常識の嘘 尺八は一尺八寸に非ず

2007-07-29 22:09:32 | Weblog
「尺八は、その長さが一尺八寸なので尺八と言う」

どの本を見ても そう書いてある。ホントかな??

一休さんの尺八は1尺1寸くらいの短いものである。
正倉院と法隆寺に伝えられてきた古代尺八は、いずれも1尺4寸前後、
長さ不ぞろいである。一休の室町から戦国時代までの中世尺八も、
皆1尺4寸前後と短いのだ。
江戸時代の中頃まで1尺8寸の尺八なんて存在しなかったのに、
なぜ尺八というのか。
   
それは、「中国唐代の1尺は今の半分、9寸くらいだった」とか 
9寸を基準にしたが、その倍の「1尺8寸」と名づけたのだ、とか
学者先生方が苦しい解釈をして、定説になっている。

長さがまちまちなのに、なぜ長さを名称にする必要があったのか。
そもそも尺八は、エジプト、メソポタミア、インド、ネパールなどを
経由して中国に入ったのであるから、それ以前から名前があったはず
である。

それは「チーパー」だった。チーパーに中国人が[尺と八]の漢字
当てはめたと考えるのが自然であろう。
パーリー語の「ぱーにゃーはらみった」に「般若波羅蜜多」なる漢字を
当てただけで、漢字から意味をとらえるのは無理があるのと同じだ。

では「チーパ」とは。
なんのことはない「チューブ」と同義。『管』のことであろう。

管楽器のチューバ、アンデスのケーナも元は一緒ではないかと、
私は考えている。

唐代の長さが半分だったら、法隆寺も半分の大きさになってしまうでは
ないか。法隆寺も、現代に近い1尺=33cmで造られているのである。

こんなカンタンなことが、どうして誰も気がつかないのか。
定説としてみんなが信じて疑わないでいることには、危うさを感じる。
「常識も疑ってかかれ」これも、一休がえ教えてくれているのだ。

              
              























  

慶応出て虚無僧!?

2007-07-29 22:08:18 | Weblog
エスカレーター式に慶応の大学を卒業し、保険会社にも就職できたことは、
親に感謝しなければならない。
「大学まで出したのに虚無僧!!!」母親の嘆きと怒りは大変なものである。


「地位、肩書き、名誉などにこだわるな」「肩書きなど捨てた生き方を」と、
『一休語り』で講演している私であるが、学歴が無くてそれを言っても、
重みは無いであろう。そういう意味で「慶応卒の肩書き」は役に立っている。

一休は、後小松天皇の落胤。101代天皇になれる人であったが、天皇にならず、
名ある寺の住職にもならず、地位、名誉を捨てた生き方を貫いた。のだが、
81歳の最晩年になって、天皇の要請で「やむなく」大徳寺の住持となる。
だが、大徳寺には住まず、薪村の酬恩庵で森女という盲目の女性を愛し、
88歳の生涯を終えた。だから面白い。

万沢安央(康夫)さんを探しています

2007-07-22 21:09:46 | Weblog
私の祖父の姉か妹かが酒井勝軍(かつとき)に嫁いでいる。 
酒井勝軍についてインターネットで調べると、当初はアメリカに留学し、
クリスチャンとなり、東京本郷に東京唱歌学校を設立して、賛美歌を通じて
キリスト教の伝道を行っていた。高村光太郎の姉も通っていたという。
酒井勝軍の娘である智慧さんとその夫がピアニストであつたことは、これで
納得できる。ロシア戦利品のピアノを下賜された可能性も十分考えられる。

話を戻して、そんなすごい人が親戚にいて、私の家までピアノを教えにきて
いただいていたのに、私には才能無く2,3年で挫折し、それ以後万沢さんとは
疎遠になってしまった。万沢智慧さんには二人の息子さんがいた。当時、
車など庶民は持てない時代に、車関係の仕事をしていて、トヨタクラウンに
乗っていて驚いた。もう50年も会っていないが、インターネットで、バイク
の「出光イーハトーブ・トライヤル」の主催者大会会長として載っているの
を見つけた。2002年のことで今では引退し、岩手県の安代町に移住している
ことまで判った。消息を知る方がおられたら、ぜひ教えていただきたい。

                                                                                                      

万沢智慧さんは、私が虚無僧として生きる原点

2007-07-22 21:09:24 | Weblog
これまで酒井勝軍のことなど単発的に書いてきたが、それが実は、
私が今虚無僧として生きていることの原点になっているからだ。
ピアノの先生であった万沢智慧さんのことを、私は今でもはっきり
覚えている。母は音痴の私を心配してピアノを習わせたのであるが、
そのことが裏目に出て、私は洋楽嫌いとなり、尺八に傾倒してきた。
しかし、ピアノを習っていたことが、尺八に多いに役立った。
その頃の尺八家の多くは五線譜など読めなかった。ところが、昭和
40年代、尺八は洋楽系の作曲家に注目され、尺八を使った曲がどんどん
作曲され、現代音楽ブームが沸き起こった。その時、五線譜が読めた
私には、結構活躍の場があったのである。
これが、優越感となり、私の人生を支えてきた。

