広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

普化宗の公認は昭和25年のこと

2014-07-08 13:23:32 | 一休の系譜

「海童道」が「普化宗管長」を称していたというが、
「普化宗」というのは、かつて存在していなかった。
そのような寺も無い。だから「詐称」である。
「海童道」は「普化宗管長」ということで、政財界からも
一目おかれ、丁重な扱いを受けていたようである。
名古屋や大阪に出張した折は、それぞれの警察署長が
公用車で駅まで出迎えている。なぜそこまでVIP扱い
されるようになったのかも謎である。稀代の「詐欺師」で
ある。それだけに愛されているから不思議。

・中国には普化宗は存在しなかった。
・普化宗を日本に伝えたという法灯国師覚心は普化を知らなかった。
・江戸時代でも、虚無僧寺本寺の一月寺、鈴法寺は普化宗と名乗らなかった。
・京都明暗寺が、江戸の一月寺・鈴法寺と対抗するために「法燈国師
 覚心」を担ぎだして「普化禅師」と結びつけ「普化宗」なるものを
 創作したと考えられる。
・江戸幕府は当初、虚無僧を浪人対策として黙認していたが、横暴ぷりが
 目にあまるようになると、取締まりを強化するようになった。
・明治政府は、法令で普化宗を廃止し、尺八を吹いて門付けすることを
 禁じた。虚無僧最後の人といわれる谷狂竹は3回も逮捕されている。
・京都東福寺の塔頭善慧院内に寄宿するカタチで『宗教法人 普化正宗
 明暗寺』として登記されたのは、戦後の昭和25年であった。


というわけで、普化宗が正式に国家、また宗教界に公認されたのは、
戦後のことなのである。
現在、東福寺の善慧院の門に、『明暗寺』の看板は掲げてあるが、
そこに普化宗の住職や虚無僧が常駐しているわけではない。
東福寺も善慧院も臨済宗の寺であり、ご住職も臨済宗の僧侶である。
ご住職のご理解と好意で、全国200名ほどの虚無僧尺八愛好家の
ために、『明暗教会会員証』と『行化証』を発行していただいている。

私としては不本意であるが、虚無僧で周っていると「許可証あるか」
と聞いてくる人もあるので、カタチに頼る人のために携帯している。

カタチを求めるのであば、一応『宗教法人普化正宗明暗寺』発行の
認可証を得ているのであるから、私は「天下御免の虚無僧」である。



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

誰も知らなかった「一休と森女」の真実

2014-07-07 09:14:19 | 一休の系譜
一休は77歳で「森女」という盲目の女性にめぐりあい、
88歳臨終まで、溺愛する。一休の弟子たちによって
書かれた『一休和尚年譜』には、なぜか「森女」の
ことは書かれていない。禅宗の僧であり、大徳寺の住持と
なった一休が女と同棲していたなどということは、
隠すべきことと思ったのか。

しかし、一休は自著『狂雲集』で、「森女」への愛を
赤裸々に歌っている。

それで、水上勉や小椋桂などは、一休を「エロ坊主」と
描いている。大方の書は「森女」は貧しい生まれの
辻女、旅芸人。琵琶弾きか、三味線を弾くゴゼなどと
書いている。女の琵琶法師などいるわけがない。
三味線は 一休の時代にはなかった。ゴゼは幕末から
明治の所産。こんなでたらめが平然と通ってきた。

大方の作品が、一休は 彼女の境涯を哀れんで、庵に
招きよせて 手篭めにしたとする。

しかし、一休があそこまで赤裸々に男女の交わりを
語るということは、何か裏があるとしか思えない。
また「森女」は、“無学な乞食女”とは 思えぬ
気高さと気品が感じられる。

それが「一休と森女」の謎だった。それが解けたのだ。

一休の『狂雲集』を信ずれば、「森女」は、かつて、
薪村の酬恩庵まで、一休を訪ねてきている。「森侍者」は
「余の風采を聞いて」訪ねてきたとある。そして
「森女」は[王孫」であり、その「美誉」を聞いて、
二人で ある約束事を交わしたというのである。

