一休は77歳で「森女」という盲目の女性にめぐりあい、
88歳臨終まで、溺愛する。一休の弟子たちによって
書かれた『一休和尚年譜』には、なぜか「森女」の
ことは書かれていない。禅宗の僧であり、大徳寺の住持と
なった一休が女と同棲していたなどということは、
隠すべきことと思ったのか。
しかし、一休は自著『狂雲集』で、「森女」への愛を
赤裸々に歌っている。
それで、水上勉や小椋桂などは、一休を「エロ坊主」と
描いている。大方の書は「森女」は貧しい生まれの
辻女、旅芸人。琵琶弾きか、三味線を弾くゴゼなどと
書いている。女の琵琶法師などいるわけがない。
三味線は 一休の時代にはなかった。ゴゼは幕末から
明治の所産。こんなでたらめが平然と通ってきた。
大方の作品が、一休は 彼女の境涯を哀れんで、庵に
招きよせて 手篭めにしたとする。
しかし、一休があそこまで赤裸々に男女の交わりを
語るということは、何か裏があるとしか思えない。
また「森女」は、“無学な乞食女”とは 思えぬ
気高さと気品が感じられる。
それが「一休と森女」の謎だった。それが解けたのだ。
一休の『狂雲集』を信ずれば、「森女」は、かつて、
薪村の酬恩庵まで、一休を訪ねてきている。「森侍者」は
「余の風采を聞いて」訪ねてきたとある。そして
「森女」は[王孫」であり、その「美誉」を聞いて、
二人で ある約束事を交わしたというのである。
一休はその約束事を忘れていたが、住吉の薬師堂で
再びめぐり会って、そのことを思い出した。「森女」は
その約束を覚えていて、また相思う関係となった。
一休は「森女」のことを「一代の風流美人」といい、
「森女の深恩を もし忘れるようなことがあったら、
あの世で畜生の身に落ちるだろう」と詠じている。
一休は森女に頭が上がらないほどの深い恩愛を感じている。
「三世を約束する」ほどのそ深い恩とは、単なる男女の
情交とは思えない。
そこで、もうひとつ、住吉神宮について、大変な事実が
隠されていたことがわかった。
住吉神宮は、かつて南朝の後村上天皇の行在所であり、
南朝の遺臣の拠り所だった。また、住吉神宮は当時
神仏習合で、神宮寺は大徳寺の一世「徹翁」の弟子
「卓然宗立」の創建であった。「卓然」は住吉神宮の
神官「津守」氏の一族である。つまり、住吉は大徳寺と
深い関係があったのである。
「森女」はまさに「津守(もり)の女(娘)」であり、
「王孫」というのだから「後村上天皇」の子で、南朝
最期の天皇「後亀山天皇」の孫娘ではなかったか。
「後亀山天皇」が北朝の「後小松天皇」に「三種の神器」を
譲り渡して、南北朝の合一が成る。一休の父は、北朝の
「後小松天皇」。母は南朝の忠臣「楠木」。
そして「森女」は南朝の後亀山天皇の孫娘。二人の間には
謎めいた不思議な因縁があったのだ。
また、南朝の系統は、山伏とも深く関わっていた。
山伏の本山、京都の「聖護院」や 熊野の「天河神社」も
「森御殿」と呼ばれていたとのこと。
一休と森女は、ともに、天皇の血筋であり、南朝方と
いうことで結ばれた。
そしてまた、住吉神宮は古来、芸能が盛んで、舞楽を
伝えていた。であるから「森女」は住吉神宮の宮司の
一族で、巫女として舞楽を演ずる女性だったのである。
「森女」はある目的をもって、薪村に一休を訪ねた。
戦乱と土一揆、天変地異が相次ぎ、庶民は飢え餓死
するもの後を絶たずの荒れ狂った時代。盲目の女性が
一人、堺から薪まで歩いていけるだろうか。
越後のゴゼさえ、先導し、世話をする目明きの者が
ついていて、旅をしている。
障害のある者が生きられる時代ではなかった。
「森女」には、当然、お供の者が同行していたと
思われる。そして、ある目的をもって一休を訪ねて
きた。そして一晩で“いず方ともなく”去っていった。
だから、突然の来客の要請を一休は聞き流して、
忘れていた。
それが、文明2年(1470)、一休77歳。住吉神宮で
偶然再会したことで、約束を思い出した。
その約束事とは何だったのか。これは私の想像で
しかないが・・・・。
一休を大徳寺の住持として入山させることだった
のではなかろうか。
一休は、大徳寺の「華叟」から印可を認められたが、
それを受け取らなかった。つまり大徳寺の住持になる
資格を得たが、それを拒否した。それで、大徳寺の
住持は兄弟子の「養叟」がなったが、この「養叟」と
一休は犬猿の仲で、はげしく対立した。
大徳寺の開祖「大燈国師」は 賀茂の河原で20年
乞食の行をした。一休と養叟の師「華叟」は 大徳寺から
