今回は58名の多くの方に参加いただき盛況となりました。
ゲストスピーカーのイーファルコンの竹野会長から「人の評価の本質を語る」という人事の本質に迫る深い話をしていただきました。
参加者からは、例えば「先日のイーファルコンの竹野さんの話は、とても勉強になりました。アセスメントなどをプロジェクトで活用することがありますが、そうしたツールを見極める際にもとても参考になった話でした。
あのような真のプロのいる所を見極める目を持つというのも大事なことなのだと思いました。」という声が寄せられています。
私のサロンでの挨拶もカンヌでグランプリを取った河瀬直美監督の「殯(もがり)の森」を観て感じるところがありましたので、「目に見えない世界の意味」としてまとめました。ご一読いただければ幸いです。
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「目に見えない世界の意味」
2007・6・23 中田研一郎
カンヌ映画祭で河瀬直美監督の「殯(もがり)の森」がグランプリ賞を得た。
直後にテレビのBSで早速放映されると知って、早速観てみることにした。
茶畑の中を葬式の行列が進む光景から始める画面は絵画のように美しく、
さすが国際的な評価を得ただけあると、期待感が大いに高まったが、
20~30分ほど観ているうちにこの映画は何を言いたいのだろうと首を傾げ始めた。
画面は繊細勝つ緻密な計算に基づいて作られていることは分かったが、
映画の筋を追っていると何がなんだか分からなくなっていることに気がついた。
そこでふと思ったことは、映画は絹のような細やかな表現で見えない世界のことを
抽象化して伝えようとしているのに、自分の心は麻袋のような粗さになってしまっているために分からないのではないかということであった。
そこで心を仕切りなおして本気で画面を見つめなおして最後まで一気に観終わった。
そして河瀬直美監督の表現したかったことに共感を覚えた。
ネットに寄せられた多くの感想を読むと駄作という非難が、
すばらしいという声より上回っていた。
カンヌの審査会でも賛否相半ばしたという。
河瀬監督は「人は死んだらどこにいくのだろう?
(中略)私もふくめた現代人はマイナスの要素を排除し快適な空間のみを追い求めるあまり、たいせつなものを確かめられない日々をすごしているような気がしてなりません。前から続いてきたこと、今あること、このさきつたえていきたいこと。
この映画が広く人々の心にとどまってゆくことを願います」と語っている。
私自身会社を退職して独立すると同時に都会を去って軽井沢に引っ越した。
ほとんど毎日東京に行っているので、田舎に引きこもっているわけではないが、
自然の空気を毎日吸っていると2年近くたった今頃になって、
ようやく今まで自分がいかに自然から遮断された生活をしていたのかということに気づくようになった。
四季の移ろいの中で、自分も自然の生命力に包まれて生きている生物でしかないということを実感できる。
物理的に見えていてもそれが心に入らなければ観えたことにはならない。
聞いていても心が受け入れなければ聴いたことにはならない。
自然を感じられないと人間の心も感じられない。
目に見えない世界は存在しないわけではなく、感じられない自分がいるだけなのではないだろうか。
先日テレビで養老猛氏がフィリピンの山奥で自給自足の生活をしている原住民と交流している場面が紹介されていた。
養老氏の趣味である昆虫採集をするため森に入って行ったが、案内の少年は数ミリの昆虫を次々に目ざとく見つけていった。
養老氏曰く「文明人は自然を自然のままに見る脳が退化しているので見えない」と。
目に見えない世界とは「殯(もがり)の森」が描く死後の人との心のつながりのこととは限らない。
生きている今の世界でも目に見えない「心」に関して、自分の感性の退化により、“感じられない”、“分からない”ことがあまりにも多くなっているのではないだろうか。
傑作といわれる芸術作品は、ほって置くとそんなに退化しやすい「心」を目覚めさせ、人間が本来持っているみずみずしい感性、感覚を取り戻させる力を持っている。
近年論理をつかさどる左脳だけでなく、感性、直感の右脳を鍛えるべきだと良く言われる。
東京都知事の石原氏の説によれば、最近の若者は知識を蓄積する左脳は十分に発達しているが、
左脳を支える脳幹の鍛えが足りないそうである。脳幹が弱いとすぐにキレ足り、諦めてしまう。
脳幹は激しい運動によって肉体的苦痛を耐えるような訓練や、精神的苦痛を乗り切るような経験をすることが良いそうである。
しかし、今更体育会系の運動をする訳にもいかないし、あえて精神的苦痛を得たいとも思わないだろう。
しかし、自分が仕事で成長したときのことを振り返ってみると、
失敗すれば明らかに自分の責任になることをあえてリスクテイクして足を踏み出した時には、
脳幹が鍛えられていたように思う。
自分で全責任を負って仕事をすれば、自分の中に普段の生活では決して感じることのない危機意識が芽生え、
眠っていた脳が生存をかけて一気に活性化するのではないだろうか。
それは研修では決して身につけることはできないし、自分の心に刻み込んで体得するしかない。
目に見えない世界を感じるしなやかな感性と、目に見えない心を鍛える強靭な意志の力の両者に共通していることは、
いずれも人間に普遍的に存在しているにもかかわらず、本人がそれを信じないがゆえに顕現してこないということである。
自分を信じるとは、自然との一体感を信じ、宇宙にまで広がる心の広大普遍さを信じるということに他ならない。