一休はその約束事を忘れていたが、住吉の薬師堂で
再びめぐり会って、そのことを思い出した。「森女」は
その約束を覚えていて、また相思う関係となった。

一休は「森女」のことを「一代の風流美人」といい、
「森女の深恩を もし忘れるようなことがあったら、
あの世で畜生の身に落ちるだろう」と詠じている。

一休は森女に頭が上がらないほどの深い恩愛を感じている。
「三世を約束する」ほどのそ深い恩とは、単なる男女の
情交とは思えない。

そこで、もうひとつ、住吉神宮について、大変な事実が
隠されていたことがわかった。

住吉神宮は、かつて南朝の後村上天皇の行在所であり、
南朝の遺臣の拠り所だった。また、住吉神宮は当時
神仏習合で、神宮寺は大徳寺の一世「徹翁」の弟子
「卓然宗立」の創建であった。「卓然」は住吉神宮の
神官「津守」氏の一族である。つまり、住吉は大徳寺と
深い関係があったのである。

「森女」はまさに「津守(もり)の女(娘)」であり、
「王孫」というのだから「後村上天皇」の子で、南朝
最期の天皇「後亀山天皇」の孫娘ではなかったか。

「後亀山天皇」が北朝の「後小松天皇」に「三種の神器」を
譲り渡して、南北朝の合一が成る。一休の父は、北朝の
「後小松天皇」。母は南朝の忠臣「楠木」。
そして「森女」は南朝の後亀山天皇の孫娘。二人の間には
謎めいた不思議な因縁があったのだ。

また、南朝の系統は、山伏とも深く関わっていた。
山伏の本山、京都の「聖護院」や 熊野の「天河神社」も
「森御殿」と呼ばれていたとのこと。

一休と森女は、ともに、天皇の血筋であり、南朝方と
いうことで結ばれた。

そしてまた、住吉神宮は古来、芸能が盛んで、舞楽を
伝えていた。であるから「森女」は住吉神宮の宮司の
一族で、巫女として舞楽を演ずる女性だったのである。

「森女」はある目的をもって、薪村に一休を訪ねた。
戦乱と土一揆、天変地異が相次ぎ、庶民は飢え餓死
するもの後を絶たずの荒れ狂った時代。盲目の女性が
一人、堺から薪まで歩いていけるだろうか。
越後のゴゼさえ、先導し、世話をする目明きの者が
ついていて、旅をしている。

障害のある者が生きられる時代ではなかった。
「森女」には、当然、お供の者が同行していたと
思われる。そして、ある目的をもって一休を訪ねて
きた。そして一晩で“いず方ともなく”去っていった。

だから、突然の来客の要請を一休は聞き流して、
忘れていた。

それが、文明2年(1470)、一休77歳。住吉神宮で
偶然再会したことで、約束を思い出した。
その約束事とは何だったのか。これは私の想像で
しかないが・・・・。

一休を大徳寺の住持として入山させることだった
のではなかろうか。

一休は、大徳寺の「華叟」から印可を認められたが、
それを受け取らなかった。つまり大徳寺の住持になる
資格を得たが、それを拒否した。それで、大徳寺の
住持は兄弟子の「養叟」がなったが、この「養叟」と
一休は犬猿の仲で、はげしく対立した。

大徳寺の開祖「大燈国師」は 賀茂の河原で20年
乞食の行をした。一休と養叟の師「華叟」は 大徳寺から
離れ、堅田で厳しい禅の修行一筋だった。しかるに
なんぞ、養叟は、大徳寺の奥に居座り、裕福な商人たちに
禅を金で売って、私腹を肥やし、安逸に暮らしている。
それが許せんと、一休は怒った。

大徳寺は、一度焼失している。その焼失した大徳寺を
養叟は、堺の商人たちから“まきあげた”金で再建した。
臨済禅の公案の“とらの巻”を売って、公案を解けた
者に、また資格を与え、金をとる。倭寇が明から
もたらした茶壷や、茶器、書画の類を買い占めて、
法外な値を付けては、大名や公家に売って儲ける。
そうしたことを一休は唾棄し、養叟を恨み憎んだ。

