「屏風の虎」の話は明治になってから

2014-01-11 22:52:45 | Weblog
アニメの「とんちんかんちん一休さん」では、一休が
将軍さまと智慧くらべする話が度々出てくる。
「一休とんち話」の代表格は「屏風の虎」だが、江戸
時代の「一休噺」には、将軍をやっつける話は無い。

幕末に足利三代の像の首が切落とされた事件の幕府の
対応のように、足利であっても、将軍様をこ馬鹿にす
ることは、畏れ多く憚れたことであろう。

一休が、義満ではなく8代将軍義政を諌める話は、
曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』に登場する。一休が
虎の絵に例えて、将軍の享楽を揶揄する話で、虎を
捕らえるという話ではない。

『屏風の虎』は、明治の講談で初めて出てくるので
ある。『この橋渡るべからず』にしても、明治以降、
一休は大ブレークして、次々と絵本やら講談が生ま
れる。

水上勉の『一休』も、大正2年刊『一休和尚行実譜』
という講談本を紹介して一休の話を展開させている。
「奥書に元禄2年刊の原本があった」と書いているが、
どうもあやしい。
『虚竹の笛』の『和漢竹管往来』同様、『行実譜』も
水上勉の創作であったかもしれない。いかにもあり
そうな「原典」を創作して、それに拠ることで史実と
思わせるのは実に巧妙な手法だ。





居酒屋一休 ラブホテル一休 300万件!

2014-01-11 22:51:47 | Weblog
10年前、私が『尺八と一休語り』を始めた時、インターネットで
「一休」を検索すると、3万件もあって驚いた。今検索してみると
300万件を超える。10年で100倍だ。
その大半は、居酒屋、小料理、喫茶店、ホテルなどで、一休禅師
とは関係ない。 

一休がいかに親しまれているかという証左であろう。
「一休は死なぬ、未来永劫生き続ける」の遺言どおり、一休の名は
これほど多くの人の心の中に刻まれているのである。                                                  今や一休さんの名は、アニメで東南アジアまで広まり、子どもたちが
「スキスキスキスキ一休さん」と日本語で歌っているという。     

京田辺市の一休寺には、東南アジアからのツアー客が、一休さんの
絵が染め抜かれたティシャツを着て、押し寄せているという。   
でも、一休寺に祀られている一休の像を見て、あまりの乖離、ギャップ
に驚きの声を発するそうだ。

一休の実像と大きくかけ離れて一人歩きしても、居酒屋やラブホテルの
名前に使われようとも、あの世の一休さんは、平気へいき気にしない
気にしない、だろう。だからこそ600年生き続けていられるのだ。
                                                                   
                                                                             

東映アニメ とんちんかんちん一休さん

2014-01-11 22:51:27 | Weblog
TVで「とんちんかんちん一休さん」が放映されていたのは、
1975(S50)年~1982(S57)年。我々団塊の世代が
結婚して、第二次ベビーブームの世代が生まれ育った時代だ。
今30代とその親達の世代が見ていたわけだ。

最近は放映されていないので、幼稚園や小学校で一休さん
の話をしても、反応が無いのは悲しい。

東映アニメの一休さんは、クリクリ坊主でホントにかわいい。
しかし、テーマソングは実によく一休をとらえていて、3番の
歌詞は、
    お目めは かわいく 一級品
    だけど お顔は 残念だよ 三級品
    アーァ アーァ ナムサンダー
    気にしない 気にしない

である。
一休寺に安置されている一休の等身大の像は、一休最晩年87歳、
亡くなる前年に、自らの髪の毛と髭を抜いて植えつけて造られた
といわれ、超リアルである。

一休の頂相(ちんそう=肖像画)も何点か残されているが、髪も
蓬髪、無精ひげを伸ばした顔は、とても天皇のお子様とは思えない。
田舎のおっさん(田吾作どん)の顔である。アニメのキャラクターを
信じて来た人がびっくりするのも無理はない。

