喜怒哀楽の人間学
少年は両親の愛情をいっぱいに受けて育てられた。殊に母親の溺愛は近所の物笑いの種になるほどだった。
その母親が姿を消した。庭に造られた粗末な離れ。そこに籠つたのである。結核を病んだのだつた。近寄るなと周りは注意したが母恋しさに少年は離れに近寄らずにはいられなかった。
しかし、母親は一変していた。少年を見ると、ありたけの罵声を浴びせた。コツプ、お盆、手鏡と手当たり次第に投げつける。
青ざめた顔。長く乱れた髪。荒れ狂う姿は鬼だった。少年は次第に母を憎悪するようになった。哀しみに彩られた憎悪だった。
少年六歳の誕生日に母は逝った。
「お母さんにお花を」
と勧める家政婦のオバサンに少年は全身で逆らい、決して柩の中を見ようとはしなかった。父は再婚した。少年は新しい母に愛されようとした。だが、だめだつた。
父と義母の間に子どもが生まれ、少年はのけ者になる。
少年が9歳になって程なく、父が亡くなった。やはり結核だった。その頃から少年の家出が始まる。公園やお寺が寝場所だった。公衆電話のボックスで体を二つ折りにして寝た子どもある。
その度に警察に保護された。
何度目かの家出の時、義理母は父が残したものを処分し、家をたたんで蒸発した。それから少年は施設を転々とするようになる。十三歳の時だった。少年は知多半島の少年院にいた。もういつぱしの「札付き」だった。ある日、少年に奇跡の面接者が現れた。泣いて少年に柩の中の母を見せようとした家政婦のオバサンだった。
オバサンはなぜ母が鬼になったかを話した。死の床で母はオバサンに言ったのだ。
「私は間もなく死にます。あの子母親を失うのです。幼い子が母と別れて悲しむのは、優しく愛された記憶があるからです。憎たらしい母なら死んでも悲しまないでしょう。あの子が新しいお母さんに可愛いがってもらうためには、死んだ母親なんか憎ませておいたほうがいいのです。そのほうがあの子は幸になれるのです」
少年は話を聞いて呆然とした。自分はこんなに愛されていたのか。涙だがとめどもなくこぼれ落ちた。札付きが立ち直ったのはそれからである。
作家・西村滋さんの少年期の話である。
91歳で亡くなられました。合掌🙏🏿
喜怒哀楽に満ちているのが人生である。喜怒哀楽に彩られたことが次々に起こるのが人生である。だか、その表面だけを掬い取り、手放しで受け止めてはなるまい。喜怒哀楽の向こうにあるものに思いを馳せつつ人生を歩みたいものである。
その時、人生は一層の深みを増すだろう。われわれが人間学を学ぶ所以もそこにある。
中江藤樹の言葉がある。
「順境に居ても安んじ、逆境に居ても案じ常に担蕩々として苦しめる処なし。これを真楽というなり。萬の苦を離れてこの真楽を得るを学問のめあてとす。」
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