大徳寺は、養叟亡き後も養叟の流れが法脈を継いでいた。
大徳寺を 開祖の「大燈国師」や、師の「華叟」の
純粋禅の精神に戻すには、一休自らが大徳寺の住持に
ならなければならない。だが、まともには大徳寺の
住持には なれない。

住吉の神宮寺は、大徳寺の開祖の薫陶を受けた「卓然」
の開創である。住吉の神宮寺としても、腐敗堕落した
大徳寺を本来の禅寺にしたい願望はあったろう。その
白羽の矢を「一休」に当てた。

はじめは、聞き流していた一休だが、住吉に住んで、
住吉神宮の津守氏の庇護を受けるなかで、大徳寺の
住持を引き受ける決心がついた。

一休は「森女」に導かれて住吉神宮との縁ができ、
そのバックアップで大徳寺に入山し、積年の養叟一派
への恨みを晴らすことができたのである。

その時、大徳寺は応仁の乱で焼かれ、焼失していた。
一休は、兄弟子養叟と同じく、堺の商人たちの協力を
得て、81歳から86歳まで、6年の歳月を要して
大徳寺を再建した。

しかし、現代のお金に換算して20億円ともいわれる
大金は、兄弟子養叟は、禅を金で売って集めたが、
一休は、篤志家からのほんとうの善意の布施で集めたと
自負している。それほど一休の人気があったということだ。

そして、大徳寺は完成しても、一休は大徳寺には入らず、
薪村で尺八を吹き、森女の膝枕で大往生した。

そして、一休最期の言葉は「一休は死なぬ。未来永劫
生き続ける」だった。そのことばどおり「華叟」も
「養叟」も我々は知らないが、「一休」の名だけは
「一休さん」と「さん」づけで、誰もが知っている。
誰もの心の中に生き続けているのだ。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「屏風の虎」の話は明治になってから

2014-01-11 22:52:45 | Weblog
アニメの「とんちんかんちん一休さん」では、一休が
将軍さまと智慧くらべする話が度々出てくる。
「一休とんち話」の代表格は「屏風の虎」だが、江戸
時代の「一休噺」には、将軍をやっつける話は無い。

幕末に足利三代の像の首が切落とされた事件の幕府の
対応のように、足利であっても、将軍様をこ馬鹿にす
ることは、畏れ多く憚れたことであろう。

一休が、義満ではなく8代将軍義政を諌める話は、
曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』に登場する。一休が
虎の絵に例えて、将軍の享楽を揶揄する話で、虎を
捕らえるという話ではない。

『屏風の虎』は、明治の講談で初めて出てくるので
ある。『この橋渡るべからず』にしても、明治以降、
一休は大ブレークして、次々と絵本やら講談が生ま
れる。

水上勉の『一休』も、大正2年刊『一休和尚行実譜』
という講談本を紹介して一休の話を展開させている。
「奥書に元禄2年刊の原本があった」と書いているが、
どうもあやしい。
『虚竹の笛』の『和漢竹管往来』同様、『行実譜』も
水上勉の創作であったかもしれない。いかにもあり
そうな「原典」を創作して、それに拠ることで史実と
思わせるのは実に巧妙な手法だ。




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

居酒屋一休 ラブホテル一休 300万件!

2014-01-11 22:51:47 | Weblog
10年前、私が『尺八と一休語り』を始めた時、インターネットで
「一休」を検索すると、3万件もあって驚いた。今検索してみると
300万件を超える。10年で100倍だ。
その大半は、居酒屋、小料理、喫茶店、ホテルなどで、一休禅師
とは関係ない。 

一休がいかに親しまれているかという証左であろう。
「一休は死なぬ、未来永劫生き続ける」の遺言どおり、一休の名は
これほど多くの人の心の中に刻まれているのである。                                                  今や一休さんの名は、アニメで東南アジアまで広まり、子どもたちが
「スキスキスキスキ一休さん」と日本語で歌っているという。     

京田辺市の一休寺には、東南アジアからのツアー客が、一休さんの
絵が染め抜かれたティシャツを着て、押し寄せているという。   
でも、一休寺に祀られている一休の像を見て、あまりの乖離、ギャップ
に驚きの声を発するそうだ。