でも、歌詞の通り「気にしない、気にしない」 そう一休はいう。 

「髑髏になってしまえぱ、男か女か、やんごとなき姫君か、遊女かも
わからんではないか。鼻が高いの低いの、ブスも美人も面の皮一枚。
ほんのわずかの差よ」と。
そう思えたら、顔のつくりが多少まずくとも悔やむことはない。

それが、一休の禅だ。
虚無僧の普化道も、他人との比較をしない。尺八の上手下手も
問わない世界なのである。
他人の思惑を気にしなくなれば、ストレスは無くなるのである。

「虚無僧はあんな不恰好な天蓋をかぷっているの何故?」と聞かれる。

その答えの一つになるか。
私は、天蓋をかぷったままで地下鉄やバスにも乗る。
「さぞや恥ずかしかろう」と思われるかもしれないが、
いざ乗ってみると、周囲の人は意外にも、そしらぬ顔である。
世の中皆忙しい。変わった人がいても無視無視無視でなのである。
「他人はどう見るだろう」なんて期待は見事に裏切られ、そんな
心の自分が恥ずかしくなる。

他人の思惑が気にならないようになるには、虚無僧の格好で街を
歩くのが一番。ぜひ体得してみませんか。ストレス解消法に最適。








             












楽阿弥

2009-12-23 22:16:53 | Weblog
狂言に『楽阿弥』というのがある。ネットで検索すると
結構演じられている。

「旅の僧が伊勢参りの途中、伊勢の別保村にさしかかると、
何本もの尺八がぶら下がっている松の木があった。村人に
その由来を尋ねると、その昔、楽阿弥というたいそう尺八
狂いの男がいて、その霊を弔う松だという。ならばと、旅
の僧は袖の下より尺八を取り出して「自分も一曲手向けよう」
と短尺八を吹く。すると、それに合わせるかのように低い
音が聞こえてくる。それは楽阿弥の亡霊だった。

「宇治の朗庵主の序(=偈)にも『両頭を切断してより後、
尺八寸中古今に通ず』とあるように、こうして幽明境を異に
する二人が心を通わせられるのも尺八の縁かと言って消えよう
とする。そこで旅の僧が、せめて最期を語らせたまえというと。

「さらば語りなん。楽阿弥は、時と所をかまわず門付けして
尺八を吹くものだから、村人に嫌われて布施ももらえない。
またそれを腹立ちまみれにあちこち行って悪態をつくもの
だから、尺八のように、縄でしばられ、矯められ、炙られ、
のこぎりでひかれ、殺されてしまった。冥土に行っても尺八
への妄執を断ち切れずにいる。この苦しみを救ってくれ」と
言い残して消えた。


狂言だが、楽阿弥の霊が現れて、旅の僧に最期の様を語る
という「夢幻能」の形式になっている。


「1561年に京都の三好邸で演じられた」との記録があり、
狂言の中で最も古く「南北朝頃の作か」と言われている。

しかし、尺八家の目で見ると、いろいろ疑問点がある。

1.「宇治の朗庵主の頌にも『手づから両頭を切断して
より後、尺八寸中古今に通ず』」という台詞が出てくる。
これは1511年頃の『体源抄』に一休作として載っているが、
「宇治の朗庵主の」と出てくるので、「文明丁酉(1477)年
祥啓筆」と記載のある『朗庵像』を見知っていて作られた
ものである。


2. 「われらも持ちたる尺八を、袖の下より取り出だし」
は、1518年成立の『閑吟集』にある。

狂言『楽阿弥』が『体源抄』や『朗庵像』に影響を与えた
とすると、1477年以前の作となる。逆に『体源集』や
『閑吟集』から転用したと考えると、1520年以降の作となる。




楽阿弥 その2

2009-12-23 21:37:16 | Weblog
狂言『楽阿弥』には「大尺八、小尺八、四笛、半笛」が
登場する。
旅の僧が吹く尺八を、「僧正」に引っ掛けて「双調切り」。
「双調」は音程の和名でG(ソ)を基音とする尺八で
その長さは1尺3寸前後。(管の太さでずれる)。

