100円ショップを全国展開するダイソーの矢野博丈社長(71歳)。
その「ネガティブ過ぎる 経営哲学」は度々話題になるが、円安時代に突入して再びその語録がネット上で話題に なり、「ある意味凄い考え方だ」と脚光を浴びている。 ...
社長自ら危機感を煽って社員も 調子に乗らないそのように仕向けているようにも感じる発言、トップシェアのダイソー だからこそ、競合も次々 ... しかしこういう発言を続けることで、これも常に顧客に対して 慢心にならない、手抜きの無い経営、言葉を替えればポジティブに伝える事 ..
1967年3月、中央大学理工学部二部土木工学科卒業、工学士。
父親は広島で高額所得者の常連だった医師で、兄弟達は国立大学医学部に進学した医業一家に育つが、自身は私立大学の2部に進学した[1]。
学生結婚を機に現姓名に改姓・改名。
妻の実家のハマチ養殖業を継いだが3年で倒産、700万の借金を負い夜逃げ[2][1]。
その後、セールスマン、ちり紙交換、ボウリング場勤務など、9回の転職を重ねた後1972年、雑貨をトラックで移動販売する「矢野商店」を創業した。
移動販売とはいわゆる「バッタ屋」と呼ばれる販売手法で、倒産した企業や資金繰りが苦しくなった企業の在庫品を格安価格で買い取り、安値で売る商売である[3]。
スーパーの店頭や催事場、公民館前の空き地などで商品の陳列、補充、会計までを一人で行い、会場を移動しながらこれを続ける。その後均一価格での商売に弟子入り。
当時「100円ショップ」という概念はなかったものの、100円など均一価格での商売は既にあった。矢野の場合は値段を元々100円以外も付けていたが、忙しくてラベラーが間に合わず、100円均一にしたという。
1970年代のオイルショックなどで仲間は次々辞めたが、1977年のれん分けの形で「大創産業」として法人化。まもなく大きな転機が訪れた。この頃大創産業はダイエーに6割の商品を卸していた。
ところが、あるとき中内功オーナーが「催事場が汚くなるから、ダイエーグループは100円均一の催事は中止する」と言ったという。
そこで矢野はどうしたら会社が潰れなくて済むかと考えて、ダイエーの客が流れるところに100円ショップを作った。
これが常設店舗による今日の形態の100円ショップの始まりである。
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1987年「100円SHOPダイソー」の展開に着手し、1991年最初の直営店を高松市に出店、チェーン展開を本格化させた。
100円ショップはバブルが弾け、長期不況に突入した1990年代後半から急速に売上げを伸ばした。
また同業他社の参入もあり業界が活性化、店舗網が全国に広がり新しい小売業として認知された。
マスメディアで度々取り上げられたこともあって大創産業も急成長し、2007年3月期、国内2400店舗、海外400店舗、売上高3300億円の100円ショップのトップ企業となった。
矢野はいわゆる経済団体に参加せず、経済誌などのインタビューもほとんど受けないため、マスメディアにあまり登場することはない。
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