一休の実像と大きくかけ離れて一人歩きしても、居酒屋やラブホテルの
名前に使われようとも、あの世の一休さんは、平気へいき気にしない
気にしない、だろう。だからこそ600年生き続けていられるのだ。
                                                                   
                                                                             
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

東映アニメ とんちんかんちん一休さん

2014-01-11 22:51:27 | Weblog
TVで「とんちんかんちん一休さん」が放映されていたのは、
1975(S50)年~1982(S57)年。我々団塊の世代が
結婚して、第二次ベビーブームの世代が生まれ育った時代だ。
今30代とその親達の世代が見ていたわけだ。

最近は放映されていないので、幼稚園や小学校で一休さん
の話をしても、反応が無いのは悲しい。

東映アニメの一休さんは、クリクリ坊主でホントにかわいい。
しかし、テーマソングは実によく一休をとらえていて、3番の
歌詞は、
    お目めは かわいく 一級品
    だけど お顔は 残念だよ 三級品
    アーァ アーァ ナムサンダー
    気にしない 気にしない

である。
一休寺に安置されている一休の等身大の像は、一休最晩年87歳、
亡くなる前年に、自らの髪の毛と髭を抜いて植えつけて造られた
といわれ、超リアルである。

一休の頂相(ちんそう=肖像画)も何点か残されているが、髪も
蓬髪、無精ひげを伸ばした顔は、とても天皇のお子様とは思えない。
田舎のおっさん(田吾作どん)の顔である。アニメのキャラクターを
信じて来た人がびっくりするのも無理はない。

でも、歌詞の通り「気にしない、気にしない」 そう一休はいう。 

「髑髏になってしまえぱ、男か女か、やんごとなき姫君か、遊女かも
わからんではないか。鼻が高いの低いの、ブスも美人も面の皮一枚。
ほんのわずかの差よ」と。
そう思えたら、顔のつくりが多少まずくとも悔やむことはない。

それが、一休の禅だ。
虚無僧の普化道も、他人との比較をしない。尺八の上手下手も
問わない世界なのである。
他人の思惑を気にしなくなれば、ストレスは無くなるのである。

「虚無僧はあんな不恰好な天蓋をかぷっているの何故?」と聞かれる。

その答えの一つになるか。
私は、天蓋をかぷったままで地下鉄やバスにも乗る。
「さぞや恥ずかしかろう」と思われるかもしれないが、
いざ乗ってみると、周囲の人は意外にも、そしらぬ顔である。
世の中皆忙しい。変わった人がいても無視無視無視でなのである。
「他人はどう見るだろう」なんて期待は見事に裏切られ、そんな
心の自分が恥ずかしくなる。

他人の思惑が気にならないようになるには、虚無僧の格好で街を
歩くのが一番。ぜひ体得してみませんか。ストレス解消法に最適。








             











コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「一休」の名は

2014-01-11 22:51:06 | 一休の系譜
「一休」さんの話は、大抵江戸時代以降の創作です。

現在出版されている「一休」の本」を読むと、「一休」と
言う名前について、「一休が 20歳の時に悟りを得て、

無漏路より有漏路に帰る一休み、雨降らば降れ、風吹かば吹け

と詠み、それで師から「一休」という名をもらった」などと
書かれています。「一休和尚年譜」などには、そのような
記載は無く、これも江戸時代の戯作者の創作でしょう。

しかし、これを作った人は「一休」の真髄をよく突いています。

「漏」は「穢れ、煩悩」の意味だそうで、「無漏路(むろじ)」
すなわち「煩悩の消えた悟った自分」が「有漏路(うろじ)」
つまり「また煩悩が芽生えて、悟りきれぬ自分に戻ってしまった。
「悟ったかと思うと、煩悩に苦しむ。その間を行ったり来たり。
いやもう、行ったり来たりするのもやめて一休み、一休み。
雨も降ればいいさ、風も吹けばいいさ。