楽阿弥は「われが吹くとかしましい(うるさい)ので」と、
「大尺八」を取り出して吹くという内容になっている。

幕末の1820年に出された『狂言不審紙』という解説本には
「大尺八は2尺5寸、小尺八1尺2寸、これ半笛。
半笛は1尺8寸の竹に8,9寸にて用いる」とある。

長さが半分になれば1オクターブ高くなることが理解されて
いたのだ。しかし、2尺5寸や9寸の尺八が江戸時代でも
実在していたとは思えない。史料や実物が現存していない
のだ。

まして、室町時代の尺八は1尺1寸ほどの「一節切り(ひとよ
ぎり」だった。江戸時代になって1尺8寸が標準となり、一節
切りを「小尺八」、1尺8寸を「大尺八」と区別したのではない
かと思うのだが、『狂言不審紙』の作者は何を元に「大尺八を
2尺5寸」としたのだろうか。全く謎である。



宇治の朗庵主

2009-12-23 17:40:21 | Weblog
宇治の庵主朗庵の図』というのがある。
(クリックして「狩野探幽」の一覧の最後に見れます)

明らかに異人(中国人)の格好だ。リールのついた釣竿を
腰につけ、手には長い尺八を持っている。その絵の上に
次のようなことが書かれてある。

「余、東奥行脚の砌(みぎり)、相州巨福路、建長禅寺に入り
 逗留した折り、祥啓が「珍しい様相だ」といって、自分の姿を
 描き記してくれた。そして「思うところを記せ」と勧められた
 ので、次の詩を書いた。

 龍頭を切断してより之後 尺八寸中古今に通ず
 吹き出だす無常心の一曲 三千里の外知音絶す

 文明丁酉秋 宇治の旧蘆にて 朗庵叟書   」

「相州巨福路建長禅寺」は鎌倉の建長寺。祥啓は、そこの画僧で
 文明10年には京都に上り、絵の修行をしている。

この絵と賛がその通りならばいいのだが、神田可遊氏は「この絵は
中国(宋)から伝わった、絵の見本帳を模写したもので、何点か
現存してい」という。しかも上段の「賛」は後で切り貼りされて
いるという。

となると「朗庵」の実在もあやしくなってくる。

この詩は『体源抄』(豊原統秋 1515頃)に、「一休の作として
載っているのと極似している。

『朗庵書』       『体源抄』

 龍頭切断而以来    龍頭切断而以来
 尺八寸中通古今    尺八寸中通古今
 吹出無常心一曲    吹出無常心一曲
 三千里外絶知音    三千里外少知音


そしてまた、狂言の「楽阿弥」に出てくる台詞とも似ている。

 「かの宇治のろうあんじゅ(朗庵主?)の尺八のじょ(偈に同じ)にも
  両とふ(頭)をせつだんしてより、尺八寸中古今に通ず、吹き起こす
  無常心の一曲 三千里の外に知音絶す」と


「宇治の庵主朗庵」は、「魯庵、露安」とも書かれ、江戸時代の書には、
「一休の尺八の友一路」とも、京都明暗寺の開祖「虚竹」とも言われるが
確証はない。



一休と世阿弥は楠一族だった

2009-12-23 17:38:24 | Weblog
3/16 中日新聞『思うままに』で宗教哲学者梅原猛氏が
書いている。最近『観阿弥と正成』という本を出したそうな。
氏は、「観阿弥・世阿弥は楠木氏と血縁関係にある」と明言
している。

伊賀の旧家、上嶋家に伝わる「上嶋家文書」の中の「観世
福田系図」に、「観阿弥の母は橘正遠の娘」と記されている。
楠木氏は橘姓なので、正遠は正成の父ではないかと考えられて
いる。上嶋文書の真偽については、東大教授の平泉澄氏や、
京大教授の林屋辰三郎氏も、正当性を証明しているとのこと。

つまり系図は

楠木正遠----正成------正勝
|        |
|        |--正儀-----正澄-----女--- 一休
|
|
 女--------観阿弥-----世阿弥