また、万沢さんが父の従姉妹であり、酒井勝軍の娘であることは、私
にとって祖父や先祖への関心を高める因縁となっていた。私の家にも
酒井勝軍の著書があり、子どもの頃から読んでいた。父は「きちがいだ」
と言って万沢さんとは親戚付き合いをしていなかったが、その不思議な
世界観に私は子どもながらに惹かれていたのだ。

尺八への傾倒。歴史への関心、先祖探しの旅、それがすべて子どもの
頃に培われ、私が今虚無僧として生かされている原点になっている。

                  



はじめまして 平成の虚無僧一路です

2007-07-21 07:06:16 | Weblog
パソコン全くド素人でおっかなビックリ このブログを開設しました。
尺八吹いて50年。虚無僧しながら、講演と尺八演奏を生業にして
います。
ホームページを高校2年生の一珍名君が作ってくれています。
ぜひそちらも見てください。「尺八と一休語りの虚無僧一路」
「虚無僧一路」検索で出ます。
 

ブログを開くきっかけは、ある音楽会で、アメージンググレースと
ダニーボーイを尺八でと、頼まれました。さてどんな風に吹けば
いいか?と、インターネットで検索してみると、何百件も出てくる。 
歌詞の意味も、音源も、楽譜もすべてが取り出せるのに感心。

その後、コンサート終わってすぐ翌日には、私の演奏を聴いて
くれた方が「ダニーボーイと尺八」と題してブログで書いてくれて
いる。その方にお礼の言葉を送りたく、やっとこさっとこパソコンを
始めた次第。以前にもいくつかブログで紹介されていて、いったい
どうすればコメントを送れるのかと思いめぐらしていた末、重たい
腰を上げたのであります。



  

7月1日中村文化小劇場音楽会参加

2007-07-21 07:05:58 | Weblog
第15回なかむら子どもの幸せと平和を願う音楽会に特別参加させてもらった。
主催は「中村ぞうれっしゃ合唱団」。
太平洋戦争のさ中、各地の動物園では動物たちが次々と殺された中、名古屋
の東山動物園の象だけは殺されずに生き残り、戦後、全国から象を見に、特
別列車まで仕立てて来園したという。それを歌と劇にして公演して以来、今年
で15回となるが、今年は、歌と踊りの発表会となった。

その冒頭で、私が虚無僧姿で登場し、アメイジンググレイスを吹く。また途中
でダニーボーイを吹くこととあいなった。虚無僧がアメイジング??。これが
また意表をついて、大いにうけた。かな?
ダニーボーイも、戦争に行ってしまった息子を想う老いた父親の心情を歌った
曲とか。平和を願う音楽会にはふさわしい選択であった。
                
   


                           

尺八は難しい?

2007-07-21 07:05:24 | Weblog
「首振り3年て言うから、難しいんでしょう?」てよく聞かれる。
私は、ピアノ、ギター、トランペット、クラリネットといろいろ
やったけれど全部ダメ。尺八だけが残った。私にとっては、尺八が
一番やさしい。3年努力すれば、いっぱしに人前で吹けるのだから、
こんな簡単な楽器はない。ピアノなど毎日10時間、10年練習しても
プロになれない。尺八は下手でも音が出るだけで、みんな感心して
くれる。プロの多くは尺八を初めて数年でプロになっている。私も
20歳の頃からセミプロとして結構な収入を得ていた。
最近は女性の時代。中学生の女の子でプロを目指し、話題となって
いる子もいる。
ご年配の方は、それなりに楽しみ方がある。今さらピアノやトラン
ペットをやるのはどうもという方は、尺八が一番手ごろだと思うの
ですが、いかがですか。
               



虚無僧の祖普化は尺八を吹けなかった

2007-07-19 22:18:36 | Weblog
虚無僧の歴史は、江戸時代の後半に刊行された『虚鐸伝記国字解』に、
「昔、中国の唐の時代に普化という禅僧がいて、鐸(鈴)を振り、明頭来
明頭打、暗頭来暗頭打と唱ながら托鉢していた。張伯なる者が弟子にして
くれと頼んだが断られ、張伯は尺八が得意だったので、普化の鐸の音を模
して尺八で吹いた。それで尺八のことを虚鐸(鐸に似せた物)という。
その後鎌倉時代に、由良興国寺の法灯国師が中国に渡って、張伯から15代
目の張参に尺八と普化禅を習い、また4人の弟子を連れて帰国した。云々