てな意味でしょうか。「無漏と有漏」の一方に偏らずに中道を、
それこそ「この橋(端)渡るべからず」の心なのだぁぁ。

さて、中日新聞の夕刊に連載の「水軍遥かなり」(加藤廣)に
「無漏、有漏」の話が載っていました。

九鬼水軍の長となる「守隆」は、まだ童貞で女子に興味がない。
そこで爺の「武吉」が遠まわしに話しをする。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「漏は煩悩の意味、水時計という意味もあるらしい。なぜ、
漏が煩悩なのか、お考えになったことはございませぬか」と。

(はて、私も考えたことが無かった)。

「男はおなごを抱けばわかります。おなごを知らぬ男には、
千万言を費やしても、この意味わかりませぬ。解っても
実感がござらぬ、わはははは」

(ここまで読んでも、守隆同様、解らぬ私でした)

「じいは、妻を失った時は、これでもう無漏の境地に入れると
思いましたが、ひょんなことから若い後妻をもらって、考えが
変わりましたな。老骨をふるって無漏をやめ、漏らすように
したところ、不思議や、男の気力が戻りましてござる」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これで、はたと得心いたした次第。一休さんも77歳で
盲目の「森女」に出会って、「老木が甦った」と歓喜する。

「有漏、有漏」で「ウロウロ」じゃ。



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「有漏路・無漏路」の意味

2014-01-05 23:26:08 | 一休の禅
「有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)に帰る一休み
  雨降らば降れ 風吹かば吹け」

師から「一休」の名をもらって、すかさず詠んだと
されるが、これも、後世(江戸時代)の人の創作だ。


「漏」は穢れ、煩悩。有漏路は穢れや煩悩のある世界、
すなわち現世。無漏路は穢れも煩悩も無い世界、前世、
来世、あの世。「現世は、前世から来世に行くほんの
一休みの間なのだから、怖いものもない。雨降ろうと
風吹こうと平気平気」と、一般に解釈されているが、
私はちょっと違う解釈だ。

一休は禅僧だから「前世や来世など知らん」と言って
いる。「あるのは現実の今だけだ」と。

人は煩悩に苦しむ。煩悩を捨て悟ったかなと思っても、
また煩悩が湧き出てくる。悟りと煩悩の間を行ったり
来たりすることにもまた悩む。その迷いに疲れて一休み。
もういいや、雨降ろうと風吹こうと、いちいち悩み
苦しむのもバカらしい。や~めた。

というのだ。良寛も「悟りを得ようと努力することも
やめた」と言っている。その境地と同じだ。

私も、もう何も悩まず、「過去を悔やまず、明日を
憂えず」で、生きることが楽になった。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

一休の母

2014-01-05 23:23:35 | 一休の系譜
一休の母について、日野中納言の娘「伊予局」とか、藤原顕純の娘、
花山院の娘などと、色々云われているが全部嘘である。根拠は
全く無い。

母について書かれた唯一の書は、一休没後まもなく弟子達によって
編纂された『一休和尚年譜』である。そこには、

「母は藤原氏、南朝の高官の胤、後小松帝の寵愛を受けていたが、
懐剣を隠し持って帝の命を狙っていると后に讒言されて、宮中を
追われ、民間にはいって一休を生んだ」としか書かれていない。

日野とするのは、後年楠木の残党が禁裏を襲って三種の神器を奪う
事件が起きた時、日野某が手引きしたことによるものと考えられる。

昭和36年、大阪に住む楠木の子孫と名乗る人が、系図を公開し、
新聞に載り話題となった。そこに

「楠木正成の三男正儀(まさのり)とその子正澄が河内倉満ノ庄
津田村(現枚方市)を経て、八箇ノ庄水島(現門真市三つ島)に
移り住んだ。正澄の三女が後小松院の官女となり、一休を産んだ」

と、かなり具体的に書かれてあった。「慶長17年(1612)年に書き
写した」との奥書もあって、真偽論争もされぬまま、忘れ去られて
いる。京都大学教授の「東 光(あずまひかる)」という教授が
太鼓判を押して発表したので、後に何かの記事に「“今東光”氏も
楠木説」とあって笑ってしまった。「今」氏もあの世で ビックリ
していることだろう。

