煩悩も無い世界、前世、
来世、あの世。「現世は、前世から来世に行くほんの
一休みの間なのだから、怖いものもない。雨降ろうと
風吹こうと平気平気」と、一般に解釈されているが、
私はちょっと違う解釈だ。

一休は禅僧だから「前世や来世など知らん」と言って
いる。「あるのは現実の今だけだ」と。

人は煩悩に苦しむ。煩悩を捨て悟ったかなと思っても、
また煩悩が湧き出てくる。悟りと煩悩の間を行ったり
来たりすることにもまた悩む。その迷いに疲れて一休み。
もういいや、雨降ろうと風吹こうと、いちいち悩み
苦しむのもバカらしい。や~めた。

というのだ。良寛も「悟りを得ようと努力することも
やめた」と言っている。その境地と同じだ。

私も、もう何も悩まず、「過去を悔やまず、明日を
憂えず」で、生きることが楽になった。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。


『洞山三頓棒』の公案とは

2014-01-05 23:04:21 | 一休の禅
禅の公案に『洞山三頓棒』というのがあります。一休が 25歳の時、
師の華叟から与えられた公案は、この『洞山三頓棒』でした。

『洞山三頓棒』の公案とは。
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洞山(とうざん)という坊さんが、長い旅の末、ようよう雲門禅師の
所にたどり着き、入門を乞うた時のと。

雲門に「どこから来たのか」と問われて、洞山は「査渡(さと)より」と
答えた。すると「昨夏はどこで過ごしたか」と重ねて問われ、
「湖南の報慈(ほうず)です」と答えた。更に「そこを出立したのは
いつか」と問われて「8月25日」と答えた。すると、雲門は
「汝に三頓の棒を放(ゆる)す」 と。

「一頓」は20発なので「三頓」で 60発。「棒で殴ってやりたい
ところだが、今日はこらえておいてやろう」と 痛烈な言葉を
投げ掛けられたのだ。

正直に答えたのに「棒で殴られる」とはいったいどういうことか。
洞山は、何がなんだか、さっぱりわからない。一晩苦しみ悩み
考えても解けない。そこで翌日、また雲門の所へ行き、
「私のどこが間違っていたのでしょうか」と問うと、雲門は、
「(禅の盛んな)江西湖南を廻りながら、この無駄飯喰いが!」と
大喝した。そこで洞山は大悟した。
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というもの。

「洞山は正直に答えたのに、どうして雲門に殴られなければ
ならなかったか」というのが命題です。また洞山は「無駄飯
喰い」と云われて、何をどう悟ったのか。

一休もこの命題に取り組み、長い月日、悩み苦しんでいた。
そしてある時、平家琵琶の『祇王と仏御前』の条を聞き、
一晩 泣き明かして、ようやく解けたのだという。

さて一休は、何をどう悟ったのかは、どこにも書かれていません。
その答えが、私の「一休語り」のテーマなのです。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。