そして一休は、正勝の弟正儀の孫娘と後小松天皇との間に
生まれた子。一休と世阿弥はともに、南朝方の楠木の血が
流れていたのだ。



一休の母の手紙

2009-12-23 17:34:15 | Weblog
千葉の館山寺に「一休の母の手紙」というのがあるらしい。
後世の創作だろうが、これを創った人は、実によく一休の禅をとらえている。
内容は、

 釈迦も達磨も自分で悟りを開いたのです。釈迦は教えを説いたといっても
 一字も書き残してしはいないのです。釈迦や達磨を奴とするほどの修養を
 積めば、どこぞの寺の住職にならなくとも、俗人のままでも苦しからず。

というもの。
一休は、安国寺や建仁寺、天竜寺といった幕府の官寺を飛び出し、15歳の時、
西金寺の謙翁の下に走る。謙翁は大応の法を継ぐ人であったが、そのような
肩書きを否定し、乞食行ひと筋の托鉢僧であった。その師と仰ぐ謙翁が亡く
なると、一休は寺を継ぐ資格も無し、路頭に迷うことになる。絶望からか、
20歳の時、瀬田川に身を投げるのである。その時母の声を聞いて生還する。
この時の状況をふまえて、この「母の手紙」が創られたと私は考える。

経典は釈迦の没後500年1000年を経て、後世の僧たちによって書かれたものだ。
釈迦は一字も残していない。ならば「経典を諳んじるくらい学んだところで
釈迦のように修行をしなければ糞虫と同じだ」と母は言う。「釈迦や達磨も
僕(しもべ)となすくらいの修行を積んで、人々の苦悩を救える人になれたら、
どこぞの寺の住職なんて肩書きはいらないではないですか。俗人であったって
いいじゃないですか」というのだ。

虚無僧はこの一休を師と仰いでいる。経典も必要ない。寺も要らない、肩書き
もない、教義もない、すべては己のみ。虚無僧は「僧」であって「僧」でない、
俗人のままなのだ。一休の母がいう、衆生を救うことができたら、どこぞの坊さん
なんて肩書きはいらない。それが虚無僧なのだ。


一休さんて悪い子?

2009-02-19 00:00:38 | Weblog
一休さんて、ほんとに良い子?
 お坊さんなのに、肉や魚を食べたり、
 仏様にお尻を向けてお経をあげたり、
 和尚さんや将軍様をからかったり、
 はては、関の地蔵の開眼供養にしょんべんをひっかけたり。

どうしようもないヤンチャ坊主だ。それが愛される。
寺の権威も失われつつある現代だが、それはもう
江戸時代から始まっていた。
江戸時代の人も、一休に名を借りて、寺の坊さんを
虚仮(コケ)にして溜飲を下げたのだ。

しかし、一休のいたずらに振り回される和尚さんや
将軍さまの姿に、人は“真実”を見据えていた。
一休話に隠された真理こそ、瘋癲(フウテン)の元祖
「普化の禅」なのである。一休からフウテンの寅さん
に受け継がれて庶民に愛される「風狂の生き方」。
その元祖は普化なのである。虚無僧は「普化」を
始祖と仰ぐ生き様なのだ。


ありのままに見よ

2009-02-18 23:56:53 | Weblog
一休和尚、くねくね曲がった松の大木を
指差して、「あれがまっすぐに見える者は
おるか?」と弟子たちに問う。

みな口々に「いやぁ、どう見たって、まっ
すぐには見えませんよ」。「あれが、まっ
すぐに見えたら、目ん玉がゆがんでるんと
ちがうか」。「真上から見たらどうだろう」
などと謎解きに挑む。

「一休さん、降参です。どうしたらまっすぐ
に見えるンですか?」。すると一休さん、
すまして「あの松の木は曲がっておる」と。

みな唖然。そうだ、曲がっている物は、曲が
っていると、素直に見る心が大切。信実を
ありのままに、まっすぐに見よ、との、一休
の教えなのじゃ。

とんち話もなかなか味わい深い。