離れ、堅田で厳しい禅の修行一筋だった。しかるに
なんぞ、養叟は、大徳寺の奥に居座り、裕福な商人たちに
禅を金で売って、私腹を肥やし、安逸に暮らしている。
それが許せんと、一休は怒った。
大徳寺は、一度焼失している。その焼失した大徳寺を
養叟は、堺の商人たちから“まきあげた”金で再建した。
臨済禅の公案の“とらの巻”を売って、公案を解けた
者に、また資格を与え、金をとる。倭寇が明から
もたらした茶壷や、茶器、書画の類を買い占めて、
法外な値を付けては、大名や公家に売って儲ける。
そうしたことを一休は唾棄し、養叟を恨み憎んだ。
大徳寺は、養叟亡き後も養叟の流れが法脈を継いでいた。
大徳寺を 開祖の「大燈国師」や、師の「華叟」の
純粋禅の精神に戻すには、一休自らが大徳寺の住持に
ならなければならない。だが、まともには大徳寺の
住持には なれない。
住吉の神宮寺は、大徳寺の開祖の薫陶を受けた「卓然」
の開創である。住吉の神宮寺としても、腐敗堕落した
大徳寺を本来の禅寺にしたい願望はあったろう。その
白羽の矢を「一休」に当てた。
はじめは、聞き流していた一休だが、住吉に住んで、
住吉神宮の津守氏の庇護を受けるなかで、大徳寺の
住持を引き受ける決心がついた。
一休は「森女」に導かれて住吉神宮との縁ができ、
そのバックアップで大徳寺に入山し、積年の養叟一派
への恨みを晴らすことができたのである。
その時、大徳寺は応仁の乱で焼かれ、焼失していた。
一休は、兄弟子養叟と同じく、堺の商人たちの協力を
得て、81歳から86歳まで、6年の歳月を要して
大徳寺を再建した。
しかし、現代のお金に換算して20億円ともいわれる
大金は、兄弟子養叟は、禅を金で売って集めたが、
一休は、篤志家からのほんとうの善意の布施で集めたと
自負している。それほど一休の人気があったということだ。
そして、大徳寺は完成しても、一休は大徳寺には入らず、
薪村で尺八を吹き、森女の膝枕で大往生した。
そして、一休最期の言葉は「一休は死なぬ。未来永劫
生き続ける」だった。そのことばどおり「華叟」も
「養叟」も我々は知らないが、「一休」の名だけは
「一休さん」と「さん」づけで、誰もが知っている。
誰もの心の中に生き続けているのだ。
88歳臨終まで、溺愛する。一休の弟子たちによって
書かれた『一休和尚年譜』には、なぜか「森女」の
ことは書かれていない。禅宗の僧であり、大徳寺の住持と
なった一休が女と同棲していたなどということは、
隠すべきことと思ったのか。
しかし、一休は自著『狂雲集』で、「森女」への愛を
赤裸々に歌っている。
それで、水上勉や小椋桂などは、一休を「エロ坊主」と
描いている。大方の書は「森女」は貧しい生まれの
辻女、旅芸人。琵琶弾きか、三味線を弾くゴゼなどと
書いている。女の琵琶法師などいるわけがない。
三味線は 一休の時代にはなかった。ゴゼは幕末から
明治の所産。こんなでたらめが平然と通ってきた。
大方の作品が、一休は 彼女の境涯を哀れんで、庵に
招きよせて 手篭めにしたとする。
しかし、一休があそこまで赤裸々に男女の交わりを
語るということは、何か裏があるとしか思えない。
また「森女」は、“無学な乞食女”とは 思えぬ
気高さと気品が感じられる。
それが「一休と森女」の謎だった。それが解けたのだ。
一休の『狂雲集』を信ずれば、「森女」は、かつて、
薪村の酬恩庵まで、一休を訪ねてきている。「森侍者」は
「余の風采を聞いて」訪ねてきたとある。そして
「森女」は[王孫」であり、その「美誉」を聞いて、
二人で ある約束事を交わしたというのである。
一休はその約束事を忘れていたが、住吉の薬師堂で
再びめぐり会って、そのことを思い出した。「森女」は
その約束を覚えていて、また相思う関係となった。
一休は「森女」のことを「一代の風流美人」といい、
「森女の深恩を もし忘れるようなことがあったら、
あの世で畜生の身に落ちるだろう」と詠じている。
一休は森女に頭が上がらないほどの深い恩愛を感じている。
「三世を約束する」ほどのそ深い恩とは、単なる男女の
情交とは思えない。
そこで、もうひとつ、住吉神宮について、大変な事実が
隠されていたことがわかった。
住吉神宮は、かつて南朝の後村上天皇の行在所であり、
南朝の遺臣の拠り所だった。また、住吉神宮は当時
神仏習合で、神宮寺は大徳寺の一世「徹翁」の弟子
「卓然宗立」の創建であった。「卓然」は住吉神宮の