とあって、こんなでたらめな話が虚無僧の歴史としてまかり通り、インター
ネットのサイトやブログでまことしやかに書かれている。

普化宗は、普化から連綿として続いて、唐から宋、そして日本では鎌倉時代
に由良の興国寺の法灯国師覚心によって伝えられたと、皆信じて疑わないの
であるが、どう考えてもおかしい。

普化は張伯の願いを無視して行ってしまったのだから、張伯は、普化の正統
な法嫡ではない。また普化は尺八なんか吹いていなかったのである。鐸の音
を尺八で模して吹くことが普化宗だと、話がすり替わっている。


この『虚鐸伝記』は、誰が見ても矛盾だらけで、偽書であることは早くから
言われているのにもかかわらず、インターネット上で堂々まかり通っている。
この危うさに黙視できず、パソコン嫌いの私が、やむにやまれずこのブログ
を立ちあげたのであるが、ここで誤解されては困る。
単なるアラ探しで虚無僧史の虚偽を正そうというのが私の真意ではない。
この虚実の世界を理解してこそ、虚無僧の真実に迫れるのだ。




















一休は普化の再来

2007-07-19 22:18:16 | Weblog
普化は、経典を読むこともしなかった。劣等児である。釈迦などクソ喰らえ。
経文など要らん。ただ鈴を振って「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打(みょうとう
らいみょうとうだ、あんとうらいあんとうだ)と唱えて街を往来していた。
何を問われても「みょうとうらい・・・」である。
一休は『臨済録』を読んで、臨済よりもこの普化の奇行に興味をひかれたの
である。
 
  仏という厄介者のおかげにて 釈迦も達磨も迷わさる
  釈迦といういたずら者が世に出でて、多くの者を迷わするかな

これは一休の作とされるが、江戸時代のものであろう。しかし一休の行状を
よくとらえている。そこでこんな川柳もできた。

  一休の釈迦をそしりたるおかげにて 多くの者がうろたへぞする

釈迦も仏も経典も否定する普化そして一休。戦国から江戸時代初頭にかけて
大量に発生した浪人の中には、百姓になるのも、仏門にはいるのもイヤという
怠け者もいただろう。彼らにとって普化と一休の生き様は、大変都合がよかっ
た。経典を学ぶことも、戒律を守ることも必要ないのであるから。
こうして無頼の浪人共が普化を祖と仰いで、普化宗なる教団を勝手に創った
というのが真相であろう。

こう言うと、まじめに虚無僧にあこがれている方々の反発を招くであろうが、
私も一休と普化のまじめな信奉者である。ここからがいよいよ真実一路だ。










死んでやる死んでやると宣言して昇天した普化

2007-07-19 22:17:54 | Weblog
普化の最期は摩訶不思議だ。

普化はいつも裸同然の格好で街を歩いていた。
人々が衣をさし出しても受け取らない。そこで臨済は「あいつには
これがふさわしい」と棺桶を持って行かせた。すると普化は、棺桶
を担いで、「東の門で死んでやる、死んでやる」と言いながら、東
の門に向かった。街の人々も面白がって着いてい行ったが、普化は、
東の門に上ってもなかなか死のうとしない。陽も暮れて、普化は、
「今日はやーめた。明日南の門で死のう」と。
翌日街の群集が南の門に集まったが、その日も死のうとしない。
「やっぱやーめた、明日西の門で」と言う。
翌日西の門に集まった人は、昨日よりは大ぶ減っていた。結局普化
は死ななかった。そして「明日北の門で死ぬ。ぜっーたい死ぬ!」
と大声でわめいたが、こうなるともう「狼少年」だ。翌日はもう誰
も来なかった。そこで普化は棺桶にはいって、通る人に釘を打って
くれと頼んだ。
しばらくして普化がとうとう死んだらしいという噂がたち、人々が
北門に行って棺桶の蓋をはずしたところ、空っぽ。一条の煙が舞い
上がり、きれいな鈴の音が鳴り渡った。

『臨済録』の著者は何を言いたかったのか?
「死んだ」と言えばそれまでだが、死とは迷いの無い世界である。
普化は「最終解脱」を果たしたのだ。「最終解脱」とは、生老病死
の一切の悩みから解き放たれること。迷いの無い世界。如来の境地
に達したことを意味しているのである。

「最終解脱?」なんか聞いたことある?そうオウム真理教の麻原も
そんなことを言っていたっけ。麻原も普化を真似たのである。

一切の迷いから解き放たれること、それが仏教の悟りだ。一休が悩
み苦しんだ末、あこがれたのは普化の「最終解脱」だったのだ。