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当たり前のことができる毎日はなんと幸せなのか

2016-02-19 07:05:05 | ブログ

当たり前のことができる毎日はなんと幸せなのか


「ああ、分かっちゃいなかった!」

 と、“その時初めて知る”経験は、誰しもあると思う。私の場合、60歳を超えとみに多くなった。

 思い込みが強く頑固な性格なのが、普通の気付きを遅らせているのかもしれない。最近得心しているのは、今までの人生で「こうと思い込んだこと」の8割方は、間違っていたり、見当違いだったり、全く本質をみていなかったり・・・ということである。

「人は分からないもの」と次第に痛感

 例えば、私は常に何かにチャレンジしていないと息苦しく感じてしまい、皆そうなのかなあ、と考えていた。しかしながら、安全、安心が確保されて初めて実力が発揮できるタイプの人が存在することも事実で、むしろ後者の方が大多数なのかもしれない、ということに気付いた。

 また、見栄や体裁を気にして自分の弱点や恥を人前でさらすのを極端に嫌う人も多い一方で、それらをさらりと言える人の中になかなかの人物がいらっしゃる、ということ。

 もう一つ、内実も外見も謙虚で優しく、粛々と仕事をこなす人格者と言えども、その裏に隠されているダークサイドが存在して初めてバランスを保っている方々もいらっしゃる、ということ。

 その逆も真であり、一見悪人が内実素晴らしい精神性を持ち合わせていることも多いこと。

 人材関連の仕事に長年携わる中で、つくづく「人は分からないものだ」と痛感するようになった。複雑で奥の深い「人材」というものに関わっているので、このような経験が比較的多いのかもしれない。だが、それだけではない。それ以外のジャンルでも「その時初めて知る」という経験が最近増えているのである。

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当たり前のことができなくなってくる

 昨今、AI(人工知能)やロボティクス技術が花盛りである。NHKのロボティクス選手権を見ると、ここまで来たかという思いと、まだこの程度なのか、という失望の双方を感じる。

 同時に、人間とは途方もない存在であることに気付かされる。人はある動作を実行するのに、状況を詳細に分析し、その都度、瞬時の判断をして、行動プロセスをプログラミングし、それを脳から筋肉に伝え、行動を起こしている。

 膨大なシステムプロセスを瞬時に作成すると同時に、状況に応じて調整し、再プログラミングし、それを順次必要部位に伝え、その動作を行っているのだ。

 できあがった自然の造形物は素晴らしいと考えることもできるが、それに近づこうとすると、人の浅知恵はまだまだ到底自然の力には及ばないことも思い知らされる。

 だが、そうした“自然の造形物”も、中年以降になると、当り前な行動や反応に一部支障を来たすようになってくる。

 そんなことはもっと先のことだ、と思っている40代の諸兄も多くいらっしゃると思うが、例えば、足がもつれることなく100メートルを全力疾走できるか? 複数の仕事を同時に遅滞なく、ある品質で完遂できるか? 徹夜の仕事の次の日、通常通り仕事がこなせるか? 最近会った人の名前を覚えているか? 昼飯にラーメン、チャーハンのフルセットを食べても胃がもたれないか? などなど、若い時に平気でできた多くのことができなくなっていることに気づくはずだ。

あのときにチャレンジしていれば・・・

 これは肉体的な限界と気力の限界の二手に分かれるのだが、不思議なことに気力のピークは肉体的なそれと比べ個人差が大きく、75歳になっても気力の灼(あらた)かな方もいれば、50歳で体力の衰えと比例して気力も落ち込んでしまう人もいる。

 だが、気力、体力も充実した「人生の旬」の時期、いわゆる「心、技、体」が充実した期間に、何のチャレンジができるか? とはなかなか考えられないのである。その渦中にいる時には気付かず、その時期を過ぎてから改めて「ああ、あの時期が旬だった」「あの時にチャレンジしておけば」と気付かされるのである。

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 チャレンジした結果がどうであれ、チャレンジしなかった自分と比較した際、自分自身に納得することができる。この「納得感」が貴重なのである。

 チャレンジした結果、さまざまな波乱に遭遇して初めて平凡な家庭の幸せに気付くのも、実は似た現象だ。平凡な毎日を過ごしている時にはなかなかこれに気付かない。これらは人生の一つのパラドックスと言える。

 賢い人々はそれが分かっていて、転ばぬ先の杖を常に用意しているのかもしれないが、そう単純に世の中はできておらず、その人々にはその人々なりのどんでん返しのドラマが用意されている。一方、波乱万丈の苦労人生の中で稀有な人徳を獲得される方々も存在する。

 人生には「その時初めて知る」ということが満載で、自身の「目の昏(くら)さ」には気付きにくいということらしい。

人は肉体の衰えと引き換えに精神の充実に向かう

 一方、気力と精神性は少々ニュアンスが異なり、気力は充実しているが精神的な「時熟」(人間性の完成)という意味では幼い方も存在する。人としての精神性の充実という観点では、50歳前後でようやく世の中の理(ことわり)のようなものが見え隠れしてくる。今まで「そうではないかな~」と思っていた、いくつかが線となってつながり始め、ある考え方を形作るという経験をするのも事実である。

 いやむしろ、精神の時熟は65歳を過ぎてから、という説もある。ある作家の「人は死に向かって人間を完成させてゆく」という言葉があるが、肉体の衰えと引き換えに精神の充実に向かうとすれば、それは願ってもないことであり、老いを生きる意味が生まれてくる。興味深い話である。

 今の60歳は、昔と比べ体力、気力に溢れている方も多いのだが、体力、気力の維持とは別に、精神性の時熟を追い求める人が最近激減しているような気がしてならない。

 昔は長老という精神的支柱が存在した。せっせと老化防止に精を出すのも結構なことだが、外見ばかりで内面は発想も感性も精神性も取るに足らない老人となってしまうのは大変残念なことである。ましてや、この精神性は死ぬまで発展を続けるのが本当なら、もったいない話だ。

 以下は、好きな作家の言葉だが、読み返すたびに自分の目の昏さを思い知らされ、また、現在の仕事をまだこれから10年ほど続けられるであれば、それはそれで望外な幸せである事が分かるのである。

「その時初めて人間は分かるのだ。歩けることは何と素晴らしいことか、自分で食べ排泄することは何と偉大なことか、さらにまた頭がしっかりしていて多少哲学的なことも考えられるというのは、もしかすると1億円の宝くじを当てたのにも匹敵する僥倖(ぎょうこう)なのかもしれない。こういうことは中年以前には決して考えないことだった」

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