門真市三つ島の下三島公園横に「一休の母の墓」というのがある。
たぶん、昭和36年にこの記事が公表されからのものと思われるが、
もしそれ以前から、そういう言い伝えがあったとすると、この
「楠氏系図」を裏付けるものとなる。真相はいかに。



「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。

日記@BlogRanking 「60代の日記」ランキングです。クリックお願いします。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

一休の悟り

2014-01-05 23:21:21 | 一休の系譜
一休は25歳の時、盲目の平家琵琶師が語る『祇王失寵』を
聞いて、一晩泣き明かし、『洞山三頓』の公案を解いたという。
何をどう説いたのかは、どこにも書かれていない。

一休が『祇王失寵』に落涙したのは、平清盛の寵愛を受けていた
祇王が、若い仏御前の出現で、清盛の屋敷から追放されたことか゜
まさに一休の母の境涯に似ていたからであろう。一休の母は、
後小松天皇の寵愛を受けながら、南朝の血筋ということで、
宮中を追われたのだった。一休は『祇王』の悲歌を聞いて、
母を思い出し泣いたのであろう。

寺を飛び出し、琵琶湖畔で一晩泣き明かしたというから、
悲しみは尋常ではない。そして、やがて夜が明け、涙も
枯れ果てて、「洞山三頓」の公案が解けた。

一休は、母を捨てた父、後小松帝を憎んでいたことだろう。
南朝の血筋に生まれた母を憐れんだかもしれない。南と北で
争う世の非情を嘆いていたのかもしれない。

一休は自分の父が北朝の後小松帝で、母が南朝方という出自に
嘆き苦しんだ。「自分はいったい何者。天皇の子であり、また
悪党の血筋」という出生の秘密。天皇の子でありながら天皇に
なれない。安国寺に入れられたが、その寺を飛び出し、西金寺、
祥瑞庵と転々としてきており、僧侶としての出世の道も無い。

その悩み苦しみを解いてくれたのが『洞山三頓』の公案だった。
「人はどこから来て、どこへ行くのか」と問われて、正直に答えて
殴られそうになった洞山に、出自にこだわっていた自分を反省
したのだ。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

一休、大徳寺の住持に

2014-01-05 23:20:21 | 一休の系譜
水上勉と小椋圭によって、さんざん「エロ坊主」にされて
しまった一休さん。それでも「平気平気、気にしない」の
一休さんだろう。

一休の唯一の書『狂雲集』は、詩偈を集めたもの。その
最後の方に、大徳寺の住持となっての「入室」の語と
「退室」の語が続けて掲載されている。そのため、多くの書では
「一休は大徳寺の住持に就任しながら、就任式をすっぽかして
欠席した」とか、1日で住持の肩書きを返した。「三日坊主、
ならぬ一日坊主だった」などとしている。
水上勉の『一休』にいたっては、「森女が流産しかかって、
狼狽しまくって、大事な晋山式に行きたくとも行かれなかった」
などと創作している。とんでもハップン。

よく考えてみれば、その時、大徳寺は応仁の乱で焼失して
いたのだから、立派に飾られた本堂で、大勢の衆僧に
迎えられての きらびやかな就任式など 営めたはずはない。

『狂雲集』は、詩偈を集めて編集したものだから、就任時と
退任時の『法語』を並べて載せただけのことなのだ。

さて、そこには「入室」として「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打」の
「普化禅師」の偈が書かれていた。
「退室」の偈は「尺八を弄していう、一枝の尺八、知音少(まれ)なり」。

この『狂雲集』の最後に掲載された一休の「法語」こそ、
「普化」の偈「明頭来」と尺八とを結びつけた最初のもので
あることに注目したい。

これが一休の死後、「普化僧=虚無僧」が現れる元となったと
私は考えている。尺八家にとって、虚無僧にとって、一休の
この「法語」は金科玉条のものとなるのだが、それに気づく者は
誰もいない。水上勉ののおかげで長らく、ぶっ飛んでしまって
いたのだ
コメント
この記事をはてなブックマークに追加