以上
ゲストスピーカーのイーファルコンの竹野会長から「人の評価の本質を語る」という人事の本質に迫る深い話をしていただきました。
参加者からは、例えば「先日のイーファルコンの竹野さんの話は、とても勉強になりました。アセスメントなどをプロジェクトで活用することがありますが、そうしたツールを見極める際にもとても参考になった話でした。
あのような真のプロのいる所を見極める目を持つというのも大事なことなのだと思いました。」という声が寄せられています。
私のサロンでの挨拶もカンヌでグランプリを取った河瀬直美監督の「殯(もがり)の森」を観て感じるところがありましたので、「目に見えない世界の意味」としてまとめました。ご一読いただければ幸いです。
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「目に見えない世界の意味」
2007・6・23 中田研一郎
カンヌ映画祭で河瀬直美監督の「殯(もがり)の森」がグランプリ賞を得た。
直後にテレビのBSで早速放映されると知って、早速観てみることにした。
茶畑の中を葬式の行列が進む光景から始める画面は絵画のように美しく、
さすが国際的な評価を得ただけあると、期待感が大いに高まったが、
20~30分ほど観ているうちにこの映画は何を言いたいのだろうと首を傾げ始めた。
画面は繊細勝つ緻密な計算に基づいて作られていることは分かったが、
映画の筋を追っていると何がなんだか分からなくなっていることに気がついた。
そこでふと思ったことは、映画は絹のような細やかな表現で見えない世界のことを
抽象化して伝えようとしているのに、自分の心は麻袋のような粗さになってしまっているために分からないのではないかということであった。
そこで心を仕切りなおして本気で画面を見つめなおして最後まで一気に観終わった。
そして河瀬直美監督の表現したかったことに共感を覚えた。
ネットに寄せられた多くの感想を読むと駄作という非難が、
すばらしいという声より上回っていた。
カンヌの審査会でも賛否相半ばしたという。
河瀬監督は「人は死んだらどこにいくのだろう?
(中略)私もふくめた現代人はマイナスの要素を排除し快適な空間のみを追い求めるあまり、たいせつなものを確かめられない日々をすごしているような気がしてなりません。前から続いてきたこと、今あること、このさきつたえていきたいこと。
この映画が広く人々の心にとどまってゆくことを願います」と語っている。
私自身会社を退職して独立すると同時に都会を去って軽井沢に引っ越した。
ほとんど毎日東京に行っているので、田舎に引きこもっているわけではないが、
自然の空気を毎日吸っていると2年近くたった今頃になって、
ようやく今まで自分がいかに自然から遮断された生活をしていたのかということに気づくようになった。
四季の移ろいの中で、自分も自然の生命力に包まれて生きている生物でしかないということを実感できる。
物理的に見えていてもそれが心に入らなければ観えたことにはならない。
聞いていても心が受け入れなければ聴いたことにはならない。
自然を感じられないと人間の心も感じられない。
目に見えない世界は存在しないわけではなく、感じられない自分がいるだけなのではないだろうか。
先日テレビで養老猛氏がフィリピンの山奥で自給自足の生活をしている原住民と交流している場面が紹介されていた。
養老氏の趣味である昆虫採集をするため森に入って行ったが、案内の少年は数ミリの昆虫を次々に目ざとく見つけていった。
養老氏曰く「文明人は自然を自然のままに見る脳が退化しているので見えない」と。
目に見えない世界とは「殯(もがり)の森」が描く死後の人との心のつながりのこととは限らない。
生きている今の世界でも目に見えない「心」に関して、自分の感性の退化により、“感じられない”、“分からない”ことがあまりにも多くなっているのではないだろうか。
傑作といわれる芸術作品は、ほって置くとそんなに退化しやすい「心」を目覚めさせ、人間が本来持っているみずみずしい感性、感覚を取り戻させる力を持っている。
近年論理をつかさどる左脳だけでなく、感性、直感の右脳を鍛えるべきだと良く言われる。
東京都知事の石原氏の説によれば、最近の若者は知識を蓄積する左脳は十分に発達しているが、
左脳を支える脳幹の鍛えが足りないそうである。脳幹が弱いとすぐにキレ足り、諦めてしまう。
脳幹は激しい運動によって肉体的苦痛を耐えるような訓練や、精神的苦痛を乗り切るような経験をすることが良いそうである。
しかし、今更体育会系の運動をする訳にもいかないし、あえて精神的苦痛を得たいとも思わないだろう。
しかし、自分が仕事で成長したときのことを振り返ってみると、
失敗すれば明らかに自分の責任になることをあえてリスクテイクして足を踏み出した時には、
脳幹が鍛えられていたように思う。
自分で全責任を負って仕事をすれば、自分の中に普段の生活では決して感じることのない危機意識が芽生え、
眠っていた脳が生存をかけて一気に活性化するのではないだろうか。
それは研修では決して身につけることはできないし、自分の心に刻み込んで体得するしかない。
目に見えない世界を感じるしなやかな感性と、目に見えない心を鍛える強靭な意志の力の両者に共通していることは、
いずれも人間に普遍的に存在しているにもかかわらず、本人がそれを信じないがゆえに顕現してこないということである。
自分を信じるとは、自然との一体感を信じ、宇宙にまで広がる心の広大普遍さを信じるということに他ならない。
以上