神官「津守」氏の一族である。つまり、住吉は大徳寺と
深い関係があったのである。
「森女」はまさに「津守(もり)の女(娘)」であり、
「王孫」というのだから「後村上天皇」の子で、南朝
最期の天皇「後亀山天皇」の孫娘ではなかったか。
「後亀山天皇」が北朝の「後小松天皇」に「三種の神器」を
譲り渡して、南北朝の合一が成る。一休の父は、北朝の
「後小松天皇」。母は南朝の忠臣「楠木」。
そして「森女」は南朝の後亀山天皇の孫娘。二人の間には
謎めいた不思議な因縁があったのだ。
また、南朝の系統は、山伏とも深く関わっていた。
山伏の本山、京都の「聖護院」や 熊野の「天河神社」も
「森御殿」と呼ばれていたとのこと。
一休と森女は、ともに、天皇の血筋であり、南朝方と
いうことで結ばれた。
そしてまた、住吉神宮は古来、芸能が盛んで、舞楽を
伝えていた。であるから「森女」は住吉神宮の宮司の
一族で、巫女として舞楽を演ずる女性だったのである。
「森女」はある目的をもって、薪村に一休を訪ねた。
戦乱と土一揆、天変地異が相次ぎ、庶民は飢え餓死
するもの後を絶たずの荒れ狂った時代。盲目の女性が
一人、堺から薪まで歩いていけるだろうか。
越後のゴゼさえ、先導し、世話をする目明きの者が
ついていて、旅をしている。
障害のある者が生きられる時代ではなかった。
「森女」には、当然、お供の者が同行していたと
思われる。そして、ある目的をもって一休を訪ねて
きた。そして一晩で“いず方ともなく”去っていった。
だから、突然の来客の要請を一休は聞き流して、
忘れていた。
それが、文明2年(1470)、一休77歳。住吉神宮で
偶然再会したことで、約束を思い出した。
その約束事とは何だったのか。これは私の想像で
しかないが・・・・。
一休を大徳寺の住持として入山させることだった
のではなかろうか。
一休は、大徳寺の「華叟」から印可を認められたが、
それを受け取らなかった。つまり大徳寺の住持になる
資格を得たが、それを拒否した。それで、大徳寺の
住持は兄弟子の「養叟」がなったが、この「養叟」と
一休は犬猿の仲で、はげしく対立した。
大徳寺の開祖「大燈国師」は 賀茂の河原で20年
乞食の行をした。一休と養叟の師「華叟」は 大徳寺から
離れ、堅田で厳しい禅の修行一筋だった。しかるに
なんぞ、養叟は、大徳寺の奥に居座り、裕福な商人たちに
禅を金で売って、私腹を肥やし、安逸に暮らしている。
それが許せんと、一休は怒った。
大徳寺は、一度焼失している。その焼失した大徳寺を
養叟は、堺の商人たちから“まきあげた”金で再建した。
臨済禅の公案の“とらの巻”を売って、公案を解けた
者に、また資格を与え、金をとる。倭寇が明から
もたらした茶壷や、茶器、書画の類を買い占めて、
法外な値を付けては、大名や公家に売って儲ける。
そうしたことを一休は唾棄し、養叟を恨み憎んだ。
大徳寺は、養叟亡き後も養叟の流れが法脈を継いでいた。
大徳寺を 開祖の「大燈国師」や、師の「華叟」の
純粋禅の精神に戻すには、一休自らが大徳寺の住持に
ならなければならない。だが、まともには大徳寺の
住持には なれない。
住吉の神宮寺は、大徳寺の開祖の薫陶を受けた「卓然」
の開創である。住吉の神宮寺としても、腐敗堕落した
大徳寺を本来の禅寺にしたい願望はあったろう。その
白羽の矢を「一休」に当てた。
はじめは、聞き流していた一休だが、住吉に住んで、
住吉神宮の津守氏の庇護を受けるなかで、大徳寺の
住持を引き受ける決心がついた。
一休は「森女」に導かれて住吉神宮との縁ができ、
そのバックアップで大徳寺に入山し、積年の養叟一派
への恨みを晴らすことができたのである。
その時、大徳寺は応仁の乱で焼かれ、焼失していた。
一休は、兄弟子養叟と同じく、堺の商人たちの協力を
得て、81歳から86歳まで、6年の歳月を要して
大徳寺を再建した。
しかし、現代のお金に換算して20億円ともいわれる
大金は、兄弟子養叟は、禅を金で売って集めたが、
一休は、篤志家からのほんとうの善意の布施で集めたと
自負している。それほど一休の人気があったということだ。
そして、大徳寺は完成しても、一休は大徳寺には入らず、
薪村で尺八を吹き、森女の膝枕で大往生した。
そして、一休最期の言葉は「一休は死なぬ。未来永劫
生き続ける」だった。そのことばどおり「華叟」も
「養叟」も我々は知らないが、「一休」の名だけは
「一休さん」と「さん」づけで、誰もが知っている。
誰もの心の中に生き続けているのだ。