公文で九年

公文式教室を9年間経営していた学習塾経営者です。
公文教室とはどういうものか私の視点で公開したくなりました。

発達遅滞

2019-11-04 | 雑記
先日テレビで、発達遅滞のところがあるにもかかわらず、特殊な能力を活用している人たちの特集を見ました。

遅れのあるところばかり問題にせず、
当人の「嫌い」に目を向け「好き」なところを伸ばしてあげたほうが良い、
というような流れでしたけれども。

くもん教室でも、診断がついている子ばかりでなく、
発達遅滞気味の子どもたちがかなり来るのではないかと思います。
学校の授業進度にかかわらず、その子に応じた「できること」を増やしていくという学習の仕方は
何かしら「遅れ」のある子どもたちに向いた学習法であると言えますから。

実際、授業式の塾や学校では不可能な、特殊な個人対応が廉価で可能と思われているかもしれません。
でも、もちろん、
そういう子どもたちへの対応は少なくとも五割増しぐらいには手間暇がかかります。
うちの教室の場合はもう
完全に「私の趣味」「ボランティア」と思っていて
赤字にならなければいい、というレベルですから問題ありませんが
高額のロイヤルティを納めなければならないくもん教室では大変ですね。

とはさておき。
私がそのテレビ番組を見てイラッときたのは
そういう特殊能力を持っている人というのは
オリンピックの金メダリストと同じぐらいしかいないでしょうに・・・・・・ということ。
読み書き計算ができなくても、他人と話ができなくても
「嫌い」なら無理にやらせることはないというカンジに受け取れたところ。

うちの教室では、学校の授業についていけない「遅れのある子」に
「読み書き計算」を教えようと日々努力を重ねています。
時には「やりたくない」と大泣きする子に
「やるべきことはやりなさい」と強制することもあります。
もしかしたら、この子達にも特段に優れた潜在能力があって、
それを伸ばしてやれれば、嫌なことを無理にさせなくてもいいのかもしれません。
普通であれ、と願うことが特殊能力の芽をつぶしかねないというのもわかりますが
やはり、10年後・20年後のこの子達の生活ということを考えると
読み書き計算や他人との意思疎通ということはできるようになっていないと困る、
と、思えるのです。

15人に一人、ともいわれる発達遅滞、
個人の教室でできることには限りがありますけれど
特殊な才能の見いだせない「遅れのある子」でも
社会人として生活していけるように手助けをしてあげたいものです。


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